三好長慶

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三好 長慶(みよし ながよし) は戦国時代の武将。20年くらいの間天下人として君臨したが、大天使ガブリエルの生まれ変わりのごとく慈悲深く 清らかな心が俗世の汚れた空気に合わず精神を病んでしまった気の毒な人である。

で、何した人なの?[編集]

織田信長より先に天下人になった人です。四国の右半分と、京都、大阪、奈良、それから兵庫県の一部まで勢力を拡大したんだよ。 短気で人の痛みに鈍感でブラック企業の社長のような信長と違って、優しくて繊細で、文学が好きで、本当は争いを好まない人間の鑑だったんだ。 でも、一つだけ信長と共通するところがあった。

メンヘラだったという一点において。

信長同様、キレると残虐になる。しかし、メンヘラ度合では信長なんかより遥かに深刻だった。戦国の世に武士の子として産まれてきたのが不幸極まりない人物であった。

長慶の死後、三好氏は滅亡したが、香川、徳島には今でも三好姓の人物が多く、みよし市という自治体もある。これは、江戸時代の平民達が、蜂須賀やら松平やら、よそから入ってきた馬鹿殿よりも、かつての殿様である三好を慕い続け、明治維新後一斉に三好を名乗ったためである。どこぞの虐殺しまくった侵略者司馬遼太郎の大法螺で虚像が伝播した死の商人と違って、四国の人達に今なお慕われる、間違いなく名将である。

文化人としても知られており、連歌、茶道に造詣が深かった。特に連歌には耽溺していた。しかしそのせいで後世の人間から文弱、オタク呼ばわりされてしまっている。後世の当時より平和で生存率の高い時代に生きている現代人共が、殺伐とした時代に生きながら文化を愛した長慶をオタク呼ばわりして侮蔑しているのは傲慢以外の何物でもない。しかし三好家は織田信長の噛ませ犬というのが現代人の共通見解なのでしょうがないっちゃあしょうがない所もある。

現代人はおろか当時からも文弱なオタクという中傷はあったようで、それに対して長慶は


歌連歌 ぬるきものぞといふものの 梓弓矢をとりたるをなし 


と、見事な歌で反論している。「歌連歌」の部分を「サブカルを」「ポケモンを」「モンハンを」「ネトゲーを」などに変えれば、現代のサブカルも正当化できる。長慶はサブカルチャーの庇護者であり理解者であった。アニメ・ゲーム・漫画などが好きな諸兄は織田信長なんかより三好長慶を崇拝するべきである。信長もサブカルは好きだったが長慶はそれ以上にサブカルを愛し庇護したのである。

また、長慶の弟達、三好実休安宅冬康も、文化に精通した一流の風流人であった。だが末弟の十河一存だけは文化とあまり縁がない脳筋だったらしい。

え?野口冬長知りませんねそんな子は

前半生[編集]

幼少期[編集]

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当時の京都周辺は、時の権力者、細川政元の養子達による壮絶な権力闘争の下にあった。 後継ぎ候補の養子は細川澄元細川澄之細川高国の三人がいた。 何故三人も養子をとったのかというと、政元がホモで女嫌いだったため世継ぎが出来ず、適当にホモセックスしてアナルのしまりが良かった三人を養子にとったからである。

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当然後継者を巡り内紛が起こった。澄之がクーデターを起こして政元を殺害し、他の二人を出し抜いたが、行き当たりばったりのクーデターが成功するはずもなく、 あっさり澄元と高国に倒されて死亡した。その後、澄元と高国の間で争いが起こる。 この時、澄元サイドの中心人物として活躍したのが、三好之長、長慶のひいおじいちゃんである。

しかし、結局三好之長と細川澄元は高国に敗れ、之長はデブだったせいで満足に逃げられず捕まって切腹、 病を患ってる癖して無理して出陣した澄元はほうほうの体で実家の阿波(徳島県)へ逃げ帰ったがそこでついに力尽きた。

