下関市

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』

下関市(しものせきし)とは、無意味ながらも維持し続けられている城塞都市である。別名「ふぐ要塞」。

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[編集] 下関要塞

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下関(本州)と門司(九州)の間を遮る様に存在している要塞。公式には明治28年から昭和20年まで存続していたとされるが、密かに現在でも存続している半民半官の要塞。この要塞は江戸時代から仲が悪かった長州藩山口県)と九州薩摩藩鹿児島県)の喧嘩が発端で建造された。

[編集] 建造

明治維新時に坂本竜馬と名乗るちよっと胡散臭いオールバック野郎にまんまと丸め込まれた長州と薩摩であったが、明治維新後も議会椅子取りゲーム・内閣椅子取りゲーム・陸海両軍対抗陣取りゲームで争ったりするなど喧嘩が絶えなかった[1]。さらに、内戦である西南戦争の首謀者が薩摩の西郷どんであったため、鹿児島県の隔離を計画。ここ下関に要塞を築いて、鹿児島県だけ隔離するのは面倒臭いと言う理由から九州もろとも隔離しようとした。

[編集] 城塞都市化

関門海峡から来る鹿児島人に神聖なる本州の大地を踏ませないために、下関市全体を城壁で囲み城塞都市化を計画した。途中、鹿児島県の間諜に施設の図面をパクられそうになるが、ふぐの肝入り十円チョコで事なきを得て、明治28年に要塞は完成した。様々な砲台がならぶ豪華なつくりだが、四国経由の普通の海運ルートでの「迂回作戦」によりあっけなく回避される。

[編集] 現在

昭和20年の敗戦の折GHQが要塞の解体を指示。下関市民のゲリラ戦や十円チョコ贈賄戦法などの必死の抵抗が続いたため解体不能とされ書類と歴史の教科書上は昭和20年に解体された事にした。そのため未だに下関市は要塞であるが、関門海峡にできた関門橋により完全に無用の長物化している。下関名物は「ふぐ」だが、下関人は「ふく」と読むと主張しており、よく国会の議題にあがる。かつては、このふくの内臓を大砲で鹿児島人の口に投げ込んだり、珍味と偽って会津遺恨全体主義狂国人の胃の腑に入れたりしていた。

JR下関駅は構内で無差別大量殺傷事件が発生するわ、放火で駅舎がほぼ全焼するわ、たまに構内の急な階段で転落・転倒事故が起きるわと散々な駅である。

しかし市側は新駅舎施工の目処すら全く立てようとしないので、市民には「まだ新駅舎建てねーのかよ!というかいつになったらJR西日本に建設要望をねじ込む計画を立てるんだよ!」「維新とか朝鮮通信使とか善隣外交などとギャーギャー騒いだりする暇ややたら豪勢な記念碑とか人工島作る銭があるなら、さっさと駅再建の方に回せよ!」なんて不満が密かに広がってるんだな、これが。

又、65kmも離れている自県の県庁所在地(山口市)への対抗心が強く、昔から関門海峡で向かい合い、同様に65kmも離れている自県の県庁所在地(福岡市)への対抗心が強い北九州市との繋がりが圧倒的に深い。関門海峡は最も狭い所で700mしか離れてないにも拘らず、下関や門司では65kmも離れた県庁所在地のニュースを流されても、せいぜい1kmしか離れてない対岸同士のニュースをろくに視聴できないこともあり、関門海峡で大事故が起こるとその影響は計り知れない。この為、下関市と北九州市は日本からは脱退こそしないものの、山口県や福岡県から脱退して関門海峡を跨ぐ「関門特別市」を結成しようと密かに企んでいる息巻いている。

蛇足だが現在、これとは別に韓国釜山市からの侵略も進んでいるが、市民の大多数は暴虐女帝マドンナ安倍昭恵の絶対的な命令の下、これを大いに歓迎し、積極的に協力することを余儀なくされている。

[編集] 脚注

  1. 余談だが、この長州閥対薩摩閥の対戦ゲームは、後に旧幕府派の代表格である米沢会津両藩の旧藩士まで子分に巻き込んで更にゲームの種類を増やしながら、昭和20年の敗戦辺りまで続いた。ちなみに米沢藩士が長州閥幹部の、会津藩士が薩摩閥幹部の配下とか姻戚とか子分になったケースが結構多いらしい。

[編集] 関連項目

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