上杉昇

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上杉 昇(うえすぎ しょう、英語表記:WESUGI SHOW、1972年5月24日 - )は日本を代表する猫好きの「三井寿」。WANDSのボーカル・作詞として1993年頃を中心に一世を風靡していたが、犬好きのプロデューサーから押し付けられた商業音楽・プロデューサーから漂う犬臭に段々と嫌気がさし、WANDS・所属事務所を脱退。その後は事務所を移籍してal.ni.coを結成するも音楽性の違いと相棒が犬好きだったので解散、今度は新バンド猫騙を結成、ソロ活動と平行して今に至っている。神奈川県横須賀市出身。

なおここではal.ni.coについても説明する。

WANDS時代[編集]

デビュー[編集]

1980年代後半、上杉はヤンキーだった。(本人談だから多分実話)また、通っていた高校も荒れていたらしく、水道を捻ると牛乳が出てくるようなそんな学校だったらしい(本人談) そんな最中、上杉はロックと出会い音楽へと目覚める。元々、一匹狼の上杉だったので学校の水道タンクに牛乳を入れているような連中にも嫌気がし大喧嘩。その後高校中退。まさに三井を地でいく人生である。 1990年上杉はミュージシャンを志す。我々はWANDSの上杉しか知らないが当時はロン毛に鼻ピアスという格好であり、WANDS脱退後の上杉そのものであった。 そんなヤンキー丸出しだったにもかかわらず音楽事務所ビーイングに履歴書を送り見事に採用。同じ時期に採用された柴崎浩(※"柴崎コウ"ではない。"ひろし"と読む)らとWANDS(ワンズ)としてデビュー。上杉は歌声・ルックスの他にも作詞のセンスが見出され、上杉自身もWANDSの全ての曲の作詞としてかかわることになる。

とはいえ、WANDSの方向性や曲を決めるのは全て長戸大幸というプロデューサー。"WANDS"というバンド名ももちろん、"上杉昇"という芸名の名付け親も長戸である。(上杉の本名は鈴木 昇(すずき のぼる) )。長戸は「B級でも売れる音楽を作る」というコンセプトを持っており、目指すのは大衆性の強い"J-POP"。しかし上杉がプロに入ってやりたいのは、"オルタナティブ・ロック"という(通称・猫ロック)、一言でいうと"J-POP"とは全く逆の猫に受けるような音楽で、日本ではかなりマイナーな音楽。

そして、作詞をするにしても、曲は(WANDSのメンバー以外の)イヌ好きだったり、犬の顔をしたような作曲家が作り(WANDSのメンバー以外の)犬臭い編曲家が編曲したものを渡され、それに上杉が作詞をする。当然、この体制では上杉の本当にやりたい音楽は猫ロックは出来ない。

だが、上杉は踏みとどまった。もっとも事務所の絶対的存在の長戸に新人である上杉が意見しても間違いなく却下されてしまうことは目に見えていたし、長戸には既にTUBEB.B.クイーンズおどるポンポコリンで社会現象に。)・B'zをプロデュースし大ヒットに導くなど有り余る確かな実績があった。「せっかくつかんだ歌手デビューへの道。ここで抜け出すのはもったいない。まぁ、将来は猫カフェを経営するんだし"J-POP"も決して嫌いというわけではないし、WANDSとして頑張ることにするか……」


1991年12月、上杉は弱冠19歳、1stシングル「寂しさは秋の色」でWANDSのボーカルとしてデビューし、髪型も長戸プロデューサーの指示で当時流行りのロン毛にした。 上杉本人がもの凄い癖っ毛でもあり、歌って踊れるホストみたいでロン毛は嫌だったが、ビーイングの大将軍長戸に逆らえるはずもなかった。

1992年当時のWANDS。中央が上杉。
「世界中の誰よりきっと」で中山美穂と共演する上杉(WANDS)。

大ヒット[編集]

