ヨシップ・ブロズ・チトー

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共産圏特有の将軍式拍手を行うチトー
「メガネを掛けているので奴がトロツキストなのは間違いない」
ヨシップ・ブロズ・チトー について、ヨシフ・スターリン
「あのバランスのいいチトー大統領がッッ・・・・・・」
ヨシップ・ブロズ・チトー について、範馬刃牙


ヨシップ・ブロズ・チトー(Josip Broz Tito 1892年-1980年)はかつては東欧に存在したが現在はアトランティス大陸の如く地図上から綺麗サッパリ消滅した幻の国ユーゴスラビアの終身名誉大統領。

チトーはセルビア語で「お前がアレしろよ」という感じの意味がある偽名で本名はヨシップ・ブロズであるが、下手に出世してしまったので今でも世界中で「アレしろよ氏」「アレしろよ大統領」と言葉の意味もわかってない連中から舐めた口を利かれ続けている。

概要[編集]

「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持つ」というそれもう別々に住んだ方が良くないかという歯抜けのジェンガのような構成の国家ユーゴスラビアを40年以上倒れないように保存することに成功した民族ジェンガギネス記録保持者。

バランス感覚に優れる男として山本稔ばりに定評があるが彼の建てた国は今はもう跡形もないので残っているのは彼個人の定評だけである。

生涯[編集]

幼少期[編集]

ヨシップ・ブロズは1892年にオーストリア=ハンガリー二重帝国という欲張りな名前の帝国の統治下だった頃のクロアチアのド田舎で生まれる。一応小学校には行ったが「学習なんて必要ねえんだよ!」と4年で退学するというロックな生き様を少年時代からしており、すぐさま街の錠前屋の見習いとして奉公に出されることになったが、ここでアカ労働運動に目覚め、メーデーに参加するなどして以後いろんな街をフラフラしていた。

そんなこんなで青春時代を送っているとオハンガリー帝国が第一次世界大戦に出たいということで徴兵されたが、ここで「戦争なんてくだらねぇぜ!」とまたロックな言動をかまして牢屋にぶち込まれ、牢屋から出されたかと思えば最前線に飛ばされロシア帝国の捕虜になるなど踏んだり蹴ったりな目にあう。

逮捕されて強制収容所入りした後も囚人と一緒にデモしたり脱走したりとやりたい放題で早々に指名手配の要注意人物となったが、ここで共産主義の総本山ウラジーミル・レーニンが結成した赤軍に紛れ込んでいるとロシア革命が成功して帝政ロシアそのものがお亡くなりになった為、逮捕される心配がなくなった。

立派な赤い戦士に[編集]

一方その頃母国のオ=ハ帝国はと言えば第一次世界大戦でほぼ世界中から袋叩きにされて無様にも敗戦国となり、ヨシップが住んでいた辺りは漁夫の利を得たセルビア王国のものになった。セルビアは第一次バルカン戦争、第一次世界大戦と立て続けに勝利して未だかつて無いほど調子に乗っており、「南スラブって実質全部セルビアじゃね?」などと世迷い言をほざき始め新たな国として「セルビアと愉快な仲間たち」「セルビアクロアチアベニオ」などを提案したがメチャクチャ不評だったので渋々「ユーゴスラビア王国」とすることに落ち着いていた。

ロシアから戻ったヨシップ青年はユーゴスラビア共産党に参加するが、このユーゴスラビア共産党がストライキで死者を出した時に王国から徹底的に弾圧され、ヨシップも5年牢屋に放り込まれるという革命闘士としての必須イベントを消化する。

牢屋から出ると再び国外逃亡し、ここでスターリン肝いりの結社コミンテルンに入り戦闘員へと改造手術を受ける。ヨシフの忠犬ディミ公として名高い後のブルガリア大統領ゲオルギ・ディミトロフ書記長などと交友を結んで、スターリンの大粛清をまんまとかい潜りスペイン内戦にも絡むなどヨーロッパでも一目置かれる危険人物に成長する。この辺りから偽名である「チトー」を名乗るようになった。

母国へ帰還[編集]

