三笠 (戦艦)

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三笠

三笠(みかさ)は、日露戦争直前に日本海軍イギリスに無理矢理頼んで建造してもらった敷島型戦艦の4隻目。その外観からロシアアメリカから「和製ボロジノ級戦艦」と呼ばれるほどボロジノ級戦艦に似ていた。その後、太平洋戦争において使われた後に退役し係留されていたが戦後に横須賀で博物館となって現在も残ってる。

概要[編集]

日清戦争でいくつもの旗艦を消耗した日本は当然のように旗艦を再構築する為の再軍備に励んだ。 しかし、日本の工業力では最低限五つ揃えるのに5年近くかかることが予測されその間に残された駆逐艦やコルベット艦だけで制海権を維持できるわけがないという事実が分かり日本が世界に対して「我が国を守る軍艦を造ってくれる国家募集」というCMを流したところ、日英同盟目当てで殴り込んできたイギリスによって作られた軍艦の4隻目が三笠で三笠である。 この間に日本は長門や日向を建造していたのは言うまでもない。

最初は黄海海戦や旅順閉鎖作戦などに参戦していた一介の軍艦に過ぎなかったが日本海海戦(対馬海戦)で旗艦を任された直後に当時世界で強いと言われていたロシア海軍におけるロジェンドヴェンスキー中将率いるバルチック艦隊を2日間で撃破したことをきっかけに有名になった。 ところが、性能や攻撃力は徐々に時代遅れに近づき相次ぐ戦艦大和長門等の近代装備を施した戦艦の建造によりだんだんと過去の存在になってしまい最終的に太平洋戦争に2年ほど参加した後は本土に終戦まで係留された。 ちなみに米艦隊との二次衝突を想定してヴォルテックスグラインダーを搭載し現代風にアレンジされた。 また、30年代生まれの国民からは戦艦といわれない限り「駆逐艦」と間違えられるほど。

その為、鉄材徴収により「変な形をしたただの船」になってしまうのだが捕虜にされた提督や米兵の鋭い意見から日本は戦後に修理をして復元。 そして軍オタ必見の海軍博物館となり現在に至るのである。 都市伝説の一つに数えられていて「実は現役」という噂がある。

外見から発生した事件[編集]

その中央に配置した艦橋に加え2本の煙突と前後に配置した主砲、更には左右に出っ張りだした小砲塔の印象はロシアにおいてバルチック艦隊の旗艦を勤めていたボロジノ級を彷彿していたため日本海軍は激怒して建造したイギリスに「なんで敵が持つ軍艦にそっくりな軍艦を造るねん!!これじゃ敵を真似したようで国民が嘆くやないか!!」と猛抗議をした。

イギリスは自己流デザインだと主張するが日本は聞き入れず「日英同盟を破棄する」という脅しを突きつけられた。恐れきったイギリスはなくなく予定にはなかったシュノーケルや散弾砲を設置し同盟破棄を回避するのであった。

近年では、名前が酷似している某二足歩行型レールガン兵器との混同により、若年層を中心に当艦の主兵装が電磁投射砲(レールガン)などと誤解されている事が多いが、当艦の兵装は至って普通の砲頓兵器と魚雷である。

戦果[編集]

黄海海戦[編集]

まだ就役したばかりで第一艦隊の旗艦を任される。そのとき率いた軍艦はおよそ18隻に満たなかった。最初は日本海軍が圧倒していたがロシアの待ち伏せ攻撃により一部の軍艦は喪失。三笠も急行したが50km以上離れていたため大幅な遅れが生じた。幸いなことにロシア側も旗艦が被弾したため戦闘継続が困難になり離脱する形で終わった。

旅順軍港閉鎖作戦[編集]

旅順に固まってるロシア太平洋艦隊を制圧するため出撃。そのとき、三笠は材木を山積みにした廃船10000隻を率いて突入。深夜の内に廃船や材木を沈めて入り口を塞ぐ。これによりロシアはバルチック艦隊の出撃を余儀なくされるのは言うまでもない。一応ロシアには立派なサルベージ船団があったが到着して引き上げ終了まで100年近くかかるためである。結局、頼みの太平洋艦隊は封鎖作戦により浮いてるだけの砲台と化してしまい日本海海戦の本端にもつながった。

日本海海戦[編集]

時の海軍司令長官である東郷平八郎により総計40隻の軍艦を率いる旗艦になった。

この存在をぶち破るべくロシアは軍艦を使おうとしたが太平洋艦隊が完成以前から行っていた日本軍の封鎖作戦により使えなくなり、結局ロシア海軍は「太平洋側の艦艇が使えないのならヨーロッパ側の艦艇を使えばいいじゃないか。」という意見にまとまりヨーロッパに集結していたバルチック艦隊を日本海に派遣し旅順軍港に放置されてる軍艦の解放を狙った作戦を開始する。

