上井覚兼

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上井 覚兼(うわい かくけん、1545年1589年)は、戦国時代の薩摩の領主島津義久に仕えたサムライ日記職人である。

その生涯と人となりについて[編集]

祖先の代から大隅の上井郷(現在の鹿児島県霧島市)の領主として島津氏に仕え、九州南部の制圧に手柄を立てる一方で、義久の側近として、義弘歳久家久らの連絡役をこなし、家臣から「親父殿のことを知りたくば上井に聞け」と言われるほどの存在であった。そのためか本人にはその気はないのに「虎の威を借る狐」のように見られる事が多くなり、義弘は弟たちと酒を飲んでは覚兼の悪口を言い合って一晩過ごしたこともあったそうである。 1576年に日向の宮崎城(現在の宮崎市)の城主となり、大友宗麟が治める豊後や九州北部の侵攻の中心となったが、1587年に豊臣秀吉の九州征伐に敗れ、主の義久ともども降伏し、2年後に鹿児島郊外の伊集院(現在の日置市)の地で失意のうちに亡くなった。

上井覚兼日記[編集]

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薩摩という場所は当主の島津氏の気質から尚武主義と見られているが、実は室町時代後期にこの地を訪れた臨済宗禅僧桂庵玄樹儒学の一学派である薩南学派を興したことから、文化的にもレベルが高い土地柄であった。 その中で、覚兼は義久の居城である内城に書庫があることを見つけ、暇を見てはその中の書物を読むことを習慣にしていた。ある時、おそらく1574年ごろ書庫の中から紀貫之の書いた土佐日記を見つけ、面白さのあまり読みふけり、徹夜までしてしまった彼は「この土佐日記は男が女に成りすまして書いているのか。それでは公家が書く日記をサムライの自分が書いてみたらどうなるか?面白くなるかもしれん」と考え、早速自分の屋敷に戻って隠れて日記を書き始めた。というのも、島津氏は表向きは尚武主義であり、公家がやるような和歌双六日記茶道華道歌舞音曲サムライの風上にもおけない恥ずかしい行為とされ、見つかろうものならさすがに処罰までとはいかないまでも、いたたまれなくなって自殺を図るぐらいにまで笑いものにされ、罵られるからである。 じゃあ、なんで書庫なんてものが領主の居城にあったかって?そりゃ、大勢の家臣や領民を治める以上は最低限の教養がないと務まらないからであって、島津氏に限らず、戦国大名は書物を読むことにより、領国、領民支配を行い、独自のルールである分国法を制定する参考にしたのである。当然、このアンサイクロペディアで大暴れの織田信長足利義昭も普段は書物を読んでいるというわけだ。

……話は脱線してしまったが、覚兼は1574年ごろから1586年まで日々の生活、島津氏の内情や九州の情勢を書く一方であんなことやこんなことを書き続けていたが、秀吉の九州侵攻に伴い、日記を書く暇が無いほど忙しくなったのと、見つかって主君や他の家臣から笑いものにされるのを恐れたため、断筆してしまった。 だが、覚兼は日記を捨てるということをせず、宮崎城の隠し部屋にしまって置いたため、宮崎城が廃城となった後に発見され、紆余曲折を経て、現在では東京大学史料編纂所に所蔵されている。だから、東京都文京区本郷にある東京大学史料編纂所に行って所定の手続きを踏めば読めるんだけれども、全部古文で書かれているから古文の成績が悪かった人は読解に困難をきたすため古語辞典を持参の上、中学校時代の古文先生にも付いてってもらったほうがいいかもしれないよ。


上井覚兼日記の一部

十二日 島津家久に招かれ宴会。

十三日 会議後宴会。

十四日 朝から宴会。夜、風呂に入った後宴会。

十五日 休肝日。

十六日 会議後宴会。石原が狂言をやった。

十七日 昼から宴会。宴会中に緊急会議。会議後宴会。

十八日 一日中宴会。


やたらと会議が多いことから賢明な読者諸君にはお分かりだろうが、出陣中の話のことである。

関連項目[編集]

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