一条兼定

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麿の自画像じゃ。

ほっほっほ…麿のことについて知りたいでおじゃるか?創価☆創価、ならたっぷりとまろの輝かしい生涯と模範的名君たるまろの治世について教授してやるでおじゃる。この一条兼定が直々に教えてやるから、ありがたく思えでおじゃる。

「若…くれぐれも羽目を外さぬように。」
一条兼定 について、土居宗珊

うるさいでおじゃる。相変わらず守役であるのをいい事に重箱の隅をつつくが如く麿のやることなすことに口出ししおって。麿は一人前の戦国大名でおじゃる。それといつまでも若って呼ぶな!

自己紹介でおじゃる[編集]

まろの名は一条兼定(いちじょうかねさだ)でおじゃる。公家の名門一条家の出身でありながら、辺境の土佐に赴いて開拓を行い、土佐を四国の桃源郷と呼ばれるほどに発展させた一条教房公から数えて5代目に当たる土佐一条氏の当主でおじゃる。

稀代の英傑である麿の輝かしい生涯でおじゃる[編集]

まろの父にして4代目当主の一条房基は、名君と名高い大名でおじゃったが29歳の若さにして突如自殺してしまったでおじゃる。おそらくは北村透谷川端康成のように、鋭敏すぎるがゆえに戦国の世の無常を感じすぎてしまい、大名として領土を治めなければならない自らの義務との葛藤に苦しんだが故の自殺でおじゃる。いつの時代も世間の風流人、芸術家に対する風当たりは厳しいでおじゃる。かのベートーベンも晩年は近所の子供達から気違い扱いされて石を投げられてたと言われておじゃる。恐らく父上も家臣から侮蔑の眼差しで見られていたのでおじゃろう。この不忠者ども、お前らがもう少し父上のナイーブな心中を察知して理解しようと勤めていれば、父上は若くして命散らすこともなかったのでおじゃる!

…話がそれたでおじゃる。かくして父が夭折してしまったため麿が僅か7歳で実権を握ることになってしまったのでおじゃる。普通なら、この歳で家督を継いだ大名は重臣達に傀儡として担がれ都合のいいように扱われるのが運命でおじゃるが、聡明な麿は若干7歳にして既に政務を一人で行っていたのでおじゃる。

「…本当はわざわざ京都から赴いた一条房通殿や重臣達が後見を務めていたのですが…」
一条兼定 について、土居宗珊

…雑言は無視して話を続けるでおじゃる。全く、麿の活躍を一番間近で見てきた身なれば、英君たる麿の有り様を正直に伝えるべきでおじゃる…さて、すくすくと成長し、麿は荘厳な風格と優雅さを兼揃えた戦国大名に見事成長したでおじゃる。身長も当時の平均身長である156cmを突破したでおじゃる。麿はさらに文通友達の大友宗麟の影響を受けてキリシタンに帰依したでおじゃる。逸早く当時の流行を取り入れた麿の先見性が分かるでおじゃろう?

しかしそんな麿の前に憎き終生の敵、長宗我部元親が立ちはだかったでおじゃる。こやつはどこの馬の骨とも知れない、おそらく同胞の人肉を食って生活してると思われる蛮族でおじゃる。見た目もダイダラボッチのようにでかかったでおじゃる。あんなのにまともな理性があるとは到底思えないでおじゃる。

だが所詮は知恵でも武力でも到底麿に及ばないチンピラレベルのバルバロイである長宗我部ごときが麿に勝てるわけが無かったのでおじゃる。長宗我部をやっつけた麿はその後見事四国を統一し、そこに麿を頂点とする聖十字軍の国を樹立させたでおじゃる。麿の作り上げた四国は織田信長豊臣秀吉徳川家康の干渉さえも受け付けず、江戸時代を通して独立を貫いたでおじゃる。島原の乱では天草四郎時貞に土佐から聖十字軍の援軍を送り、幕末期には官軍として活躍したでおじゃる。一条家の末裔が、ローマ法王などの外交を担当されたと記述されてる資料もあるでおじゃる。暇だったら国立図書館を片っ端から探してみるといいでおじゃる。多分資料が見つかるでおじゃる。ちなみに天草四郎時貞は麿の隠し子でおじゃる。あのカリスマ性は親の麿譲りだったのでおじゃる。