一方その頃ユーゴスラビア王国はと言うと第二次世界大戦が勃発したことでドイツに早々に土下座したのだが、「偉大なるセルビア王家がなぜあんなちょび髭に…」というプライドが邪魔して頭が高かったのでナチスに頭を踏みつけられ即効で領土を分捕られていた。ナチスは「クロアチア人は実はアーリア人の兄弟分だったんだよ!」と大嘘こいてクロアチアにクロアチア独立国という欠片も独立できてない傀儡国家を打ち立て、国技を民族浄化に制定して日や民族浄化に励ませると、セルビアの方にも「セルビア救国政府」という全く救国しない傀儡政権を立ててバラバラに統治していた。更にナチスの反抗組織には「チェトニック」というユーゴ王家のロイヤルガード達がいたが、これまたナチスとビビって戦わずに「セルビア最高や!他の民族なんて要らんかったんや!」と民衆の虐殺に日夜励む有様で、もはやユーゴ国内はこの世の終わりのような状態であった。

こんな時にのこのこ帰ってきてしまったチトーは呆れ返り「こんな状態なら俺が反乱指揮したほうがいくらかマシだろ…」と思ったので、「兄弟愛と統一」をスローガンに反抗組織パルチザンを作ってナチスとの戦いを開始した。当初はロクな装備もないので当然ボコボコにされたものの、もはや気が狂ったとしか思えない組織しか無かったユーゴ国内で唯一まともなスローガンを掲げたチトーはむしろ貴重であり、負け続けてもその度に逃げ切ってだんだんと味方を集めいつしかユーゴ最大の反抗組織まで成長させた。

やがてイタリアが降伏したのを機に戦局を逆転させ、ナチスはもちろんクロアチアやセルビアに居座るしょうもないならず者連中もまとめて掃除してユーゴスラビアを再統一する事に成功。役立たずのユーゴ国王を廃位した挙句に自分がユーゴスラビアの大統領になることを宣言して、戦後処理では連合国側にユーゴスラビアを滑り込ませ「わたしが大統領です」と素知らぬ顔で会談に混じるという快挙をやってのけたのであった。

狂犬外交[編集]

戦争一つでゲリラ民兵から一国を手に入れるという20世紀において時代錯誤気味の活躍をしたチトーは社会主義を掲げた国を作った事で共産主義の総本山ソビエト連邦の意向を汲んでヤルタ会談の後にも領土を切り取ろうとイタリアに喧嘩を売ったりアメリカ軍機を撃墜するというhoiプレイヤーのような行動を取り、世界を震撼させた。

流石のスターリンももう一度世界大戦は勘弁してほしいので「ブルガリアとかあそこらへん併合していいから大人しくしてろ」と説得をしたがチトーは「大バルカン構想!」などと更にゴネ続けたので、ついに社会主義の国を作ったのにアカのリーダーたるソビエトに破門されるという前代未聞の珍事を引き起こし、アメリカからもソ連からも嫌われるという大ピンチに早速陥る。

しかしチトーはここでピンチをチャンスに代え、「スターリンとかが攻めてくるかもしれないから民族云々は置いといてみんな一緒に頑張ろうぜ!」と自作自演の危機をダシにして不仲な民族を黙らせ、社会主義なのにひたすらソ連に喧嘩を売るスタイルを取ってアメリカの関心を引き、アメリカの対ソ連の防波堤になりそうな国にお金を配るキャンペーンの恩恵だけちゃっかりネコババすることに成功した。

また、散々コケにされてキレたスターリンはKGBのエージェントを使ってチトーを暗殺しようとしたが、チトーはこれを完封し「そろそろ俺がお前に刺客を送る番だよね?」という電報を直接モスクワに送りつけると、もはや毎日盗聴器を探さないと寝れないぐらい人間不信になってたスターリンは暗殺を諦め、トロツキストに続く「チトイスト」という造語を作って国内に居るか居ないか分からんようなチトーのスパイを粛清するようになったという。

綱渡り内政[編集]