結果、高国の大勝利で終わるかに見えたが、そう簡単には覇権を掴めないのが乱世の定め。 澄元の息子晴元、之長の孫の三好元長によって第2ラウンドのゴングが鳴らされる。

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1527年、三好元長と細川晴元、ついでに足利義維が、逼塞していた地元阿波から出撃して畿内へ上陸する。 当時の室町幕府将軍は足利義晴、細川高国と権力でもケツの穴でもズブズブに癒着した関係である。

これに対抗して、晴元と元長は、義晴の兄でありながら、将軍候補から外され阿波に逼塞していた足利義維を大義名分の為に擁立してきたのだ。 この三好元長こそ、長慶の父親である。長慶はこの時僅か5歳、ゆとり世代の現代人共ならようやく「ハーイ」「チャーン」「バブー」以外の言葉が喋れるようになる年頃だが、 人生五十年と言われた中世、人は今より遥かに早熟であり、長慶は5歳にして大人顔負けの教養と作法を身に着けていた。 幼い長慶もこの時父親や晴元らに従軍し、畿内へ上陸する。

上陸した元長、晴元らは、丹波の柳本賢治波多野秀忠らと結託して高国と戦う。結果は元長が戦に強かったこともあり圧勝であった。 将軍足利義晴も、高国と共に京都を追い出された。 元長、晴元らは、足利義維を推戴し、大阪の堺に新政権を樹立、これは堺幕府と呼ばれた。 しかし、朝廷は徳島の田舎モンが擁立する得体の知れない奴に征夷大将軍なんかくれてやるかと、義維の征夷大将軍就任に反対し、許可を出さなかった。 そのため、堺幕府は形骸だけの存在であった。それでも、晴元、元長、義維らが天下に覇を唱えたことに変わりはない。 彼らは、実質的な中央政権の支配者となったのだ。


ところがそう簡単に天下は収められないのが乱世の常である。 戦に敗れ京都追い出された細川高国、彼も一時的にとはいえ天下に覇を唱えた天下人、ただでは諦めない、不撓不屈の意思を持つ勇将である。各地を放浪し、備前の有力武士浦上村宗と結託することに成功、リベンジを果たしに来る。

その頃、晴元と元長は仲違いを起こしていた。理由は、足利義維と夜のイチャイチャをする相手を取り合ったためだという。 怒った元長は、「実家に帰らせていただきます」とキレて阿波へ帰ってしまった。 一方で、同じ三好一族の三好政長は阿波へ帰らず、晴元に付き従って彼の側近となった。 戦上手の元長を欠いた晴元達は、リベンジしにきた高国に押される一方、絶体絶命のピンチに陥っていた。 晴元サイドには戦上手の柳本賢治がいたが、彼は浦上村宗の放った刺客に殺されてしまった。柳本を失った晴元達はますます劣勢に立たされていった。

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窮地に立たされた晴元は、自ら追い出した阿波の元長に、恥も外聞も投げ捨てて、「助けてドラえもーん」と哀訴した。 元長は単純な人間だったので、しょうがないなと哀訴を承諾、仲直りして阿波から堺へ再び上陸、高国をコテンパンに蹴散らし、ついに彼を捕えて切腹させることに成功する。 高国がくたばったことで、長きにわたる細川家の内乱は、細川晴元が最終的な勝者となった。

親父との涙の死別[編集]

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ところが、またしても晴元と元長が喧嘩を始める。晴元の側近に木沢長政茨木長隆という摂津国(大阪)出身の連中がいて、 彼らが「徳島の田舎モンの癖に元長はえばり散らしてて身の程知らずや、あと、魚臭い」と元長を排斥した。 ついでに、同じ三好一族で晴元の側近になっていた三好政長も元長の排斥に協力した。

戦国時代はバイセクシャルが当たり前であったが、元長は政長に性交渉を執拗に要求した、つまりセクハラを強行しようとしたため政長が憤激したという説がある。 これは戦国時代の公卿の日記である二水記に明記されている。

