レオニード・ブレジネフ
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
ソビエト社会主義共和国連邦閣僚評議会付属国家保安委員会認可
本項の文章と内容は、完全に正しい事実としてソビエト社会主義共和国連邦閣僚評議会付属国家保安委員会第10課長により認定されており、 全ての無産階級人民と、ソビエト連邦共産党員に見せることが認可されています。 この資料を疑うことは思想犯罪であり、疑った場合は国家反逆罪の対象とされます。 |
レオニード・ブレジネフ(Leonid Il'ich Brezhnev, 1907年1月1日(ユリウス暦1906年12月19日) - 1982年11月10日)とは、ソ連の最高指導者だったゆで卵で、フルシチョフの永遠のライバルである。 スターリンの死後、スターリンに傾倒していたブレジネフは左遷されたが、フルシチョフがスターリン批判を行った際にスターリン復活によって死亡したため、ソ連の最高指導者に就任した。 判りやすく言うなら、ソ連のブッシュ、この一言で足りる。
[編集] 生い立ち
彼はウクライナで生まれ、その後ロシア共産党でロシア的倒置法を学び、彼が作成した倒置法をスターリンに評価したことによって、彼はスターリン主義者となった。 しかし、スターリン死亡後、フルシチョフによる支配が確立された中でスターリン主義者であったブレジネフは左遷され、カザフスタンあたりに飛ばされた。その後、フルシチョフが馬鹿だったためにブレジネフはモスクワに呼び戻され、政権の中枢部に巣食うこととなった。
[編集] 最高指導者
フルシチョフ失脚後、まともな人材がいないという理由でブレジネフがソ連の最高指導者に就任した。 そして、最初にスターリンの擁護を行い、フルシチョフが行ったスターリン批判を批判した。 その際に、KGBの建て直しを行い、力を回復させた。
彼はその後、国際会議がマイブームになり、国際会議を行うために何度も西側諸国を挑発するというエクストリーム・スポーツを行っている。 それがゆえにブレジネフの死後、ブレジネフの評価は下から数えた方が早い位置になっている。
彼は1960年代初めに中国にケンカを売ることを決意した。珍宝島というステキな名の島が欲しかったからである。ブレジネフは精神的に厨房であったので、チンコとかマンコとか言いたくて仕方がなかったのである。ソ連海軍を派遣してエロマンガ島を占領する計画も、個人的には検討していたようだが、日記に書いた時点でお母さんに叱られたので諦めている。
また、英雄になりたかったというコンプレックスもあったらしく、ソ連邦英雄を生涯で4度受賞している。ちなみにこれは国内最多記録タイである。
晩年は頭の老化からいろいろやばかったが、勲章だけは体のあちこちにつけていた。もちろん体内にもである。最終的には自分の脳の中に勲章を内蔵しようと計画したが、その前に急逝してしまった。
[編集] 国家機密
ブレジネフが馬鹿野郎である事はソ連の最重要の国家機密であり、長年に渡って隠蔽されてきた。1982年、ひとりの酔っぱらいが赤の広場で「ブレジネフの馬鹿野郎!」と叫んで、この秘密を暴露してしまった。結局この酔っぱらいに対しては、国家機密漏洩罪として10年は妥当として、さらに名誉毀損罪5年が加算され、合計で懲役15年の実刑判決が下された事からも、ソ連政府の狼狽が現れている。ちなみに現在もこの酔っぱらいの正体は明らかにされていない。ゴルバチョフは恩赦を出してこの酔っぱらいを救おうとしたが、その直前にソ連が崩壊し、失脚した。
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