ヨハン・エック

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ヨハン・エック(1486年11月13日‐1543年2月13日)は、ドイツカトリック神学者であり、恐るべきディベートの達人である。

生い立ち[編集]

チョコの中身は玩具である。

ヨハネス・マイエル・ヴォン・エッグはスワビアのエックに生まれた。後にその地名をとり、ヨハン・エックと名乗るようになる。彼は幼少より記憶力が抜群で、司祭であり彼の教育にあたったおじをしばしば驚かせた。勉強机の前にいないときは決まって塀の上に座り、重い頭を揺らしながら瞑想している不気味な少年であった。彼は12歳のときハイデルベルグ大学に入学、1501年に修士号を取得して神学の研究を始め、1508年にストラスブールにてとなり、2年後に博士号を取得した。 1506年に初めての論文を発表し、そのたぐいまれなる弁舌の才を発揮しだす。それからというもの、彼はその博識と隙のない論とすさまじい毒舌をもって同僚たちを次々と打ち倒し、1510年にインゴルシュタット大学の椅子を手に入れるのである。1512年、学長補佐となってからは、神学者でありながら、神学だけでなく、哲学や政治経済学に関する多くの本を著すとともに、様々な方面の権威や知識人を論破し、恐れられた。多くの活躍の中でも特に、1519年のライプチヒ討論での勝利は有名である。

ルターとの対決[編集]

1519年7月、ライプチヒにおいて公開討論会が開かれた。贖宥状のドイツにおける販売に激怒したマルティン・ルターが教皇に挑み、エックが論客として差し向けられたのである。 しかし、始めにエックと向かい合ったのは、ルターの盟友であるルドルフ・カールシュタットであった。エックは直接ルターにではなく、カールシュタットに論戦を持ちかけたのだ。めくるめく攻撃に対し、カールシュタットは懸命に応戦を試みるも、エックの天才的な弁舌に敵うわけはなかった。エックの声が得意げに大きく響くにつれ、この哀れな牧師の顔はだんだんと青ざめていった。そのとき、一人の男が毅然とした態度で現れた。黒いローブに包まれた恰幅の良い体の上に、大きな血色の良い顔が乗っており、その瞳の輝きは、並大抵でない強い意思を示している。その場にいた人々は、はっと息を呑んだ。マルティン・ルターである。

エックはひるむどころか、余裕に満ちた冷たい笑みを浮かべ、言い放った。「貴様の説は、異端であるかのヤン・フスの説に酷似しているな。」隙を見せまいと冷静にふるまっていたルターはとたんに激昂し、顔を紅潮させてわけの分からないことを叫んだ。彼のような血気盛んで行動力のある人間は、えてして挑発に弱く、口下手であるとエックは知っていた。エックはルターを無視し、こう続けた。「教皇の至上権は神から委ねられしイエス・キリスト自身から委ねられたものである、そうだな?であるから、教皇の至上権への服従は、全てのキリスト教徒の義務なのだ。」ルターは必死に反駁する。「そんな根拠はない!そもそも、初代の教会ではローマ権はドイツにまで及んではいなかった!」エックは冷笑を絶やさず述べた。「ほら、貴様の見解はフスと変わらぬではないか。」ルター、負けじと言い返す。「ちがう!……待ってくれ、今調べるから…」あわてて調べたコンスタンツ公会議の記録をつばを飛ばしながら読み上げるルターを、エックは嘲笑った。「で、どうなのだ。言ってみよ。」「異端とはいえ、フスの信条のいくつかは、明らかに福音的だと私は思う!そもそも、彼を異端とした教会会議は完全なものではないし、実際彼の場合は間違っている!教皇の至上権も誤りだ!

とたんに周りの人々は一斉にしんと静まり、エックは勝ち誇った表情を浮かべ、ようやく状況が飲み込めてきたルターの顔は、ゆっくりと絶望の色を帯びてきた。ルターは敗北したのである。彼は帽子を取り落とし、あわてて拾ってそそくさと退出した。破門を免れないであろうこの神学教授を、エックは残忍な笑みをもって見送った。

彼は他にも、ツヴィングリなど多くの宗教改革を志す人々を敗北に追いやった。ただ、1528年1月ベルンの論争においてはエックが不在だったため、ベルンなどの土地が改革者たちの手に渡っている。

晩年[編集]

討論での勝利者の満面の笑みは今も昔も変わらない。

彼は死ぬまでインゴルシュタット大学に居座り続けた。彼はしばしばひどく酔っ払い、周囲の人間を普段よりさらに口汚くののしった。この悪癖を正そうと試みる親切な者はことごとく論破された。よって彼に逆らうものは誰もいなくなったが、彼を愛するものもまた姿を消した。

驚異的な量の知識と巧みなレトリックにより、常に弁論におけるチャンピオンであり続けたエックには、想像力というものがまったく欠如していた。1543年2月10日、エックは酩酊しつつ図書室に向かった。アリストテレスの笑いに関する研究書を見つけ、有頂天ではしごに上った彼だが、本棚そのものが羊皮紙に書かれたただのだということに気づかなかった。棚が裂け始め、彼の酔いはさめたがもう遅かった。かくして彼は転落し、粉々に砕けた。王の馬や王の家来をもってしても、この男を元に戻すのは不可能だった。

大学の外では、人々がリュートをかき鳴らし、ルターの作った賛美歌を合唱していた。もうすぐ、ドイツにがやってくるのであった。

関連項目[編集]