元長と仲違いした晴元はとんでもない行動に出る。形式だけだが将軍として擁立していた足利義維の梯子を外し、かつて細川高国が擁立していた足利義晴と手を組んだのだ。 つまりこれまで付き合っていた清純派の女の子将軍を捨てて、かつて敵とズッコンバッコンしていたビッチ将軍と手を組んだのだ。 廉恥・羞恥の欠片もないふてえ野郎である。元長は激怒した。かのヤリチンに必ず正義の鉄槌を下さねばならないと憤慨した。

それを差し引いても、元長はちょっと短気な性格であった。それを知悉していた茨木、木沢、政長らは、執拗に元長を挑発、 元長はあっさりそれに引っかかって、君側の奸の木沢長政を取り除くと大義名分を吹聴して挙兵した。 元長は特に、木沢長政と仲が悪かったのだ。

しかし元長は戦に強い。木沢、茨木、そして青二才の晴元では太刀打ちしようがなかった。 木沢長政は居城を囲まれ追い詰められた。焦った晴元、そこに茨木長隆が献策する。 一向宗を煽動してはどうか、と。

元長は法華経の信者。一向宗とは宗派が違い、宗教面で潜在的な敵対関係にあった。 長隆は一向宗の総本山の本願寺を煽りに煽る、もし元長が覇権握ったら、あんたらも潰されますぜ、と

本願寺の坊主どもは血の気が多いのでまんまと引っかかった、揃って挙兵し、あっという間に元長を追い詰めた。 元長の味方だった畠山義堯などは、悉く本願寺の坊主にケツをぶち抜かれて殺された。 そして凶手は元長にも迫る。最早これまでと観念した元長、まだ10歳の幼い長慶を実家の阿波へ逃がし、壮絶に切腹してその生涯を閉じた。

これが長慶が10歳までの経歴である。まだ幼い子供にはあまりにもショッキングすぎる人生である。しかしこれで終わらせてくれないのが戦国乱世であった。

宗教戦争の仲介[編集]

父・元長を失った長慶は、阿波に逼塞していた。元長が死んだ以上、長慶は家督を継承しなければならず、 10歳にして家督を継承した。

このまま阿波で三好家の維持の為奮闘しなければならない長慶、だが翌年、それ以上の大仕事を押し付けられた。 押し付けてきたのは、上司にして憎き親父の仇、細川晴元であった。

長慶の父・元長を、一向宗を煽動することで始末した晴元。ところが、その一向宗は制御不能になり摂津石山を中心に暴れまくっていた。 当時の本願寺の親玉は証如だが、まだ20歳にも満たない若造で、気性の荒い坊主どもを制御できるだけの経験も判断力もなかった。 過激派の坊主どもが台頭し、この世に本願寺の王国を作るなどと大仰な理想を掲げ、暴れに暴れ、 ついには細川晴元にまで牙を剥けるに至った。

困った晴元、この時まだ20歳そこらの若造、この混沌を鎮圧するだけの力はとてもなかった。再び「助けてドラえもーん」と哀訴する晴元、 今度の哀訴先は側近茨木長隆、三好政長らである。彼らはまた献策する。

「敵は一向宗だから、対立してる宗派の法華経煽動すればいい」
一向宗の暴走 について、茨木長隆

これを聞き入れた晴元、今度は法華経を煽動、「本願寺の連中の好きにやらせとくと法華経殲滅させられますよ」と煽り、 これに引っかかった法華経の坊主どもが蜂起して、一向宗と壮絶な殺し合いを展開するが、 京都を中心に畿内が荒れに荒れただけで混乱は一向に収束する気配を見せなかった。

三度晴元は「助けてドラえもーん」と哀訴する。哀訴する先は阿波の三好元長……と、哀訴の訴状を出した後で、 晴元はその元長を自分が殺したことを思い出した。あまりに混乱しすぎて1,2年前の自分の行動さえ忘れてしまう晴元であった。

しかし、この晴元の哀訴は受理される。手紙を受け取ったのは若き当主長慶。晴元は憎き親父の仇である。 当然断ることも出来たはず。しかし、阿波細川家の当主、つまり三好家の主で、晴元の従兄であり、かつ、長慶を庇護してくれている、 育ての親も同然の細川持隆

