丹羽長重

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丹羽 長重(にわ ながしげ)は、戦国時代後期に活躍した戦国武将。信長に抜擢され、米屋から栄達した丹羽長秀を親父に持つ。親父同様築城に卓越した才能を発揮し、父以上のポテンシャルを内包していたのだが、乱世を生き抜く戦国武将であれば具備してしかるべき狡猾さを持っておらず、根回しや権謀術数に暗かった為、豊臣秀吉前田利長などにいいように翻弄され、一時は無一文の浪人にまで凋落してしまった不幸な人物である。

家督相続[編集]

父、丹羽長秀は、織田信長が本能寺で横死した際、信長の三男織田信孝に随伴し、畿内にいた。つまり信長を弑逆した明智光秀から最も近い位置にいたことになる。僅かな手勢を連れて堺にいた徳川家康と異なり、信孝、長秀は充分な軍勢を引き連れていたので、その気になれば光秀を討伐し、長秀は信孝を擁立して天下に覇を唱えることもできた。ところが、長秀は名前ばかりか脳味噌までもニワトリ水準だったようで、信孝の従兄弟にあたる津田信澄に矛先を向け、本能寺の変の混乱に乗じて殺害するという奇行をやらかす。

長秀、信孝としては、信長亡き後の玉座を巡って争うであろう仮想敵を潰し、地盤固めを行う意図があったらしいが、こんな内ゲバをやらかしてる間に豊臣秀吉が中国地方からUターンで戻ってきて光秀を成敗し、あっさりと信長の後釜に納まってしまった。

その後、秀吉は対立する柴田勝家を滅ぼし、その領地であった越前が長秀に与えられた。名実ともに長秀は秀吉に臣従したことになる。秀吉に抵抗した信孝は自害させられ、自身は秀吉に出し抜かれ、消沈した長秀は大腸癌を煩う。秀吉にあしらわれた上病に伏した長秀は絶望し、病床で自分の腸を抉り出し、握りつぶして自殺した。

転落[編集]

この時、長重はまだ14歳程度であった。家督を継承し、父の遺領である越前北庄120万石を領有することとなった長重、ところが、間もなく不行跡を咎められ、大幅に領土を減らされてしまう。越中の佐々成政攻めに従軍した際、勝手な行動を取り、領土を召し上げられる。更に、九州の島津征伐に従軍した際も、勝手に軍を動かしたかどで領土を減らされ、120万石近くあった所領はたった3分の1以下まで減らされてしまう。

不行跡などというのは口実に過ぎず、秀吉が長重が若年で未熟なのをいいことに手玉に取って落とし穴に嵌めたのは明白である。さらに、秀吉は領土のみならず、人材までも強奪していった。父、長秀が抜擢した優秀な家臣達の多くが秀吉にヘッドハンティングされ、その直属として抜擢、大幅に領土を減らされた長重以上の石高で召抱えられることとなる。ヘッドハンティングされた人材の内、有名なのは後に五奉行の一人として豊臣政権の理財に貢献した長束正家である。正家は長重の軽薄な振舞いに諫言したそうだが、長重はそれを無視してやりたい放題しており、諫言も聞き入れない軽率で狭量な君主に辟易していた所を、秀吉に勧誘され、その度量の大きさに感服して秀吉の直属になった、というのが正家のヘッドハンティングの顛末らしいのだが、当然長重を裏切ったことを正当化するための名目に過ぎない。正家は長重を見捨てただけである。

秀吉によって酷い搾取にあった長重だが、表向きは秀吉を恨むことなく、忠勤に励んだ。秀吉によって酷い目に会わされた伊達政宗最上義光藤堂高虎などは、水面下で家康に接近してゆく。

長重は、徳川家とそこそこ親しかったようだが、政宗や高虎ほど、露骨に家康に接近し、追従した形跡はない。 領土を没収され、人材を引き抜かれるという仕打ちをうけながら、長重はひたすら秀吉への臣従に肝胆を砕いていた。 愚直と言えば聞こえはいいが、泥棒に追い銭をくれるようなただの阿呆としか言いようが無い。

関ヶ原[編集]