この曲もミリオンセラーとなった。

こうして上杉はWANDSのボーカル・作詞としてデビュー。1stシングル、2stシングルこデビュー当初でバンドの知名度が低かったこともあり大した売上にはならなかったが、1992年10月には中山美穂との噛ませ犬コラボ「世界中の誰よりきっと」[1]がミリオンヒット(約180万枚売れた)で、デビュー1年足らずであっという間に大ブレイク。その後も、1993年はシングル4枚・アルバム2枚もミリオンヒットし、DEENに作詞提供した「このまま君だけを奪い去りたい」もミリオンヒット、1993年に最も人気のある男性歌手になり、中学MVPに輝いた三井のような輝かしい栄光ができた。


WANDSが大ヒットしたのには理由があった。

当時WANDSの事務所ビーイングは総会屋と組んで大企業の株を不当に釣り上げたり、インサイダー取引はもちろん、悪評を撒き散らしては空売りして儲けていた。その金で日本中の"売れる曲を作る能力"に優れていた作曲家達を買収。さらにプロデューサー・白髪鬼の長戸はとにかく金になりそうな人間を嗅ぎ分ける嗅覚が半端ではなかった。事実、B'zZARD・WANDS・大黒摩季DEENT-BOLANといったこの事務所所属のユニット(歌手)はミリオンセラーを連発した。WANDSもこの時期に出したシングル「もっと強く抱きしめたなら」「時の扉」「愛を語るより口づけをかわそう」「恋せよ乙女」もその売れるノウハウを持つ作曲家・編曲家によって曲が作られ、上杉もその曲に"売れる歌詞"を作詞、時には他者に提供した。もちろん上杉の歌唱力・ルックスも大きいが、事務所の勢いが大きかった。


弱冠21歳として、WANDSのボーカル・作詞としてミリオンセールスを連発した上杉。歌唱税と作詞税の2つの印税で収入は1993年分だけでも最低500億円はあり、犬好きの女子からの人気も大変なものがあった。完全に栄光をつかんでおり、申し分ないはずだった。

不満[編集]

だが不満はあった。まず、第一にWANDSという名前。上杉的には「キャッツ★アイ」とか「おニャン子クラブ」的な猫に関する名前をバンド名に付けたかった。WANDSでも悪くはなかったのだが、わ行から始まる猫の種類がなく、上杉&シャム猫でWANDSじゃあ恥ずかしかった。第二に、世間一般的なWANDSのイメージと本当の自分との間に乖離があること。硬派に見られ、また、歌番組などでは余り喋らないから無口だと思われていること。また、何よりも犬好きだと思われていること、これが何より我慢できなかった。無口なのはただ、人見知りなだけであり、猫には饒舌に語りかけるのである。さらにWANDSは明るい前向きな曲が多く"アイドル"的なイメージも大きいが、実際の上杉は自分自身を後ろ向きでひどく「根暗」で「愛猫家」だと認識していて、あまりに差が大きすぎること。アイドルよりまだ、ニヒルなホストっぽく見られたほうが本人はマシだと思っていた。[2]

第三に、上杉のやりたい音楽は"猫・ロック"であり、WANDSの方向性とはほぼ真逆、そしてWANDSのような"売れさえすればいい音楽"ではないこと。音楽会社とて慈善事業をやってるわけではなく、あくまで商売なのだから、"売れる音楽"を優先的に作るのは当然といえば当然なのだが、上杉の所属するビーイングのやり方は当時の他の事務所に比べてもそれが露骨だった。 時代が時代なら、握手券目的でCDを買ったファン数万人と握手しなければいけなかったかもしれない。

第四に中山美穂とのコラボできたのは嬉しかったが、上杉的には元・おニャン子クラブの誰かとデュエットしたかった。中山美穂の呼び名が「ミポリン」が、猫っぽかったのでコラボを承諾したのであり、犬好きだったら、「ミポリン」なんて通称でも絶対組んではいなかった。


栄光をつかんだはずの上杉だったが、こうして嫌気がさし、やがて「WANDSからの脱退」を考え始める。 そもそも印税だけで十分遊んで暮らせるだけの金はあったのだが、猫ブームを起こしたかった上杉はどうにか音楽の力で猫好きを増やしたかった。

そして、上杉の容姿に徐々に変化が。髪にバンダナをつけるようになった

ついにWANDS脱退へ[編集]