「あいつは確かにしょうもない奴で、お前の親父の仇だけど、このまま細川宗家が坊主に滅ぼされるのは忍びない、助けてやってくれ」
窮地の細川晴元 について、細川持隆

などと哀訴するものだから、育ての父ちゃんの言うことを無視するわけにもいかず、しょうがないな、と長慶は承諾して三度阿波から畿内へ上陸する。この時僅か11歳。

長慶は摂津へ上陸し、本願寺で細川と一向宗、ついでに法華経の間を仲介する。 だが、長慶が摂津にやってくるころには、細川晴元は、「もう誰も頼りにならねえよ、こうなったら軍事に任せて坊主ども潰すしかねえ!」 と、覚悟を決め、軍勢をかき集めて挙兵し、一向宗相手に有利に戦いを進め、本願寺を包囲していた。

そこに現れた長慶は、見事な弁舌と交渉を以て、細川、一向宗、法華経を和睦させることに成功した。 これには晴元も感嘆した。ついでに、親父の仇であるはずの自分を助けてくれたことに、感動していたようだ。もっともこの感動もすぐに晴元は忘れたようだが。


しかし、晴元の側近である木沢長政は違った。せっかく本願寺の糞坊主追い詰めてたのに、余計なことするなや、と、長慶を罵った。 木沢長政は長慶にとって憎き親父の仇の一人である。その仇に、恩で報いてやったというのにこの仕打ち。 長慶は心中穏やかではなかったはず、それどころか腸が煮えくり返る思いをしていたはずだが、 大局観のある彼は、恐縮です、とだけ頭を下げてその場を丸く収めた。


長慶にとって、法華経はともかく、細川晴元も、その側近の木沢長政、三好政長、茨木長隆も、一向宗の坊主どもも、憎き親父の仇である。 だが彼は私情を殺し、その仇達が潰し合っているのを仲介し、仲直りさせたのだ。この時僅か11歳、超人と言わずして何と言うべきであろうか。


凡人は絶対に真似をしてはいけない。

細川家家臣としての青年時代[編集]

坊主どもと細川の和睦を成功させた長慶は、その功績で細川晴元政権の一員となる。 しかし、長慶は新入りも新入りで、しかも晴元達が敵対して追い落とした三好元長の息子であった。 当然、先輩達からのイビりがあった。先輩というのは、茨木長隆、木沢長政、そして三好政長である。

特に三好政長とは、父親の代からの対立関係にあったため、軋轢を多く起こした。 政長は、長慶の所領を押領しまくった。その度に晴元が政長を庇った。 晴元にとって、政長は側近としての付き合いが長く、身内同然の存在だったからだ。


優しい長慶も流石にキレた。そして挙兵した。敵はあくまで政長であり、晴元に敵対する意思はありません、と 注意深く告知していた長慶だが、海千山千の政長に謀略、外交戦で敗北、政長は晴元を味方につけてしまった。 長慶は最早政長を討つことは『今は』無理だと判断して、晴元・政長と和睦する。ちなみにこの時、和睦の証として、 長慶の近習の小姓数名を『土産』、つまり性奴隷として晴元に献上している。

だが、長慶もこのまま諦める男ではない。地味にだが着実に、細川政権で権力を拡張し、 やがて晴元の言うことを聞かず、裁量で勝手に税を徴収したり、軍隊を動かしたり、やりたい放題とまではいかずとも、 勝手に行動するようになっていった。そして、やりすぎて晴元に「メッ」と叱責されるたびに

「ふぇぇ……ごめんなさい。細川家のことを思っての行動だったんです……」
勝手な行動 について、三好長慶

と弁明。形式上は真摯な弁明だったので晴元はその度に懐柔され、まあ仕方ないよねと許した。 長慶は、着実に晴元を手玉に取り始めるようになっていった。

憎き父親の仇とはいえ、この時は、長慶はそこまで親父の仇を取るのに積極的ではなかった。 しかし、木沢長政、三好政長、そして細川晴元、彼らは揃いも揃って「自爆」してしまい、結果的に、長慶に親父の仇討が出来る機会を提供することとなる。