やがて秀吉が没し、徳川家康が重い腰を上げて天下人の座を狙い手練手管を巡らすようになる。そして覇道を歩む家康の前に石田三成が立ち塞がり、関ヶ原の合戦が勃発する。

長重は、三成に荷担し、東軍に同調して家康を援護した前田利長を攻撃した為、戦後所領を没収された、と、加賀藩の史料は伝えている。 だが加賀藩の史料が伝える記述は加賀藩初代藩主である利長の悪辣で姑息な日和見、弥縫策を粉飾する為の歪曲である。 実際には、長重は利長の日和見の為の道具としてまんまと利用されたに過ぎない。

事の顛末はこうである。家康に脅され、萎縮して母親を人質に差し出し恭順を誓ったヘタレの利長、しかしヘタレに見えて端倪すべからざる狡猾さを具備しており、大谷吉継が自分の城に奇襲をかけようとしているだのあれこれ口実をつけて加賀に引きこもり、家康の本営に参陣しなかった。 当然、家康は催促してくる。日和見の口実を手に入れたい利長は、所領を隣り合わせる長重を利用することを思いついた。

もともと利長と長重は領土が隣接することもあって何かとトラブルがあり、あまり関係は良好ではなかった。利長は、斥候を派遣しては長重の領土を侵食し、小規模な陽動を行い、長重を挑発した。そして長重はまんまと挑発に乗ってしまい、利長を攻撃した。利長は長重相手に適当にのらりくらりとあしらい、関ヶ原本戦が一日で決着してしまったことも幸いして、名目上東軍を支援した形で、日和見したまま殆ど自軍に被害を出すことなく天下分け目の戦いを乗り切った。

一方で、山車に使われた長重は西軍に荷担したとみなされ、所領を没収された。没収された所領は前田利長のものとなった。踏んだり蹴ったりである。 何がなんだか分からないまま改易されてしまった長重は、大徳寺に逼塞し、10年近くニート生活を送る事になる。

復調[編集]

利長の悪辣な策謀によって西軍荷担の烙印を押され、領土を召し上げられてしまった長重。しかし炯眼な家康は、長重が利長に利用されて「賊軍に参加させられた」ことを喝破し、翻弄されて没落した愚直な長重に憐憫を抱いていた。やがて土井利勝の斡旋によって長重は大名として復活する。そして1615年の大坂の陣で、長重は秀忠の脇を固めて豊臣方の毛利勝永相手に奮戦し、武勲を表彰されて秀忠に近侍する御噺衆に抜擢される。同じような経緯で抜擢された人物にかの立花宗茂がおり、長重、宗茂は共に秀忠相手に自分の不幸自慢をした。

尚、長重を陥穽に嵌めた前田利長は、大坂の陣の一年前に鬼籍に入ってしまった。結局、最後まで長重に対する詫びの言葉はなかった。 後年、利長の異母弟である鼻毛の殿様は、大名に復活した長重に、兄利長の悪質な非礼と、最後まで詫びを入れなかった薄情さを、兄の代理人として詫びた。

御噺衆として、長重が秀忠に聞かせた話はどれも興味をそそるものばかりだったようで、大坂の陣での武勲と、御噺衆としての貢献を賞され、長重は陸奥棚倉の大名として返り咲いた。波乱万丈の生涯と言える。ちなみに長重を罠に嵌めた卑怯な前田利長は、これより10年以上前にその浅薄で面白みの無い、権力者への追従に費やした生涯を終えている。石高では利長の方が上だが、人間としての器の大きさ、経験の深さがどちらが上であるかは、言うまでもない

長重は、安土城の普請を担当した父、長秀譲りの築城の技量を持っていた。相次ぐ没落で財政も逼迫し、機会、資金ともに確保できずに長年生かされることのなかった築城の技術がここで発揮されることとなる。しかし、棚倉城が落成する頃には、既に丹羽氏は二本松に領地換えされてしまい、新たに移封されてきた内藤氏が長重が着工した棚倉の城をその手中に収めることとなった。棚から牡丹餅とはまさにこのことである。最後に見事返り咲きを果たした長重だが、横取りされる不幸な性分は死ぬまで纏わりついた。