今の若い世代にも幅広く知られる。

1994年には「世界が終るまでは…」がミリオンヒット。またタイアップされたアニメSLAM DUNK自体も大ヒットしたことにより、世界中・世代を問わず知られることとなる[3]。そして、この頃から上杉は「俺がしたいのはこんな音楽じゃない!」「ロックをやりてえんだ!」と主張するようになった。「世界が終るまでは…」はロック路線ながらもまだ大衆受けのいい曲(言葉では説明しにくいが)として作ったもの。作曲・編曲もWANDS以外の作曲家編曲家によるもので、まだ上杉のもとめる"オルタナティブ・ロック"(マイナーなロック)ではなかった。

1995年にはついに作曲・編曲をWANDS自分達(上杉・柴崎)で手がけるようになり、"オルタナティブ・ロック"をやった。しかしこれが(今までのWANDSの曲に比べて)なかなか売れない。

そこで、ついに上杉とプロデューサーの長戸との間に大きな軋轢が生じるようになった。事務所は長戸の絶対君主制で、大物アーティストでも長戸将軍に逆らうことは許されない。長戸の「プロなら売れる曲を作れ」という要求と、それに対する「絶対に嫌だ」という反応。自分のやりたい音楽が出来ず、「アイドル的存在」の自分に嫌気がさし、また作業をするにしても常に長戸の妨害にあうようになり、レコーディングスタジオに犬を連れてきたり、エンジニアのスタッフも犬好きに変えられたり、PVやジャケ写にも犬を使おうとしたりして、上杉はまともな創作活動ができなくなり、1996年に、ついに決意した。


WANDSから脱退してやる!こんな事務所にいて堪るものか!」 「安西先生・・・!! オルタナティブ・ロックがしたいです」と呟きながら

こうして上杉は同メンバーの柴崎浩を道連れに音楽性の違いによりWANDSを脱退[4]。別の事務所に移籍して、「自分のやりたい音楽」を始めることとなる。


なお、ボーカル・作詞が居なくなったWANDSは当然そのまま自然消滅するかと思えた。常識的に考えればそうだし、ボーカルが交代したら最早「WANDS」として成り立つはずが無い・・・はずであり、上杉も「ボーカルが居なくなったWANDSはこれで消えてなくなるだろう」と思っていた。


※上杉の歌声ではありません

しかし、長戸は違った。「一体どこから連れてきたのだろう」というような、上杉とあまりにも声質がよく似た、本物のジャニーズ出身のボーカル(和久二郎)を後釜にたて、WANDSを存続させたのだ。そのボーカルは作詞が出来ず、歌唱力ももちろん上杉よりは劣っていた。しかし、実際は、多くのリスナーは上杉がWANDSを抜けた後、TVや有線でWANDSの新曲を耳にしても、その歌声が今までのボーカル・上杉と違うことに気付かなかったのである(本当)。実際に右の「明日もし君が壊れても 」の動画を再生すればわかるが、代わりのボーカル・和久の声はそれほどまでよく似ていた。

上杉は長戸の姑息な仕打ちにさらに苛立ちが募った。

とはいえ、上杉は柴崎とともにすでに事務所を移籍した。新たな一歩を進み始めることになる。

第三期WANDSとは?[編集]

上杉を語る上では避けて通ることができない事件なので、世界が終わる前に記しておこう。

  • 怖いもの知らずだった上杉と柴咲に仕返しするために、将軍・長戸が大人げなくリニューアルしたバンドである。
  • 第三期は、ワイヤーフォックステリアの「W」と柴犬の「S」でWANDS。
  • 上杉への当て付けなのかメンバー全員が大の「犬好き」。
  • 正体がバレる前にベストアルバムをリリースして荒稼ぎをする。大人の汚さ、嫌らしさをトコトン上杉に見せつけた。
  • 正体がバレたらバレタでZARD信者を獲得しようとして坂井泉水に作詞をさせる作戦をとる。
  • ジャケ写はもちろん、PVにも惜しみなく犬を使っている。
  • 曲のタイトルは全て「犬」に関係するような文言が入っている。

