中原中也

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中原中也(なかはら ちゅうや、1907年4月29日 - 1937年10月22日)は、日本の詩人であり酒乱。「愛するものが死んだ時は自殺しなければならない」という思想を持ったヤンデレであり、加えてツンデレとしても名高い。主食は酒とみつばとネギ。主な鳴き声はゆあーん

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概略[編集]

生まれて、神様を見て、詩をつくり、三角関係で負けて、はげて、子供が死んで、死んだ。

生涯[編集]

山口県の医師の子として生まれる。6人兄弟の長兄。言うまでもなく両親のネーミングセンスはかなり独特。「中也」という名前がひどく嫌だったため「一郎」と名乗ったことがあるという涙を誘うエピソードを持つ。

幼い頃は神童と呼ばれるほどであったが、文学にのめりこみ成績不振、山口中学を落第。立命館中学へ転校させられるも退学。早稲田大学を目指すも果たさず。日本大学予科もやはり退学。「学校は1週間でできることを1年かけてやる所だ」などとのたまう中二病患者であったことが主な原因。しかし最終学歴は東京外国語学校卒。やれば出来る子。

酒を飲んで太宰治を掘ったことは有名。その際、「青サバみたいなケツしてんな」と言ったとされる。これが高橋新吉の影響の下に彼が摂取し続けたダダイズムの詩的表現であるとして取り上げられ、一躍文壇において名を広める結果となる。 一方の太宰はその経験を忘れられず、どうしても中也にもう一度掘ってもらいたくて何度も接触を図り、「も・も・の・は・な」などという言葉で中也を誘惑するも、不発に終わる。(→同性愛)また、山口県出身、かつ立命館に通っていた経験から本気で洗礼(バプテマス)を受けようとも思っていた。結局洗礼は受けなかったが、彼の人生がキリストによって導かれていたことは、火を見るよりも明らか。

同棲していた直子(泰子とも)(ノルウェイの森に登場する直子のモデル)と、親友小林秀雄との三角関係に敗北した。彼はあくまでも直子は戻ってくると思い込んでいたが、結局草原で自慰にふける日々が続き、直子が戻ることはなかった。親友に恋人をとられたことに対し、「知らない男のところへ行くよりはましだ」などとNTR属性への片鱗を見せつつ語るが、本心はお察し下さい。やがて他の女とできちゃった結婚。子供に酒を飲ませるなどの蛮行により、子供はあっという間に死んでいく。(→両刀使いバイセクシャル

子供を亡くしたショックで精神が不安定になり、「白蛇が坊やを狙っている」などと真顔で言い出す。どちらもいない。怖い。 そして中也自身もいつのまにやら体が不自由になり、動けなくなった。大岡信(大岡昇平とも)等の友人との喧嘩による脳挫傷であるという報告(1989 『中也も』 佐久間大輔)から、殺人の罪をなんとか病死に見せかけているという可能性が出てきたが、真相はキャバクラに通いすぎた結果黒服にやられたというものが最も有力。 太宰が中也と心中をもくろんだという説もある。

彼の詩は純粋で「これがぼくの骨だよ」というだけあって自慰的なものがほとんどであり、ノルウェイの森の内容との関係は明らか。

身長[編集]

中也の身長がきっかし1hydeであったことは有名。よって喧嘩も非常によわかったものの酔っ払うと喧嘩を吹っかける性癖があり、初めは誰も気にしないが、度が過ぎたときは檀一雄に一本背負いを食らったりもした。その時の「おめえはつええよ」というセリフはあまりにも有名。

  • あまりに小さかったため、結婚写真では新婦を座らせ、自分は立って撮った。
  • 坂口安吾に自分のお気に入りの女給が惚れていたという理由から初対面でいきなりストレート、アッパーカット、スイング、フック等を繰り出すも、腕が短すぎてかすりもしなかった。
  • 詩歌談義で盛り上がり興奮し、相手の腹へ物凄い速さで拳を突き出すが、自分と相手の中間あたりで止まった。やはり短い。
  • 腕同様当然のように足も短く、さらに少しガニ股
  • コートを引きずって歩いていた。理由はもちろんお察し下さい

容姿[編集]

美少年風のイケメンである。しかしフォトショ詐欺であったという説が近年濃厚。だが、医家の長男なので結局は勝ち組なのであった。

顔よし家よしの上、フランス語も堪能で詩の才能もあったが、女にはまったくもてなかったという。たぶん身長のせい。

著作[編集]

『山羊の歌』
彼の生前に刊行された詩集である。当時は子供が生まれいけいけであった。ただ、評価はされなかった。泰子に去られた直後の詩が多く載っているため、喪失感やら悔恨やらの念が異様に強くやたらと重い。山羊の鳴き声を擬音語として表現し、そのバリエーションを集成した。
『在りし日の歌』
彼の死後に刊行された詩集である。在りし日の中原中也が書いた渾身の作品をまとめる。だが、その作品の多くは子供の死後の不安定な時期のものであるため内容が結構アレ。この詩集で自らの悲哀を語りそれが同情を呼び評価された。死後に評価されるとは皮肉なものである。

関連項目[編集]