自滅による仇討成就[編集]

1541年、長慶の父元長の仇の一人である、木沢長政を、長慶は攻め滅ぼした。自発的に、親父の仇を取ったわけではない。木沢長政が勝手に自滅したのである。

木沢は、同じく晴元側近である三好政長と仲が悪くなっていた。出世競争もあっただろうが、晴元のホモセックス相手を巡って苛烈にいがみ合ったらしいと、 山科言継が日記『言継卿記』に記載している。この時代、男色は当たり前であり、男の枕営業も常態化していた。木沢長政も三好政長も、もういい歳をしたオッサンだったが、 当時25歳ぐらいの細川晴元はショタもオッサンも食える肉食系男子だったらしい。

何はともあれ、政長と長政は対立関係になった。そして、競争、政争に長政は敗れた。敗れた長政は捨て鉢になり謀反を起こした。 セックスフレンドとして、晴元は木沢長政なんかよりも三好政長を遥かに気に入っていたので、晴元がどちらに味方するのは火を見るよりも明らかであった。

謀反した木沢長政を、長慶は三好政長や、河内国の有力武士、遊佐長教と共に攻撃した。結果、木沢長政は戦死した。

敵討ちをするつもりはなかったが、長慶の父親の仇の一人はこうして勝手に自滅したのであった。

兆候[編集]

木沢長政が死んだことで、長慶の父の仇は、細川晴元、茨木長隆、三好政長の三人だけになった。 この内三好政長が最も長慶との関係がギスギスしていたらしい。

しかし、文化に造詣の深かった長慶は、萌える平家物語女の子だらけの太平記など、当時の陳腐なアニメを見て、憎しみの連鎖は不毛でしかないことを悟っていたので、 親父の仇である細川晴元や三好政長とも、時々所領の押領を巡ってちょっとした殺し合いをしながらも、極力仲良くしようとしていた。 そんな長慶をブチ切れされる事件が勃発する。

長慶の被官に、和田新五郎という男がいた。この和田という男、なんと将軍足利義晴の子、つまり次期将軍である菊幢丸、のちの足利義輝の侍女と恋仲になって、 駆け落ちしようとしていたことが露見した。

中世においてあまりにも身分を超えすぎた恋愛は御法度である。細川晴元は怒り狂った。そして、和田新五郎とこの侍女を、処刑してしまった。 しかも、和田の方は、後に織田信長が自分を鉄砲で狙撃した坊さんを処刑した時のように、「鋸挽き」と呼ばれる、 残虐な処刑法で、じわじわとなぶり殺しにしたのである。見せしめが目的であることは言うまでもない。

優しい長慶は、心に深い傷を負い、また晴元に対する不信感を強くした。実は晴元の側にも、こういう残虐な処刑をしなければならない事情があったのだが、 この記事は三好長慶の記事であるため、この事件については、長慶が全面的に善で、晴元が全面的に悪ということにしておく。 主人公が正当化されるのは当たり前の話である。


そして、長慶が晴元に離反する、もう一つの布石が打たれていた。

長慶の父、元長と、晴元らによって討たれた、かつての天下人細川高国、 しかし、彼の勢力が完全に消滅したわけではなかったのだ。

高国の甥に、細川氏綱という人物がいた。この氏綱が 河内国の大名、畠山氏の被官であり、謀将として名高い遊佐長教と、手を組んで、度々晴元に対してテロ活動を行っていたのである。

兵力に劣り、大義名分もない氏綱達は最初こそ劣勢だったが、コネ作りと人を誑し込む詐術は上手で、 いつの間にか近江の六角定頼や、将軍足利義晴との間にもコネを形成していた。 そして、彼らは長慶にも接触している。

木沢長政を討伐した時、遊佐長教は長慶と共闘している。この際長教と長慶は知り合った。 長教は長慶の親父の仇が細川晴元や三好政長であることを知っており、長慶の憎悪を煽動するようなことをあれこれ吹き込んだ。