WANDS脱退後[編集]

al.ni.co結成[編集]

1997年、上杉は柴崎とともにユニバーサルミュージックに事務所を移籍し、新ユニットal.ni.co=American Shorthair(アメリカンショートヘア)Lykoi(ライコイ)Norwegian Forest Cat(ノルウェージャンフォレストキャット)Colorpoint Shorthair(カラーポイントショートヘアー)の略、通称「アルニコ」を結成。ここでは長戸のような犬臭いプロデューサーに指図することも無ければ、犬好きが作曲した"売れ筋の曲"を歌わされることもない。

al.ni.coではボーカル・作詞だけではなく、(※今までほぼ全くしたことのなかった)作曲もほぼ全て上杉が行った。ただし、上杉は演奏や編曲は出来ないので、編曲やサウンドプロデュースは相方でギターの柴崎に押し付けた。

al.ni.coとして再デビューした上杉の姿は、今までとは違い、語尾に「ニャン」と付けるようになったのだ。

音楽性がそれまでの売れ線のJ-POPからマイナーロックに変わったのはもちろんだが、外見がかなり猫っぽくなり、新曲の宣伝のためにTV番組に出たが、既にカメラがまわっているにもかかわらず、後ろ髪をボリボリ掻きむしりながら司会者とのトークも語尾に「ニャン」と付け、態度が明らかに猫っぽくなり、相棒の柴崎はかなり恥ずかしい思いをさせられた。


上杉は1992年にまだ21歳という若さで下積み期間も無く、かなりスムーズにスターになった。だから有頂天になっていたこともあるのかもしれないが、元々、性格がネコのように気まぐれで、ワガママなので仕方なかった。真性の猫好きなのだから。

上杉と同じ事務所のB'zは、ブレイクした1991年の時点で松本は30歳、稲葉は27歳と既にアラサーであり落ち着いた年齢であった。B'zはデビュー前や結成後の下積み期間が長く、今となっては想像もつかないが、当初は短パン一丁で歌っていたので全く売れていなかった。他のグループのバックバンドをしたり、血の滲むような地方巡業・挨拶回りをこなした。またZARDのボーカル・作詞の坂井泉水は「負けないで」で大ブレイクした1993年には既に結構いい年で、デビュー前には短大卒で2年間OLをやり、その後も黒歴史と言える過去を乗り越え、苦渋を舐めてからの歌手デビューと、長い下積みを積んでいた。それに比べると上杉は高卒ですぐに履歴書だけで・デビュー・ミリオンヒットとあまりに順調すぎたのだ。[5]

シングル・al.ni.co編[編集]

TOY$!
錆びついたマシンガンだか、枯れ果てた下半身だか知らんが、こっちは大人のオモチャで撃ちぬいてやるんだァーーーーーーーーーーー。
晴れた終わり
一言でいえば「我が生涯に一片の悔い無し」って内容。カップラーメンのラ王を食べながら、北斗の拳を読んでる時にでも閃いたのだろう。
カナリア
ビーイングという鳥籠からは抜け出せたものの、やりたい音楽を追求すれば世間とのズレが生じて売上が伴わないと言うジレンマの歌。

アルバム・al.ni.co編[編集]

セイレン 錆びついたマシンガンで立ち向かってきた第三期WANDSを沈めるためにリリースされた核弾頭的アルバムだが、柴崎が抱え込んでいたストレスが爆発してal.ni.coまで沈めてしまい記念碑的アルバムとなってしまった。

Prologue 上杉が天使になんてなれなかった理由が書かれている黙示録。そりゃあ、天使はShitなんて言わねぇもんなぁ。

相方の柴崎の不満、al.ni.co解散[編集]

上杉のあまりの変貌に、WANDS時代の多くのファンはさすがに離れていったが、中にはWANDSを抜けた上杉達に行ったファンもいて、al.ni.coの出したシングル3枚アルバム1枚は1枚あたりおよそ3~5万枚売れた。これはWANDS時代のおよそ3~5%の枚数である。

