強盗慶太

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ご冥福を祈るフリをしないと東急グループに不穏分子としてマークされます。

強盗慶太(ごうとうけいた 本名・五島慶太)とは窃盗集団、T.K.Kまたの名を盗急の初代団長として君臨した男のことである。関西の犯罪組織、犯急の団長、小林一三と合わせて、「西の小林、東の五島」と言われた。

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人物・経歴[編集]

出生[編集]

1882年長野県の貧しい村で生まれる。その中でも、慶太の生まれた小林家は比較的裕福な家庭であった。慶太は非常に勉学家で成績も優秀、東大の前身である東京帝国大を卒業した。しかし父の起業の失敗により家計は決して安泰とは言えず、慶太自身も家庭教師の仕事でなんとか学費を稼いでいた。この経験が慶太の金に対する異常なまでの執着を生み、また東大レベルの頭であるがゆえに周囲を軽蔑する癖が付いてしまい、これが慶太が関東最大の窃盗集団、T.K.Kを築き上げる原動力になったと言われている。

犯罪組織入団[編集]

東京帝国大を卒業した慶太は見合い結婚で婿入りし、苗字を五島と改める。その後鉄道院で働くことになった。しかし慶太はこの時に鉄道業界を乗っ取ってしまおうという野望を持ち始めるようになり、鉄道院総裁になって鉄道業界の富を一手に集めてようと目論んでいた。しかし、出世のしにくい環境に不満を抱いていた慶太は、次第に窃盗行為に手を染めるようになり、裏社会からは一目置かれた存在になっていた。

そんな慶太に黒服の男が現れる。現在の東横線を運営していた武蔵電気鉄道の社員である。そして、武蔵電気鉄道の実態は鉄道会社の名を借りた犯罪組織であった。入念な手回しによる証拠の残さない窃盗を行うこの組織に慶太はすっかり惚れ込み、武蔵電気鉄道にヘッドハンディングされる。肩書きは常務だが、本当の地位は窃盗の計画、指示の担当である。以後類稀なるカリスマ性で内部抗争を勝ち抜き、T.K.Kを拡大させていった。

犯行の手段[編集]

武装して、一夜のうちに被害者の土地を占領または大量の株券を金庫から盗むという卑劣な手段を取った。この方法で慶太は被害会社のトップ株主となり、被害会社はT.K.Kに無理やり組み込まれることとなった。

火事場泥棒でも知られ、大震災や戦争といった「好機」は余すことなく利用した。東工大関東大震災でボロボロになって警備の甘くなった時にT.K.Kに急襲され、土地と高価な研究器具及び研究結果を盗まれた。のちに現キャンパスの大岡山の土地を使わせて貰うことで、東工大はT.K.Kと和解した。

罪歴[編集]

高級住宅街、田園調布の土地の強奪
渋沢栄一が進めていた田園調布開発の先見性を目論んで、慶太がその土地を奪取することを目論んだ事件。当時土地を持っていた目黒蒲田電鉄(現在の東急多摩川線目黒線を運行)のトップを誘拐して、代わりに土地を差し出すよう要求した。結果、慶太は田園調布の土地45万坪を入手、後日土地代が高騰した時に売りに出したことで巨万の富を得た。
目黒蒲田電鉄の強奪
田園調布の土地を奪われて虫の息だった目黒蒲田電鉄に、さらに追い打ちをかけるようにT.K.Kが電鉄の電車をトレインジャック。乗客の命と引き換えに目黒蒲田電鉄の経営権をT.K.Kに引き渡すよう要求した。もはや経営困難だった目黒蒲田電鉄は、経営権をT.K.Kに渡すと同時に乗客を開放してもらった。このことがきっかけで目黒蒲田電鉄は消滅した。
夜間に池上電気鉄道の株の窃盗
1933年7月に東京川崎財閥の金庫から池上電気鉄道の株券すべてを盗み、一夜にして池上電気鉄道をT.K.Kの下部組織に取り込んだ。しかしこの時に得た資金の一部が、慶太の友人だった東京市長候補の選挙費用に流れ込んだという疑惑が発生し、遂に慶太が御用となった。しかしT.K.Kが裁判所に賄賂を渡したため、二審で無罪となり、慶太は釈放された。
三越店集団強盗(未遂)
三越百貨店を一斉に襲い、金品を強奪しようと目論んだ事件。この事件では、T.K.Kに大型店舗を襲うノウハウが無かったことに加え、三越を運営する三井財閥が警備員を大増強したため、未遂に終わった。犯急の小林一三に援助を頼んだが、「百貨店強盗はT.K.Kにはまだ早い」として断られた。
地下鉄乗っ取り事件
地下鉄銀座線をトレインジャックし、乗客の命と引き換えに、銀座線の経営権をT.K.Kに引き渡すことを要求した。思い通りに地下鉄の路線が敷かれない事態に慶太が痺れを切らしたことで発生した。最後は当時の東京地下鉄道株式会社のトップ、早川徳次が退任したことで、乗客全員が開放された。
大盗急建設
T.K.Kと軍部が繋がった闇の事件。戦時中、関東中の私鉄が経営難に陥る中、慶太は政府からの私有鉄道の運営の合理化の要求を建前に、私鉄会社を次々とT.K.Kに組み込んでいった。経営難ゆえ土地を盗まれても何も言えず、何より軍の後ろ盾もあり被害者は泣き寝入りするしかなかった。この最も繁栄したT.K.Kを大盗急という。この事件の被害者は鉄道会社では小田急京王京急ほか、バス会社も挙げると切りがない。戦後、GHQに目を付けられ、解体された。

対西武抗争[編集]

宗教法人である西武鉄道とはいざこざが絶えなかった。箱根山での両者の衝突は特に有名であり、西武の私有道路から東急バスを追い出したことから始まった「箱根山戦争」は、T.K.Kと西武が武装衝突した大事件であった。結局、この戦いは西武の道路を神奈川県が買い取って県道にすることで決着した。西武の教祖である堤康次郎氏が道路売却で利益を得るために目論んだのがこの戦争とも言われるため、勝者は西武である。

この鬱憤を晴らすかのようにT.K.Kは伊豆で西武の領土に侵攻。今の伊豆急行の線路を奪取した。

晩年[編集]

1944年に身分を隠して東条英機内閣の運輸大臣になったが、終戦後GHQに見咎められ、公職追放となった。その後もT.K.Kのトップとして、東映の映画フィルムを窃盗したり、百貨店、白木屋の店舗に急襲したりするなど、相変わらずの「強盗慶太」っぷりであった。ちなみに白木屋強盗はホテルニュージャパン横井英樹氏と組んでいた。三越の事件を省みて、協力者の必要性を認識したからである。1959年に横井氏と共に東洋精糖の砂糖を盗み、ロンダリングして売るという計画を練っていたが、その最中に永眠。最期まで野盗であった男の生涯が幕を閉じた。

関連項目[編集]