どうにか国家の体裁を整えたユーゴスラビアはその後も企業の倒産と従業員の解雇を法律で不可能にし、労組を頂点として会社の社長を求人ビラで公募するという斬新な経済システムを構築してなんと発展する事に成功してしまった。また「自由の国」をアピールし観光スポットにヌーディストビーチを設置するなどして他所のお固い社会主義国家とは一味違う所を主張し、西側諸国のスケべ共からも一目置かれた。

また、治安面では民族差別が起きるとどの民族であろうと平等に速攻で牢屋行きにしたが、ガス抜きとして自分の悪口は特に取り締まらないことにしてボスニアがロックの穴場になったりするなどの誤算はあったが割と何とも無かった。

1971年にはクロアチアの春という大きな分離の危機があったがこれを演説だけで民衆を鎮めてスピード鎮圧し、1974年の新憲法でセルビアを3つに解体するという奇襲策でクロアチア独立派を逆に唖然とさせガスを抜くというピタゴラスイッチ的な采配で危機を凌いだ。

最期の戦い[編集]

晩年になって昔を回顧することが増えたチトーは反ファシストの闘士だった頃を思い出し、枢軸国の中で唯一戦っていなかった日本に死ぬ前に最後の戦いを挑む。

84年冬季五輪主催地を賭けた招致レースでユーゴスラビアのサラエボと日本の札幌市が激しい戦いを繰り広げており、1回目の主催地投票で札幌に2票差で負けて窮地に立たされていたが、俄然元気になったチトーはロビー活動をして決選投票で見事に日本を蹴落として主催地の座を射止めた。

これによって日刊スポーツ出版社から刊行が予定されていた『84五輪やねん札幌!開催待ったなし』記念号が発禁になったという。この最後の戦いを見届けたチトーは1980年に87歳で大往生した。チトーの葬式には世界100各国以上の首脳が大挙して押し寄せる大盛況になり、皆帰りにカメラ片手にヌーディストビーチに寄って親睦を深めたとされている。

死後[編集]

チトー死後のユーゴスラビアがどうなったか結論から言うとダメだったの一言である。奇天烈な仕組みのまま肥大化した経済システムはチトーの統治晩年から怪しくなって来ていたが、死後は世界の誰も解決法を知らない唯一無二の経済システムにもはや手もつけられない状態になり、指導力を発揮しなければいけない党も地方ごとに1年おきに輪番で党首が交代するカオス状態になった。

そんなこんなしている内にスロボダン・ミロシェビッチというセルビア人政治家が出現し、「セルビアいきなり3つに分けられたのおかしくね?」と言ってはいけない事を言った事でジェンガ的なギリギリの均衡を保っていたユーゴスラビアはガラガラと崩壊し、独立をめぐる血みどろの殺し合いの末に地図から消滅した。

ユーゴ紛争は民族浄化、レイプ収容所、強制妊娠などリョナものエロゲーのような凄惨な出来事を現実でやって世界をドン引きさせ、この野蛮な地域を戦後40年間以上もほとんど大した事件も起こさせずに統治していたチトーの株はユーゴスラビアは亡国となってしまったのに関わらず生前より上がることになった。皮肉なものである。

評価[編集]

  • 戦後すぐの頃にナチス兵を裁判無しでブチ殺したり、従わないものを再教育を行う島流しにしたりと独裁者としてやる事はやっていた人物ではあるが同年代の社会主義国の比較対象はと言えばアレコレなので相対的に話せば分かる人物だったという評価に落ち着いている。
  • 元ユーゴ圏では紛争前や紛争中に評価が地の底まで落ちたが今では墓を小奇麗にして観光ツアーの順路に入れたり、土産物としてチープな銅像のレプリカが観光者向けに売られてたり、「あのチトー大統領御用達のブルートレインに乗れる!」などと宣伝してたりする。現金なものである。
  • チトーがなぜあの複雑な地域を押さえ込めてたかというと地政学的な事情を最大限上手く利用したプロパガンダの張り方やクロアチア人とスロベニア人のハーフであったという極めて微妙な立場だった事が調整弁としてプラスに働いたなど色々あるがもう何か説明するのもダルいので「カリスマ」の4文字で真面目な方の大百科でも手っ取り早く説明されている。

関連項目[編集]