流石に遊佐長教のアジテーションにすぐに乗せられるほど長慶は馬鹿ではなかったが、影響を受けたのは確実であった

ついでにこの時、長教は愛娘を長慶に見せびらかして、「われながら綺麗な娘だと思います。セックスしたいと思いませんか?」などと言い、 我が子による色仕掛けを使って長慶を懐柔しようとした。後述するが、長慶は見事に懐柔された

決起[編集]

1548年、大事件が起こる。この年主君の細川晴元は、一旦自分達から細川氏綱の陣営へと寝返った摂津の国人、池田信正(以下、池田さん)を鎮圧、降伏させた。 池田さんは、結構な勢力の当主である。ところが晴元は、問答無用で池田さんを切腹させた

池田さんが、晴元と氏綱の間で、去就が定まらなかったため、不信感を晴元が抱いていたらしいが、それにしても拙速すぎた。 池田さんの家は摂津国の大名・国人の中ではトップクラスの規模であり、そこの当主に腹を切らせたのだから当然摂津国は荒れに荒れた。 細川政権が、末期の織田信長政権ほどの大規模勢力であれば簡単に力で鎮圧することが出来たのだが、 残念ながら細川晴元政権はまだまだそこまで盤石ではなかった。

パワーバランスを見誤ったために大混乱を引き起こしてしまった晴元、四度「助けてドラえもーん」と泣きついた。泣きつく先は最も信頼する側近の三好政長。 この頃は出家して宗三と号していた。 そこで宗三は考えた。自分の配下を池田家へ送り込んで鎮圧し、池田家を乗っ取ってしまおうと。策動する宗三。案の定失敗した

池田家、ひいては摂津の人々の非難が宗三に集中する。晴元の尻拭いをしただけなのに、良い面の皮である。これを傍目に見ていた長慶に、魔が差した


あれ、これもしかして親父の無念を晴らすチャンスじゃねえ?、と



そう考えてからの長慶の行動は迅速であった。細川晴元に対して、三好宗三は君側の奸である、こいつのせいで摂津が荒れた、 粛清するべきだ、俺に討たせろ、と、半ば脅迫じみた提案をした。

宗三とケツの穴で繋がった穴兄弟である晴元はこれを受諾できるはずもなく、突っぱねた。 晴元と長慶の間に、再び緊張が走ったのである。

ここで介入してきた男がいる。遊佐長教であった。 長慶は遊佐長教、ひいては彼と組んでいた細川氏綱と結託、明確に晴元と敵対する。 長慶はこの時、丹波の波多野秀忠の娘を妻としており、彼女との間に嫡男三好義興を設けていたが、 細川からの離反を契機に彼女を離縁して遊佐長教の娘と結婚している。 以前、長慶と長教が出会った際、長教は自分の娘を長慶に紹介し、色仕掛けで籠絡しようとしたが、見事懐柔は成功したようだ。

決起した長慶は晴元や三好宗三を追い詰め、晴元と宗三の軍勢を分断することに成功し、江口の戦いで快勝、三好宗三を討ち取った。 木沢長政に続いて、長慶は二人目の親父の仇を始末することに成功した。しかし、綿密に敵討ちの計画を立てていたわけではない。 時流に乗っかって行動してたらいつの間にか親父の仇が二人も自爆同前の形で倒れてくれたに過ぎなかったのだ。

一件落着……と見せかけて[編集]

合戦に大勝した長慶に、またしても魔が差す。


このまま京都まで進撃して京都征圧できるんじゃね?、と


大敗北を喫した細川晴元軍勢は上へ下への大混乱となった。晴元と手を組んでいた室町幕府将軍足利義晴、公卿の近衛稙家らも一緒に、 大慌てで京都から脱出。所謂「都落ち」である。京都はもぬけの殻となり、三好長慶、細川氏綱、遊佐長教らは京都を制圧した。 足利義晴は、晴元達が逃げる中「ふざけんな!最期まで抵抗しろ臆病者共!」と怪気炎を吐いて、無理矢理決戦に持ち込もうとしたが、 側近に腹パンされて気絶し、肩に抱えられて晴元達と一緒に近江まで避難したと、『足利季世記』には書かれている。

