メタフィクション

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
メタ発言から転送)
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「あなたはいまアンサイクロペディアのメタフィクションという記事を読み始めようとしている。」
メタフィクション について、イタロ・カルヴィーノ

さて、こうしてメタフィクション(英:Metafiction)について解説する記事が始まったわけであるが、この記事を書き始めたのは時刻にして深夜2時43分。筆者の生活リズムの乱れが如実に表れており、すぐにでもノートパソコンの置かれた机のすぐ左にあるベッドに潜り目をつむって羊でも数えた方がいいに決まっているのだが、普段記事執筆を怠っている筆者が珍しくやる気になったのと、執筆開始時点では未だ投稿記事が二つしかない第35回執筆コンテストにこの記事を早々に出典するためにも、寝る間を惜しんで、というか寝付けなくてこの記事を書いているのである。

ちなみに、上に引用されているのはイタリアの小説家イタロ・カルヴィーノの代表作『冬の夜ひとりの旅人が』の冒頭文のパロディである。筆者としては、イタロ・カルヴィーノの記事が既に存在することに驚きを隠せない。世界文学を語る上では重要な現代文学の作家だが、日本での知名度は今ひとつである。もちろん、この記事を書き始めた時点で筆者はメタフィクションという用語に関する知識は断片的で、この単語でまっさきに思い浮かべたのは、

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「ふーん、で、君は涼宮ハルヒのキャラで誰が好きなの?」


「オウフwwwいわゆるストレートな質問キタコレですねwww

おっとっとwww拙者『キタコレ』などとついネット用語がwww

まあ拙者の場合ハルヒ好きとは言っても、いわゆるラノベとしてのハルヒでなく

メタSF作品として見ているちょっと変わり者ですのでwwwダン・シモンズの影響がですねwwww

ドプフォwwwついマニアックな知識が出てしまいましたwwwいや失敬失敬www

まあ萌えのメタファーとしての長門は純粋によく書けてるなと賞賛できますがwww

私みたいに一歩引いた見方をするとですねwwwポストエヴァのメタファーと

商業主義のキッチュさを引き継いだキャラとしてのですねwww

朝比奈みくるの文学性はですねwwww

フォカヌポウwww拙者これではまるでオタクみたいwww

拙者はオタクではござらんのでwwwコポォ」

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という有名なキモオタのコピペだったのであるが、せっかくなので引用しようと検索してみたところ「メタフィクション」という語はそのまま使われておらず、キモオタのセリフの4行目で 「メタSF作品」とあるだけで、わずかに関連しているかなと思わせる程度でしかなかった。正直、落胆している。

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「メタフィクション」の項目を執筆しています。

話を戻すが、先のカルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』の本来の冒頭は「あなたはいまイタロ・カルヴィーノの新しい小説を読み始めようとしている」である。このように始まるがために『冬の夜ひとりの旅人が』はメタフィクションの代表として語られているわけであるが、それも筆者がこの記事を執筆するためにウィキペディアの当該項目を読んで始めて知ったことであり、わざわざアンサイでドヤ顔で語るのも本来は憚られるような浅はかな知識なのである。おまけに原文を載せたせいでパロディの稚拙さが浮き彫りになってしまった。どうしよう。

そろそろ記事存続の最低ラインである3,000バイトまであと何バイト必要か気になってきたが、いざとなったら1画像500バイトの法則に従って何か適当な画像を貼ればいいので気持ちもタイピングする指も軽い。(余談だが、「タイプする」と「タイピングする」の違い、及び語の用法の正確さが気になったが、所詮嘘八百科辞典なのだからまあ細かいことまで気にする必用はない。文法の誤りも嘘っちゃ嘘だ)

そろそろ読者もお気づきのことかと思うが、この記事はメタフィクションの自己言及的記事である。メタフィクションとはフィクションの中に、それがフィクションであることを意識させる語り手が登場する作品のことであるため、この記事では記事中で筆者が登場し、読者に直接語りかけることで強引にメタフィクションの自己言及を達成している。百科事典の記述は通常、客観的視点で記述される必要がある。例えば、「みかん」の項目でみかんについて解説する場合、読者が必要としているのはミカン科の柑橘類の樹木に関する情報のみであり、筆者がみかんが好きかどうかとか、炬燵みかんを冬場にするかどうか、などはどうでもいい不要な情報である。もちろん、ここはアンサイクロペディアなので記述スタイルの幅は同然広くなるし、ユーモアのためならむしろ歓迎されることでするある。実際、この記事以外にも筆者の存在が記事中で明確化される記事はいくらでもある。例えば、この記事を作成するために消費したカロリーでは、筆者が当該記事を書くために消費したカロリーを計算しながらその結果を報告し、その報告が当該記事についての記事となっている。