上杉はal.ni.coで自分のやりたい音楽"オルタナティブ・ロック"、通称(猫・ロック)を思う存分やった。だが、ここで不満だったのがWANDSから上杉についてきた、相方でギターの柴崎である。柴崎は作詞こそしないが本来は作曲がメインで、自分も好きな曲を作曲したかった。しかし、al.ni.coに来て自分のやりたいことができるかと思えば、やること全て上杉の好きな音楽のフォローだけ。上杉が"作曲"するから、自分は作曲活動もできない。そしてこの時期の上杉のわがままは目にあまった。そして何より、語尾に「ニャン」と付ける上杉に耐えられなかった。まして柴崎は犬派であり猫好きの上杉とここまでやってこれた事自体が奇跡だったのだ。

「もう上杉にはついていけない」そう感じた相方の柴崎は「音楽性の違い」を理由にal.ni.coを脱退。ソロになった柴崎はトップブリーダーになり、ツアーのギタリスト・作曲家として活動をはじめた。こうしてal.ni.coは解散した。

ソロ活動の末、猫騙結成[編集]

al.ni.coが解散になり、上杉はしばらくは途方に暮れたが、原点に帰り「念願の猫カフェ」をオープンしようと思った。 しかし、上杉の前に立ちはだかったのは、やはり将軍・長戸様であった。 この当時のビーイングの資産は1200兆くらいあり、現金だけでも800兆はあった。さらに将軍・長戸の個人資産だけでも500兆、現金だけで250兆円もあった。 第三期のWANDSも解散したのに、まだ、ビーイング及び長戸は上杉を許してはいなかった。上杉が猫カフェをしようと物件を借りたら、近隣にドッグ・ランを作ったり、犬専用のペットショップや犬カフェまでオープンし徹底的に嫌がらせをしてきたのである。 都会は諦め、郊外に土地を買いオープンしようものなら、盲導犬総合訓練センターを作り、ビーイングは社会貢献しています、とアピールしながら、上杉にも嫌がらせをするという一石二鳥の手に出てきた。 上杉自身、500億円という膨大な資産を持っていたが、相手が相手だけに太刀打ち出来無かった。

それから3年近く音沙汰が無かったが復活し、自分で自分のための音楽事務所「pojjo récord」を立ち上げた。そしてソロ活動をしたのち、新バンド猫騙(ねこだまし)を結成。(もちろんボーカルは上杉)

オーディションで新しくギターやベース・ドラムらを選び、インディーズとしてテレビや大メディアからは完全に遠ざかり、ライブ中心に活動を始めた。

なお、WANDS・al.ni.coで一緒だった柴崎浩は2005年に西川貴教達と新バンドabingdon boys schoolを結成。ギター・作曲としてゲームやTVアニメの主題歌に携わったり、ライブ活動などをしている。

変わり果てた姿[編集]

猫騙として活動をはじめた上杉。そこにいたのは、もはやWANDSの頃の面影などどこにも無い、変わり果てた姿だった。


↓の画像は1992年発売「もっと強く抱きしめたなら」をTV番組で歌う上杉だが……

上杉.jpg
変わらない 二人だけは……







以下の画像が、今の上杉である。

2010WESUGI.jpg
「飾らない素顔のあなたが好き 変わってしまうことが悲しい」
上杉昇 について、坂井泉水
「マジじゃ言えないけれど 誇りに思うよ 君の横顔」
上杉昇 について、森友嵐士
「夢であるように何度も願ったよ うつむいたまま」
上杉昇 について、池森秀一
画像左から3番目が上杉昇

※コラ画像や偽物ではありません。本物です。


服装から全てが変わっている。

歌い方も音楽スタイルも目つきも体型も服装も何もかもが変わっている。そして、今の上杉のウェブサイトのプロフィールにはWANDSは完全に書かれておらず、al.ni.coはリリースCDのみ記載されている。 オーディションで選んだとはいえ、猫好きかどうかで選んだだけで、メンバー全員が楽器が弾けず、エアーバンド状態だった。

2006年には、15周年記念アルバムと謳っているがカバーブームに乗った内容である。自身が作曲したal.ni.coの「TOYS!」、WANDSの「SAME SIDE」も収録されたが、WANDSのデビュー曲である「寂しさは秋の色」もアコースティックにアレンジされ収録、昔のファンを呼び戻そうを計らう。