「若!いくらアンサイクロペディアとはいえ、捏造が過ぎまするぞ!」
一条兼定 について、土居宗珊

う…だ、だって、戦国関連のサイトはどこもかしこも麿のことを悪く書きすぎでおじゃる。それにいくらなんでも信長の野望での麿の評価は酷すぎでおじゃる。信長の野望かじった程度で歴史家気取りになった厨房共に中傷されるのは耐えられないでおじゃる。全てはコーエーが悪いでおじゃる。大体コーエーは特定の武将を贔屓しすぎでおじゃる。グスン。伊予侵攻ではもう一歩のところまで行ったのじゃ。敵方援軍の毛利軍だって一時はあわてておった。それが信長の野望では毛利軍の助けがない状態でさえ、伊予河野家に歯が立たないではないか。それはまったくおかしいでおじゃる。それに捏造なら長宗我部家だってやってるでおじゃる。散々麿の事を悪く書き連ねおって。関ヶ原で改易されたのはざまあみろでおじゃる。しかし後から入ってきた山田粕豊…でおじゃるか?あれは無個性でおじゃるな。あんな没個性な奴が治めてるから土佐は未だに田舎なんでおじゃる。わしが土佐を治めとったら今頃高知は日本の首都になっていること間違いなしでおじゃろう。しかも坂本竜馬って誰でおじゃるか。長宗我部旧家臣の末裔?つまり蛮族ってことでおじゃるか!何でそんな野蛮人が英雄扱いされているのでおじゃる。高知県民も見る目が無いでおじゃる。民度が低いでおじゃる。土佐の英雄と言ったら麿意外考えられないでおじゃろうが!ブツブツ…

「若…ぶしつけながら、若が今川氏真に匹敵するボンクラとしての風評がまかり通っていること、これは事実であります。そして若が讒言に惑わされ某を…したことも…」
一条兼定 について、土居宗珊

う…うるしゃいうるしゃいうるしゃい!あ…あの時は本当に裏切られた絶望感で目の前が真っ暗だったでおじゃる!宗珊は煩わしくていつも麿を子供扱いして煙ったい家臣であったが、麿に対する忠節だけは…ヒッ…誰よりも厚いと信じていたのは…本当でおじゃ…ヒック、ヒック…

その後の兼定[編集]

兼定が泣き寝入りしてしまったので、この節は土居宗珊が執筆しています。


前述の土居宗珊の言葉通り、兼定は長宗我部元親が流布した流言に誑かされ疑心暗鬼の念からついには土居宗珊を粛清する事になる。この行為をおよそ戦国大名とは思えない愚挙と的外れな非難をする愚か者がいるが、これは、誤りであり、兼定が土居を粛清したと言う結果だけに着目しているに過ぎない。兼定が忠臣である土居の粛清を断行するまで、どれほど思案し苦悩したであろうか。さらに言えばかの上杉謙信も流言のかどで家臣を粛清したと言う話が残っており、徳川家康武田信玄に至っては実の息子を粛清し、御家を揺るがしている。しかも見苦しい事に家康は「織田信長に妻子の殺害を強要された」、信玄は「息子が翻意を抱いていた、ついでに長男の器量では武田の跡取りに相応しくないと思った」と言い訳をし、両者とも「だが反省はしていない」と締めくくっている(そもそも、信玄と嫡男義信の仲が険悪になった原因は信玄である)。

また、これ以前から長宗我部元親による一条家臣の切り崩しが頻繁に行われており、これを阻止するための見せしめの意図もあったと言われる。土居宗珊の粛清は、これ以上一条家から寝返りを出さぬための苦肉の策であり、一種の必要悪であったと取れる。土居宗珊が誠に元親に内通していた、と言う説もある。