これでもよくわからないという人のために、実際に作中に作者の登場する文学作品を引用してみようと思う。

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 「ここを過ぎて悲しみの市。」
 友はみな、僕からはなれ、かなしき眼もて僕を眺める。友よ、僕と語れ、僕を笑へ。ああ、友はむなしく顏をそむける。友よ、僕に問へ。僕はなんでも知らせよう。僕はこの手もて、園を水にしづめた。僕は惡魔の傲慢さもて、われよみがへるとも園は死ね、と願つたのだ。もつと言はうか。ああ、けれども友は、ただかなしき眼もて僕を眺める。
 大庭葉藏はベツドのうへに坐つて、沖を見てゐた。沖は雨でけむつてゐた。
 夢より醒め、僕はこの數行を讀みかへし、その醜さといやらしさに、消えもいりたい思ひをする。やれやれ、大仰きはまつたり。だいいち、大庭葉藏とはなにごとであらう。酒でない、ほかのもつと強烈なものに醉ひしれつつ、僕はこの大庭葉藏に手を拍つた。この姓名は、僕の主人公にぴつたり合つた。大庭は、主人公のただならぬ氣魄を象徴してあますところがない。葉藏はまた、何となく新鮮である。古めかしさの底から湧き出るほんたうの新しさが感ぜられる。しかも、大庭葉藏とかう四字ならべたこの快い調和。この姓名からして、すでに劃期的ではないか。その大庭葉藏が、ベツドに坐り雨にけむる沖を眺めてゐるのだ。いよいよ劃期的ではないか。
 よさう。おのれをあざけるのはさもしいことである。それは、ひしがれた自尊心から來るやうだ。現に僕にしても、ひとから言はれたくないゆゑ、まづまつさきにおのれのからだへ釘をうつ。これこそ卑怯だ。もつと素直にならなければいけない。ああ、謙讓に。
 大庭葉藏。
 笑はれてもしかたがない。鵜のまねをする烏。見ぬくひとには見ぬかれるのだ。よりよい姓名もあるのだらうけれど、僕にはちよつとめんだうらしい。いつそ「私」としてもよいのだが、僕はこの春、「私」といふ主人公の小説を書いたばかりだから二度つづけるのがおもはゆいのである。僕がもし、あすにでもひよつくり死んだとき、あいつは「私」を主人公にしなければ、小説を書けなかつた、としたり顏して述懷する奇妙な男が出て來ないとも限らぬ。ほんたうは、それだけの理由で、僕はこの大庭葉藏をやはり押し通す。をかしいか。なに、君だつて。

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上記の文章は、太宰治が昭和11年(1936年)に発表した処女作品集『晩年』に収録された短編「道化の華」の冒頭である。(こちらからコピペしたため旧字体・旧仮名遣いで読みにくいと思う方もいると思うが、いちいち校訂するのも、深夜テンションで書き始めたとは言え面倒くさいことこの上ないなので、各自新仮名遣いに改められた本を買うなり借りるなりして自己解決して頂きたい)この作品、主人公大庭葉藏の名前がその後の『人間失格』でも主人公の名前として使われているなどして、非常に重要な作品なのだが、それはこの際どうでもいい。問題なのはこの作品もメタフィクションだということである。ただでさえ最初の引用がどうにも的外れ感の否めないとんちんかんな引用であるため、ここでしっかりしないと冒頭の語録の上に赤いシールが貼られてしまうのだ。それは避けねばならない。

主人公の大庭葉藏が病院のベッドから海を眺めて物思いに耽る、という情景で物語は始まるが、作者は5行目にしてそれまでの4行を夢とみなして酷評している。その後褒めたりけなしたりを繰り返しつつ、「不満はあるけど、とりま大庭葉藏でいきましょう」という感じで物語が続いていくのだが、ここまで懇切丁寧に解説すれば、読者のあなたも少しはメタフィクションがどんなものか分かったと思う。正直に言って筆者はそろそろ疲れてきた。時刻は3時43分なので、冒頭の語録からまる一時間が経過したことになる。筆者としても、それなりにユーモアも詰め込んだつもりなのではあるので、少々唐突ではあるがここで記事を締めくくりたいと思う。つまらなかった方はおまかせ表示(※このおまかせ表示のリンクをクリックしても、おまかせ表示ついて解説した「おまかせ表示」というページにしか飛ばないため、本文左上の「バベル (Babel)」の下で、「ヘルプ目次」の上にある「おまかせ表示」の青リンクをクリックする必要がある。)をクリックするなりなりして、ここよりもっと面白い記事に飛ばされて楽しんできて欲しい。

関連項目[編集]


Upsidedownmainpage.jpg 執筆コンテスト
本項は第35回執筆コンテストに出品されました。