そして。


2011年、自身のデビュー20周記念ライブにて「世界が終るまでは…」を披露。

これに気を良くして

2012年、夏に開催された、ドキッ! アニメソングだらけの祭典的なイベントにて、シークレットゲストとして「世界が終るまでは…」を披露。

その風貌は水曜どうでしょうの藤村Dにあまりにも似ておりこれはどうでしょうの企画か?とも思われたが大泉洋たちは現れず、 その歌が傍目から見てもバレバレな口パクであったことから、「勝手に観光協会」として活動するソラミミスト・安斎肇が みうらじゅんとの悪ふざけ企画で起用された説が根強く残ることとなった。

そして伝説へ・・・[編集]

       かくして栄光を捨てた上杉は

ここアンサイクロペディアの英雄となる

だが この後の猫騙・上杉昇の姿を想像できたものは

誰一人としていなかった 

彼がWANDS時代に残していった楽曲は

ビーイングによって変なアレンジを加えられ

未発表曲と共に乱発されたベストアルバムに収録され

後の世に伝えられたという

そして伝説がはじまった! 

「天使になんてなれなかった」[編集]

なぜ、上杉は天使になんてなれなかったのか?諸説あるが、一番の有力説は上杉の身長が156cmではなかったということである。身長を縮めるための努力はしたもののこればかりはどうにもならなかったと上杉自身が語っている。 1993年発売のWANDSのアルバム「Little Bit…」には、上杉の自分の"アイドル的存在"に対する考え方・WANDS脱退やal.ni.co結成を示唆する曲が収録されている。この曲はアルバム曲で、タイトルは「天使になんてなれなかった」。

ここでは、その「天使になんてなれなかった」の歌詞を一部引用、記載する。


1993年発表。

バッグに めいいっぱいの 夢を 詰め込んだ
ちっぽけな イザコザで 熱くなって
を飛び出した 遠い夏のMEMORY
あの日の 僕は 怖いものしらずだった

勇気さえあれば すべてを 変える事も たやすいと信じてた

天使になんてなれなかった ボクの中のゆがんだ心
天使のように はばたいて はるか 遠く消えてなくなれ
未来(あす)をうつした 空へ……


上杉昇はWANDSに在籍していた頃は栄光があり大多数からちやほやされていた。だが、上杉はそれを迷うことなく全て捨て去り、己の信じる道へ飛び出した。上杉昇は、これからも自分の信じる道を猫まっしぐらと突き進んでいくだろう……。

脚注[編集]

  1. ^ 新人歌手(バンド)のWANDSと中山美穂がデュエットしたのには理由がある。WANDSの事務所(ビーイング)側の「(当時の)トップアイドル・知名度抜群の中山と組ませれば無名の歌手でも一躍注目を集めるようになるだろう。」という思惑と、中山の事務所側の「ビーイング(WANDS側の事務所)は"売れる曲を作る能力"に優れているから、ビーイングが用意した楽曲を歌えば大ヒットにつながるだろう」という思惑が一致したことによる。
  2. ^ 後の上杉のラジオなどでの発言を聞くと、確かに上杉は自己認識の通り「愛猫家」である。
  3. ^ SLAM DUNKの放映は1995年頃だが、作品自体の大ヒットにより若い世代にも広く知れ渡っている。そのため、1995年頃は幼かった・またはまだ産まれてすらいないような世代で、WANDSなど知らないような若い世代でも、「世界が終るまでは…」自体は大好きという人はたくさん存在する。
  4. ^ なお後に長戸のもと(事務所)からは、大黒摩季やDEEN、織田哲郎・明石昌夫(※ミリオンヒットを続けたビーイングのなかで最も売れた作曲家と編曲家)も揉めたあげく離脱している。
  5. ^ なお、B'zは後に自分達について「僕たちは売れたのが(年齢的に)かなり遅かったから、B'zが世間で騒がれるようになっても、天狗になることはなく、自分たちを冷静に見ることができた。(要約)」と述べている。

関連項目[編集]