この時多くの細川晴元家臣、並びに足利幕府の家臣らは晴元や義晴に付き従わず、長慶に投降した。伊勢貞孝が代表である。 長慶の親の仇の一人である茨木長隆もこの時帰参してきた。

「親父の仇、盲亀の浮木優曇華の花、ここであったが百年目、お前も木沢や宗三同様あの世へ送ってやる!」
茨木長隆 について、三好長慶

……とはならなかった。優しい長慶は親父の仇である人間の屑茨木長隆を許してあげた。 その代わり今まで細川政権の重臣として活躍してきたのとは比べ物にならないほどの低賃金で死ぬまでこき使った。 これ以降、茨木長隆は二度と歴史の表舞台に出てくることは出来なくなってしまった。

その足利義晴、それから2年後、避難生活で身体を壊したのか、病死してしまう。後を継承したのは足利義輝、有名な『剣豪将軍』である。 しかしこの男、剣豪将軍などという高尚な響きの異名とは似ても似つかぬことをやらかした。暗殺である。

合戦に負けた晴元と義輝、勢い盛んな長慶や氏綱、長教。到底武力では敵いそうにない。 そこで、義輝は搦手を使ったのである。

細川氏綱軍はまだまだ烏合の衆。首脳陣である氏綱、長慶、長教らを葬ってしまえば、簡単に瓦解してしまう。 義輝は、江口の戦いの快勝や氏綱軍の勝利に顕著に寄与した長慶こそ彼らの中核にして司令塔だと判断しており、 彼を始末するべく何回にもわたって刺客を送り続けたのである。

しかし、暗殺計画は全て失敗した。暗殺者の一人、進士賢光がもう一歩のところで長慶の首をチョンパできたのだがこれも失敗した。 義輝は地団太を踏んで悔しがったが、この暗殺計画、一方では成功した。 細川氏綱軍の首脳の一人で、長慶の新しい嫁さんの父、遊佐長教を、義輝達は見事に暗殺することに成功したのである。 長教が親しかった坊さんを、義輝達が買収して殺させたらしい。本願寺と言い坊主共は本当にロクなことをしない。

そして細川氏綱にも刺客の手は伸びていたが氏綱は細川晴元に抵抗してゲリラ活動をしていた時からその首魁として何度も刺客に首を狙われ暗殺未遂の被害に会ったことがあったため、 自分が狙われることについては嗅覚が鋭く経験も豊富であった。そのため刺客の攻撃を回避率100%で回避し続けることに成功した。 あまりに暗殺が成功しないものだから義輝は氏綱の暗殺を早々に諦めている。


しかし、遊佐長教の死の影響は大きい。統率力のあるリーダーが死んだので遊佐家、ついでに河内そのものが大混乱に陥った。 これを収束させたのが長慶である。畠山重臣の安見宗房と協力して騒ぎを鎮圧させたようだ。 結果、長慶に対する人々の人望はますます高まった。もう事実上長慶が支配者でいいんじゃないのという風潮が醸成された。 長教を暗殺したことで、権力と人望が長慶に集中し、かえって義輝達は敵の勢力の基盤を盤石化させてしまったのである。つまり、


足利義輝は必死こいて暗殺コマンドをF5連打しながら、結果として敵に塩を送るだけであった。


かくして、長慶は事実上畿内の支配者となった。しかし、本当の戦いはこれからだったのだ……

後半生[編集]

剣豪将軍と和睦[編集]

1552年、長慶の敵の一人で、追放された足利将軍を庇護してくれていた六角定頼が死去した。後を継いだ六角義賢は、大物の親父も死んだし、三好はどんどん精強になるし、もうこれ抵抗するの無理じゃね?と、時流を読んだ方針転換などと耳触りの良い事を言って、親父の頃の反三好姿勢より転換、三好家に融和的になり義輝と長慶を和睦させようとした。

……が、勿論義賢も腹に一物抱えていた。長慶はメンヘラやからちょいと煽るとすぐ手玉にとれる、と亡き親父から教えられていた六角義賢は、優しく親切な仲介人のふりをして長慶を油断させようとしたのだ。義輝も義賢に同意して、面従腹背という形式で長慶と和睦した。