その時、バルチック艦隊は当時指折りの指揮系統を誇ったジノヴィー・ペトロヴィチ(歴史書などではロジェンストヴェンスキーと呼ばれている)少将(後に戦闘中に出世する)をリーダーとしており、部下には生き生きとした水兵や若き20〜26歳の士官候補生・徴兵された女学院の生徒の皆さん・頗る腕を持つ機関士に加え歴戦の砲手や肝っ玉の大きい兵士・極めつけに日本を憎むロシア人を人種関係なく集めた末に一万人以上を率いてヨーロッパから出航した。戦艦(しかも着工されたばかりの最新鋭でその名は「ボロジノ(ヂノ)」)や駆逐艦・病院船など50隻で編成されていたため遠方からでも確認できた程である。

だが、移動距離は長く3万キロを優に超えておりギネスにも登録されている。

なお、その姿は一部の日本人に目撃されておりこれらの情報は全て日本海軍に伝えられた。こうして5月27日〜28日に日本海〜対馬沖において日露総出での大海戦が盛大に繰り広げられた。

ところが、なんと数や質量でも劣るはずの日本はこの海戦で圧勝してしまう。日本側は偵察艇や水雷艇数隻沈没と死傷者160名前後だけで戦艦や駆逐艦は一隻も失っていないがが、ロシアは戦艦や駆逐艦の大半を喪失もしくは沈没し大打撃であった。

残された軍艦や駆逐艦は同盟国である中国や香港に避難するか、日本を数度砲撃した後座礁したり白旗を揚げて投降したりで死傷者は1000名前後であった。また、多数の軍艦は日本が拿捕して自国の船にしてしまった。

当時、バルチック艦隊に混じっていたロシアの水兵は、味方の軍艦が次々と炎上するか沈没していたのに対し三笠率いる連合艦隊は一隻も沈んでおらず整然と並んで大砲を撃ってくるのを見ており捕虜にされた後「ええい! 日本の連合艦隊はローレライか!!」と悔し紛れにコメントを残した。ロシア海軍本部もこの敗北を聞いて後世に、日本海軍は信じられない連合艦隊で我々を厭戦状態にしていきました。という動画を残している。

その為当時は「三笠に神が宿ってる」「海神が日本に味方した」等という噂が流れた。後、終戦後には既に三笠の雄姿を描いた映画が数多く作られた。

なお、当時は正確な勝因と敗因が研究されておらず数十年後に当時のバルチック艦隊の生活状態や長い航海・ロシアの艦艇のほとんどが黒色と呼ばれる旧式火薬を使っていた・日本海軍の丁字戦法・日本は最新鋭の通信機を使っていた・天候が荒れており旧式だった砲弾の命中率が更に低下したなどが明らかにされた。平成になってからはロシアの軍艦の構造について以上に挙げる理由が判明し日本の軍艦と致命的な差が見えた。

  • 小さい船体に無理に武装を搭載した。
  • ヨーロッパなど波が比較的小さい海域での戦闘を想定しており波が荒くなりやすい日本海には不向きだった。
  • 人員に対して救命艇の数が揃わなかった。
  • 釜に質の悪い石炭しか入れられず、これがスピード低下の原因になった。
  • そもそも、ロシアは戦艦を陸上への砲撃としか見ておらず戦艦同士の戦いを前提としていない。
  • ロシアは工業力が比較的いい反面、質の悪い鉄を軍艦に使っていた。
  • 食料庫が少なく、長期の航海を想定していない。
  • 装甲が薄く、一番のもので30mm程度。
  • 砲塔同士が重なるため視界が悪い。
  • 復元力が皆無に等しく、転覆しやすい。
  • 船底の形のほとんどが平行になっており、貝殻が張り付きやすい。
  • ロシア海軍は長らく海上での戦闘の研究を日露戦争直前までしていない。
  • なにより、ロシア人は軍艦の構造を他国に頼りまくっていた。

日露戦争後の状況[編集]

戦後、修理工場にて謎の爆発事故(諸説では石油タンクが爆発したか作業員が火の不始末をしたかの両説。 でもどっちなのかは見当がつかないんだよ)を起こしたため一度東京に戻される。 やがて、八八艦隊創設のため三笠含め旧式戦艦は戦艦としての役目を終えて中立支援や本土防衛軍という組織に成り代わるはずだったがアメリカが軍備縮小を提唱するワシントン軍縮条約の影響で八八艦隊そのものの計画が大幅に遅れたため三笠らはその代役を務めることになった。

