ラモン・メルカデル

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殺る気まんまん

ラモン・メルカデル、正式にはハウメ・ラモン・メルカデル・デル・リオ・エルナンデス(Jaume Ramón Mercader del Río Hernández、1914年- 1978年)は、ソヴィエト連邦登山家にして、トロツキー秘書の恋人である。

目次

[編集] 登山口

今日ソヴィエトの建設者として有名なかのゆでたまごが簡素な演台に上がり聴衆に自説をぶっぱなす中、彼に寄り添うようにして立つ、ちょっとひしゃげたやや固めのゆでたまごがいた。この眼光鋭い学者肌のウクライナ産のたまごは名前をレフ・トロツキーと言って、レーニンの信頼厚い有能な政治家であったが、後に彼の指示する政党の指導者が交代すると、一転して死の影におびえ逃亡する生活を送るようになる。彼はこの時点ではそんなことは知る由もなかったが、フランスにいたラモン・メルカデルにはもっと分かりっこなかったし、実際どうでもよかった。ラモンは広い庭を駆け回って遊び、ママに焼いてもらったマドレーヌを食べ、レモネードを飲んでいた。

[編集] 1合目

レーニンの死後もトロツキーは熱心に活動を続けたが、彼の複雑な理論は新指導者のスターリンになかなか受け入れられなかった。彼が党のために日夜しこしこと論文を執筆する間に、スターリンは彼の党内における居場所を丁寧につぶしていった。1925年、異変に気づいたトロツキーはあわてて残りわずかな彼の役職にしがみついたが、スターリンが笑いながらその指を一本一本はずしてくれた。一方ラモンはといえば、参観日に「ぼくも、おおきくなったら、ままみたいに、おくにのために、すぺいんきょうさんとうで、いっしょうけんめいはたらきたいです。」という内容の作文を朗読し、教室の後ろの父兄のぎごちない拍手を受けていた。

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1936年、スペイン内戦が勃発すると、ラモンの家庭にもとある問題が勃発した。母親が新しい恋人を連れてきたのだ。「このレオニードさんはいい人だから仲良くするのよ」と言われても、そうすぐに打ち解けられるわけもなく、むしろなんか怪しいぞ、怪しいぞ、と思いながらなんとなく一緒にいるうちに、ラモンは母親と共に、いつの間にかスターリンのエージェントとなっていた。ママの恋人の正体はソ連の諜報員ナウム・エイチンゴンであり、彼からラモンにトロツキーの暗殺指令が下るまでに長くはかからなかった。こうして彼の、エイチンゴンの使い走りとしての第二の人生がスタートしたのだった。

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1938年6月、ソルボンヌ大学の平凡な学生となっていたラモンはパリに赴き、トロツキーの秘書、シルヴィー・アゲロフに接触した。「やあ、ボクはジャック・モルナール。パパはベルギー人の外交官さ。」嘘八百である。シルヴィーはこのクールでどこかミステリアスな雰囲気を持つめがねの青年にたちまち好意を抱き、翌年9月には彼を故郷のブルックリンに持ち帰り、もとい連れて行った。(エイチンゴンの)計画通りである。

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彼はエイチンゴンから連絡を受け、パスポートを得た。「これはスペインで一緒だったトニーのものだが、もうあいつには必要ないから使ってよい」と意味深なことを言って、エイチンゴンはトニーの写真を削り、ラモンのものと貼り替えた。偽造パスポートの出来上がりである。パスポートにジャックとは別の名を使っていることに関しては、「最近治安悪いからさー」と説明した。シルヴィーは信じた。アホか、シルヴィー。

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とんとん拍子に事が進み、39年の10月、「ちょうど会社の仕事があるから」と言って、シルヴィーと共にトロツキーの亡命先のメキシコへ向かったラモンであった。会社の社長はもちろんエイチンゴン、詰まるところがである。馬鹿女は思惑通りトロツキーにラモンを紹介した。トロツキーは一度住まいを爆破されてからは要塞のような小屋に住み、護衛を張り巡らせていたが、軟禁に近い状態に自らを置いていたため刺激がなく、考えることといえば現地で知り合ったつながり眉毛の女流画家のところへどうやって護衛の目を盗んで会いに行くかということくらいで、毎日避難訓練と称してアホな脱出ごっこを繰り広げていた。要するにかなりぼけていたので、何の疑念もなくラモンを迎え入れ、ファンだと言われて大喜びしていた。人間もこうなってはもうおしまいである。その上たちどころにラモンを気に入り、頻繁に訪問することを許してしまった。もうおしまいである。

[編集] 頂上

1940年8月20日、ラモンもといジャックは、いつものようにトロツキーの『要塞』を訪ね、彼ににこやかに挨拶をすると、分厚い原稿用紙の束を取り出し、査読を依頼した。自分のファン(と信じ込んでいる男)の論文を喜んで読み始めた哀れな老人の脳天に、ラモンはピッケルをおもいきり振り下ろした。

アッーーー!

凄まじい悲鳴が響き渡り、屈強な護衛の男達が駆け込んできた。状況を察知した彼らは直ちにラモンを殺しにかかったが、そのときトロツキーが叫んだ。「やめて!あたしのために争わないで!」彼の頭をアロンアルファで元のまともな状態に戻そうと部下が懸命な努力を続ける中、トロツキーは一日昏睡し、21日についに死んだ。なかなかしぶとかった。

トロツキー暗殺


[編集] 下山

ラモンの逃亡を援助すべくメキシコシティに駆けつけたエイチンゴンとその部下一人は、彼が戻らないと見るや、薄情にも自分達だけスティーブ・マックイーンばりに華麗にゲッタウェイした。エイチンゴンはその上トロツキー暗殺部隊の粛清ただ一人免れ、レーニン勲章までもらっている。

逮捕され尋問を受けたメルカデルは、「ワターシ、『ジャン・モーガン・ワンデンドライン(いつ考えたんだ)』デース。ココノコトバ、チョトムツカシネ。ワカラナイネ。」とうそぶき、それがすぐにばれると、「本当の名前はジャック・モルナールだ。奴がシルヴィーとの結婚を認めてくれなかったから、ついカッとなってね。やっちまったんだよ、フッ。」と、これまた大嘘をこいた。彼はこの口調(アラン・ドロン風)で最後まで押し通すつもりだったが、1950年に指紋を取られて、彼の演技は終わった。こうしてメキシコ人からも本名で呼ばれるようになったラモンは、再三の司法取引の誘いを「暗殺者にも仁義ってもんがあるのさ」と時代遅れな台詞を吐いて蹴り続け、とうとう20年の刑期を勤め上げた。出所してこっそりソ連に戻ったラモンが見たのは、スターリンの遺影と、全然知らない顔のエージェントたちの、ゴキブリでも見るような苦々しい顔だった。彼は今や立派なスターリン時代の英雄」(シーラカンスもしくはゴミであった。ソ連共産党に入るという長年の夢破れたラモンは失意のうちにキューバに赴き、そこの外務省で働いた。そして老後に移り住んだハバナで、バナナを喉に詰まらせて死んだ。

絵に描いたような丁稚あがりの人生、そこには、アラン・ドロンのような美しさも、ダンディズムも、微塵もなかった。彼の前にあったものは、ゲロ鉄格子だけだった。

[編集] 登山杖

[編集] ザイル

後年発見された、トロツキー暗殺に使用されたオバサン…もといピッケル。このオバサンの父親は警察官僚で、証拠品であったこのピッケルをこっそり持ち帰っていたらしい。駄目じゃん。
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