だがこの時、江口の戦いで寵臣三好政長を始め家臣を大勢殺され政権を転覆させられた細川晴元だけは執拗に和睦に反対した。「和睦しぢゃい゛や゛な゛の゛ぉ゛ぉ゛ぉぉぉ」と、義輝と義賢に執拗に泣きついて和睦に断固反対、あまりにウザくて邪魔だったので義輝は晴元を追い出した。かつて中央政権の王者であった晴元はついにホームレスになってしまった。三好長慶はメンヘラと伝わるが、彼の主君細川晴元も没落のショックでメンヘラと化していた。

だが仮にも元天下人、晴元は一人ではなかった。芥川孫十郎、摂津の池田氏、丹波の波多野氏などが、晴元を支持して長慶に反発、挙兵した。すわ俺様の政権の一陽来復かと晴元は歓喜したが、あっという間にこれらの反乱は鎮圧された。

三好政権全盛期[編集]

しかし、懲りない義輝は晴元の梯子を外して長慶と和睦しておきながら再度よからぬ企みをして決別、近江へ追い出された。追い出された義輝は逆上し、かつて捨てた晴元と再び手を組んで長慶へ嫌がらせをし続けた。そんな義輝に愛想をつかしたのか、義輝の家臣の内、年配の者を中心に多くが長慶に寝返ったり出奔したりした。しかし、その分義輝は若い世代の人材を登用したので「去るなら勝手に去れ、年寄りなんざむしろこっちから追い出してやる」と、全く気にしなかった

それから約五年、義輝は京都へ還れなかった。辺鄙な近江朽木で雌伏の時を過ごさなければならなかったのである。総理大臣がインベーダーの侵略に敗れて東京の首相官邸を追い出されて群馬の山奥に拠点を置かざるを得なくなるようなものである。しかも京都の人々や公家はそのインベーダーを良い為政者だと迎え入れ、天皇も特に文句を言ってこないのだから義輝の面目は丸つぶれである。鬱憤を溜まらせた義輝、何とかして三好一族を叩き潰せないか、試行錯誤の果て、剣豪将軍と呼ばれた義輝は更なる権謀術数の腕を磨いてゆく。もう全然剣豪将軍でも何でもない、ただの謀将です。本当にありがとうございました。

1558年、長慶は義輝と和睦した。そして義輝は京都へ帰還した。無論、義輝と六角義賢が、人が良く優しい長慶を騙した結果である。この和睦について、『御湯殿上日記』という史料が「長慶と将軍が和睦してめでたしめでたし」などと言っているが、こんな簡単にハッピーエンドが来るはずもなく、本当の長慶と義輝の暗闘はここから始まるのであった。

長慶と和睦した義輝。しかしながら当然その姿勢は面従腹背である。細川晴元が頼りにならないので、彼はもっと遠くの地方の大名とコネを作り始めた。それが織田信長上杉謙信である。

信長は、父ちゃんの織田信秀が朝廷に一杯献金するなどして、中央政権とは前からコネがあった。上杉謙信は、新潟の馬鹿で単純な田舎大名で、すっかり形骸化してなお、将軍への忠誠心が強かった。 この二人は、義輝にとってまさに格好の政治の道具であった。

せこい義輝は長慶と和睦したのをいいことに、三好家の財布から道中の交通費を工面させてこの二人を上洛させてあげた。上杉謙信の方は謀略と縁もない戦が上手なだけの阿呆だったので、北条氏康を潰しといてねと厳命するだけにとどめたが、信長とは、義輝は様々な密談をした。これは後の信長上洛の布石になる。信長はそれだけにとどまらず、京都にいる間、近衛前久立入宗継万里小路惟房など、様々な公家や朝廷周りの人間と仲良くなり、「いずれ俺が上洛する時は根回しオナシャス!」と、賄賂片手に彼らと結託した。しかし、そうした裏でコソコソやってるのが長慶にバレそうになったので、帰郷した。