井伊直政
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
井伊 直政(いい なおまさ 永禄4年2月19日(1561年3月4日) - 慶長7年2月1日(1602年3月24日))は、戦国時代の武将。徳川四天王の一人。幼名は万千代。通称は兵部。
22歳まで男の中の男として家康を相手に腕相撲に励み、戦国武将としては遅く元服したが、外交、武勇に優れた才覚を発揮し飛ぶ鳥を落とす勢いで出世、最終的には彦根藩35万石の初代藩主となった。
「井伊の赤鬼」と言う通称で知られる。この二つ名は彼が赤備えと呼ばれる部隊を率いていた勇猛果敢な猛将であり、物凄い辛いもの好きで、しばしば顔を紅潮させたり、返り血で顔を真っ赤に染めていたのが赤鬼を彷彿とさせたこと、また猫被りな一面もあり、彦根城のイメージキャラクターひこにゃんは直政の猫被りな性格に由来している。高坂昌信とは四天王の美形要員(しかも寵童上がり)であることや猫被りでやきもち焼きな性格など共通点が多い。
[編集] 生涯
今川家の名門譜代井伊直親の長男。幼少時からその美貌は家中に知られており、性欲を抑圧しきれなくなった主君の今川氏真はまだ赤ん坊である彼とホモ・セックスに興じようとする。無論そんなことしたら直政が命の危険に晒されるため父直親はこれに猛反発したが、これが氏真の不興を買って粛清されてしまう。
その後は高天神城攻めなど武田家攻略で武勲を存分に挙げるなど、単なる性欲処理の道具ではなく武将としても徳川家中で頭角を現していった。しかし甲斐攻略の最中、家康が武田家臣小山田信茂を篭絡しようと書状のやり取りをしているのをラブレターを送っていると勘違いし激しい嫉妬心を燃やし、信長に裏から手回しして降伏してきた信茂を有無を言わせず処刑させ、他にもやはり織田・徳川の調略で降った穴山梅雪に対して、やはり家康とラブレターのやり取りをしていたのではないかと嫌疑を懐き、本能寺の変後堺から共に帰還する道中土民の襲撃に見せかけて殺害するなど、ヤンデレの片鱗も垣間見せ、家康を震え上がらせたと言う。
家康が甲斐、信濃を併合すると、直政は武田家の遺臣を任せられ、武田の猛将山県昌景のコスプレを無理矢理させられ、その恥ずかしい格好で戦場に出ることを強制させられた。初めの内こそ恥ずかしがっていた直政だが、一年もたたないうちにすっかり乗り気になり、自ら「赤鬼」を名乗って通常の3倍のスピードで戦場を疾駆した。だが鬼のコスプレをしている内に心まで鬼となってしまい、僅かな落ち度でも厳罰に処するなど部下に対して厳しく当たるようになり、「人斬り兵部」と言うめでたくない渾名をつけられてしまった。無論、これには理由があり、家康が次第に直政に飽き初め夜伽の相手をしてくれなくなったためストレスが累積し、それが部下に八つ当たりと言う形で表に出たのである。
1590年の小田原北条氏攻めでは堅固な小田原城の守りを内側から崩すべく家康によって無理矢理女装させられ敵陣に忍び込み小田原城に潜入、内側から敵の守りを崩す大功を挙げる。戦後家康が関東に移封されると、直政は徳川家臣の中では最も高い石高の関東上野国箕輪12万石を与えられる。
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[編集] 人物
- その美貌を生かしての色仕掛けによる他国との交渉役も務めた。男色を全く嗜まなかった秀吉さえも直政に恍惚としてしまい直属の配下にしようと工作を巡らしたほどである。か弱いノンケの青年のフリをして敵を油断させて首を掻っ切るなど、暗殺の腕も服部半蔵に匹敵するほどであった。
- 直政の美貌は隣国にも聞こえ、武田や北条との戦いにおいては、彼の部隊が(性的な意味で)真っ先に狙われたという。それらの多くは勇猛な直政に悉く返り討ちにされ、彼の武勲に華を添えるだけであったが、返り討ちにされた足軽達はむしろ本望だったかも知れない。
- 直政が家康の寝床に襲撃を掛けた武田の忍者を討ち取ったという武勇伝があるが、この刺客が家康の命よりもむしろ直政のケツ穴を狙っていたことは間違いない。
- 極度に戦場で興奮すると鎧をパージして赤いフンドシ一丁で戦う。彼のフンドシは所謂鬼のパンツであり、被るとバーサク状態になる代わりに全てのステータスが2倍になる。
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