しかしこの兼定の意図は裏目に出た。忠臣である土居を粛清した事は、一条家臣達の間に反発と恐れを抱かせ、さらには「唯一無二の忠臣を粛清するような暗君に奉仕する義理は無い」と言う免罪符を与えてしまったのである。一条家臣は雪崩の如く長宗我部側に降って行った。兼定は尚も孤軍奮闘するも、ついに矢折れ刀尽きる。兼定はその暴政に不満を抱いた重臣達に追放されたと言うがこれは誤りである。史実では長宗我部の魔の手にかかるより前に、重臣達が兼定を豊後まで逃したのである。兼定を庇護した大友宗麟も、兼定の人徳を十二分に心得てか、手厚くもてなした。

しかし兼定は流浪の身ながら宗麟の食客として日々を過ごす事を斬鬼の念に絶えず、勝ち目なしと悟りながらも大友氏の僅かな援軍を得て長宗我部との決戦に赴くことになる。この時の兼定が漂わせる悲壮感、死をその身に感じながらも毅然とした挙措は、巷で言われているような卑俗な愚君などではなく、まさに土佐一条氏の主に相応しい高尚たるものであった。大友宗麟をして「一条教房公が乗り移ったかのように見えた」と言わせている。

土佐に帰還した兼定を、一条旧家臣や土豪たちは歓声をもって出迎えたと言う。兼定の下には見る見る兵が集まり、その数少なくとも3500にまで昇った。いかに兼定が人徳の篤い名君であったかお分かり頂けるであろう。兼定は四万十川の地形を最大限に利用して長宗我部軍を迎撃する作戦を発案。見事長宗我部軍を誘い込むことには成功したが、相対する長宗我部軍は、元親が部下達に「負けたら全員茹で釜の刑にしてやる」と脅していたため死に物狂いの形相で突撃、一条軍は兼定自ら先陣で太刀をふるって奮戦したものの、全く統率が取れていないものの数で圧倒する長宗我部の蛮族共に叶わず遂には散り散りになり退却する。この戦は後世、長宗我部元親の華々しい活躍を誇張するためにさも長宗我部軍の大勝利であったかのように脚色されるが、実際はむしろ数で圧倒する長宗我部軍に兼定らが十二分に過ぎるほどの奮戦をした、一条氏の勇猛さを四国中に知らしめた戦いであったと言える。

しかし兼定は大志を捨てることなく、土佐の草庵に隠遁し、密に再起を図っていたとされる。土佐の一条旧家臣、領民は長曾我部家の弾圧に苦しみながらも、土佐の伏竜兼定がいつか自分達を解放してくれることを切に願っていた。

そんな兼定が、長宗我部家にとっては煩わしい存在だったのであろう。長宗我部家より刺客が放たれ、兼定は一命こそ取り留めたものの左腕を失った。一説には、長宗我部の刺客が放った鉄砲玉が胸部に命中したものの、首からかけていたロザリオが凶弾を防いで兼定の命を救い、兼定はイエス・キリストに深く感謝の拝礼を捧げたと言われる。彼ほどの聖人君主にして熱心なキリシタンを、母なるイエスも見捨てなかったのであろう。

土佐一条家最後の当主兼定は土佐の民に惜しまれながらも1585年死去する。刺客に襲撃された時の負傷が原因とも、病とも言われる。その悲報に土佐は愚か四国の民全てが慟哭し、兼定に刺客を放った長宗我部元親も黙祷したほどだった。兼定の死後間もなく、豊臣秀吉による四国征伐が行われ、兼定の仇敵長宗我部は秀吉に下ることになる。兼定の長宗我部打倒の悲願はこうして報われる事となった。兼定の慰霊碑には、今も世界中からキリスト教徒たちが訪れている。

「…宗珊、この節はそちが書いたのでおじゃるか?お、おぬしと言う奴は…(涙)」
その後の兼定 について、一条兼定

兼定に対する周囲の評価[編集]

一条兼定について、大場快
「同情の念を禁じえません」
一条兼定 について、尼子義久
「こいつはいいよ、俺なんてボンクラな上影まで薄いんだぜ?('A`)」
一条兼定 について、肝付兼亮
「俺も土居宗珊みたいな使える忠臣欲しかった…(´・ω・`)」
一条兼定 について、アベ・ハート様
「…何も言うことはない。ただ、コイツを謹呈してやりたい」
一条兼定 について、織田信長

関連項目[編集]

Wikipedia
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