第二次黄海海戦[編集]

日中戦争にも一時期出撃していたがすでに高速であり重武装である長門や金剛の時代であった。更に建造中だった大和や武蔵・信濃の出現でますます立場を追い込まれた。

というのもこの頃になると、軍縮条約を破棄していて既に長門や霧島などの新型戦艦が猛威を振るい三笠を始めほとんどの同世代の軍艦は湾内待機か後方支援とかを受け持つようになってしまい、遂には通称:超巨大海上要塞と呼ばれるバケモノまでもが立ち塞がりどんどん地位を追いやられた。

そこで、悩んだ関係者は中国軍の難民を乗せた船に向けて威嚇射撃。あっという間に難民を乗せた蒸気船は炎上し味方の駆逐艦に救助される。

しかし、敵艦は複数存在しており交戦した上で引き上げた。しかし、日本海軍は単なる小競り合いとしか見ておらずこの事実が知られることがないためなかったことのように扱われる。

太平洋戦争時[編集]

アメリカ本土砲撃[編集]

1942年に行われた。太平洋戦争時には既にありとあらゆるものを戦争に投入する国家総動員法が発令され、三笠にもついに光が差し込んできた……。

しかし、戦艦特有の艦砲対決ではなく単なる敵地への砲撃という重巡洋艦レベルの作戦だった。言われるまでもない。日露戦争の遺産を壊したくないためである。外観がなんとなくアメリカ海軍の戦艦メリーランドイギリスキングジョージⅤ世などに似ていることが目に付いてアメリカ本土攻撃のため星条旗を掲げて出航したが、途中でユニオンジャックに変えられた。そして、出航してから1週間後にニューヨーク沖にまで辿り着いた。

当然、アメリカはその戦艦が日本のものだとわかるわけがないから入港させてしまい歓迎の用意までしたほどである。そして、アメリカ人のアテンダントが扉を開けようとして乗艦した直後、突如中から日本人が出てきて撃ち合いになった。何のことかわからないうちにニューヨークは一面の廃墟と化した。三笠はその半月後に横須賀に帰ってきた。生き残っていたアメリカの兵士曰く、「最初は沈んだはずの戦艦ユタかと思ったらビスマルク追撃戦で大破したはずのキングジョージⅤ世なのか……そんなのどうだっていい、とにかくその戦艦が突然砲撃してきたんだぞ。」とコメントしていた。その後、正体が日本海軍の三笠だということが判明したのは5日後であった。

第二次アメリカ本土砲撃[編集]

1943年に実行される。しかし、その頃になるとアメリカが物量作戦を展開しておりニューヨークに侵入することは不可能とされ結局沿岸部砲撃という潜水艦レベルの戦いを行った。場所はサンフランシスコ沿岸部で徹底的に砲撃する。しかし、アメリカ軍の中はニューヨークに侵入できた三笠に神様が宿っているという都市伝説が流行しており誰も抵抗せずにサンフランシスコを放棄した。参戦した日本兵曰く、「海上大演習をしてるようだった」らしい。なお、この砲撃作戦以降は横須賀に終戦まで係留された。また、一部の機関砲や照準装置などの武装は外され大和や日向に乗せられた。

戦後〜博物館までの経緯[編集]

太平洋戦争終結後、ほとんどの軍艦を修理する中で三笠はあまり当てにされず野ざらし状態であった。その後、捕虜にしたアメリカ兵を集めておく「キャバレートーゴー」が日本政府の命令で建てられ戦艦ではなく「建物」として扱われた。なお、一部のアメリカ人はダンスホールと呼んでおり、実際に捕まえた米兵を強制的に踊らせる挙もしていた。又、船の防水性を利用して内部に水を溜めて、養魚場としても機能していた。この養魚場での捕まえた米兵の強制労働の実態は、釣りバカ日誌として映画化されており有名である。武装も一部は皇居の要塞砲として取り外されており軍艦としてみるには程遠い代物だった。この状態を見ていた当時捕虜にされていたアメリカの提督(ニミッツなど)や水兵は、「オーノー、我々ヲ打チ負カシタ日本人ノ第一号旗艦ダト思ウト情ケナイ。」とコメントしたため日本政府は直ちに戦艦として修理し復元。やがて、市民や幹部の命令で博物館になり現在に至る。なお、東郷平八郎の銅像平成になって造られたもの。

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実はこの三笠、平成X年に復帰すると言われる。しかし、正式な情報はまだ確認されておらず、もはや平成が終わろうとしている。

関連項目[編集]

Wikipedia
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