マルキ・ド・サド

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サド侯爵ことドナスィヤン・アルフォーンス・フランスワ・ド・サドは、フランス革命期の儚いリベルタンかつ史上最高の変態である。

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かまぼこ目

青年時代[編集]

サド家は代々続く名家で、母はかのブルボン家の血を引く女性だった。ただ二人とも子供をあまり顧みず、父親には浪費癖まであったので、飢えはしなかったもののあまり裕福とは言えず、教育係の伯父も彼曰く「彼と一緒にいると体の水分を吸い取られる」と言われるようなしわしわのカタブツで、当然彼の周りに青春を楽しめるような女の子もおらず、彼の子供時代はそれは退屈なものであった。

その後軍隊に入隊したサドであったが、ある時に地方に駐屯した際に自分の鬱屈していたものが何か知ることになる。用を足すために仲間から離れたサドは、水汲みに来ていた村娘を見つけ、何かわからぬ力に突き動かされたかのように後を付けていってしまう。このことについて彼は後年

私の目の前に何かクリクリと動きの良いがあった。その前では私は我慢というものを知らない。そう、それは背徳の形そのものなのだ。
尻 について、サド侯爵

と書き残している。彼はそろりそろりと後ろから忍び寄ると突然娘に飛びつき、押し倒し、用を足してしまう。そして事が一段落すると娘は泣き叫び、焦ったサドは「思いがけず出てしまった、良ければその背徳の桃を分けてほしいのだが」と弁明をするが娘はキィッと一声上げると疾風の如くどこかへと消えてしまった。

娘は逃げてしまったが、彼には何かの手ごたえがあった、子供時代に満たされなかった何かが満たされてゆくような気がしたのだ。それからというもの、彼は村娘を見つけると「お、お、桃がある、背徳の桃が」と追いかけ、押し倒し、以下略し、訓練そっちのけで情事に耽るようになり、毎日村の村娘や山羊と共に踊り明かし、人目を憚ることなく山羊相手に腰を振り、心ゆくまで快楽を貪った。

もらいもの[編集]

軍隊から帰ってきた彼は、金持ちの娘に恋をし、彼女の父親に結婚の許可を求める。しかし何故か父親は激昂、彼は家に返されてしまう。もちろん彼は腑に落ちない。家柄も悪くはないし、激昂されるような事は何一つしてないはずだ、契りだってしたし……あ、そういえば駐屯地からもらってきちゃったんだ

今となっては山羊からもらったのか人間からもらったのかはわからないが、23歳の春、成金貴族のモントルイユ夫人と無事結婚する。もちろん自分が山羊と交わったことについては隠していたが、ブルボン家の血が魅力と感じ、結婚に最も積極的であったモントルイユ夫人の母は、花婿が女は穴さえあれば良いと思っていることとは夢にも思っていなかった。

快楽の世界へようこそ[編集]

1763年、ここは花の都パリのとある娼家。今夜のお客様は、夜が明けんとしているとしているのにいつまでもエッチラオッチラと、お取り込み中であった。

クックドゥードゥルドゥー。嗚呼一番鳥だ、まだイケる。コッツバーンコーワレールゾーッ。嗚呼二番鳥だ、そろそろやめよう、もう太陽が真上に見える。仙骨がクニャクニャだよ、水飲まなきゃ……その時、全裸の彼の前のドアが蹴破られ、日が差し込んだ。ダアン!警察だ!サド、お前を逮捕する!それに対し彼は至極落ち着き払って、「どうかね、君もこの背徳のはまぐりからいずる潮汁を味わってみないかね?」……

サドは結婚から半年も経たぬうちに逮捕され、詳しくは公表されなかったものの、罪状は「神をも恐れぬ冒涜的かつ、垂れ流された液体量が度を越した乱交」とされた。近親相姦から鶏姦同性愛強姦までこなした大神ゼウスすら恐れる乱交とはどのようなものであったかを伝える書物は無いが、彼の著書がそれを紐解く一助にはなるかと思われる。

15日で釈放された彼であったが、投獄により自らの“遊戯”が犯罪のレベルに達することを初めて知り、それまで政治的欲も無く、金欲も強くない彼が自らの生きる道はこの他にないと決意した。「我、腰を振ることに生涯を捧げん」と。

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出所後、人生の方向性が定まった彼は人生を楽しもうと様々な遊戯に明け暮れるようになる。女性のXXXXXにブルゴーニュ産ワインを注ぎ、角切りの牛肉を入れ、掻き回して食したりなど人体遊戯を繰り返したが、彼は女性の体だけではもう飽き足らず、若い男性の体も求めるようになる。ついにある夜部屋にて使用人の美男子と熱いキッスを交わすと、「今日の唇はラベンダーだね」などと甘い言葉を交わし、その後は「おお、すぼめるでない……」などと、熱い夜を過ごした。衆道への目覚めである。

そんなことが続いたある夜。使用人の美男子は今日も主人の唇が来るものと待っていた。そこにやってきたサド、なぜか急に使用人を押し倒すと、なんと突然に部屋の暗さを吸いこんだかのような色の鯨鞭で彼の露わとなった薄紅色の尻を容赦なく叩き始めたのだ。困惑と苦痛で歪んだ表情を見せる使用人の尻には次々に緋色の筋が増えてゆき、を振り回すサドはよだれを散らしながら半ばトランス状態となっていた。数分間振り回して鞭がササラになってきたころサドはおもむろに体を震わせた。「さ、最高だ……」新たな嗜好に目覚めた瞬間であった。

乞食[編集]

1768年、パリの中心ヴィクトワル広場で、馬車に乗った一人の身なりの良い紳士が一人の三十路過ぎの乞食女に声をかけた。「とりあえず、1エキュでやらないか」と突然言い放った紳士に対し、乞食女は馬鹿にされたような気分になり一度は同行を断る。しかし紳士が「冗談だよ、女中が必要なのさ」と言うので同意、アルクイユの村まで馬車で揺られた。

サドの別荘に到着すると、彼は彼女を屋敷の一室へと招き、一旦部屋を後にする。そして部屋に戻ってきたサドのいでたちを見、乞食女は卒倒しそうになるのであった。その日のサドのいでたちは、裸の上半身にコルセットを付け、股間には黒白鳥をかたどったシュシュを、すらりと伸びた足には網タイツを穿き、手には真っ黒の鞭を持つというものだった。その奇抜ないでたちに腰を抜かさんとしている彼女にサドは「お・待・た・せ♥」と嬉しそうに近づき、服を脱ぐように言い、露わになった尻を見たサドはジュルリと舌なめずりをし、わざとらしく言った。「おお、この桃には悪魔が住みついている、今すぐ祓わねば。

バシィーッ!バシィーッ!アーーーーーーーッ!!!

その夜、のどかなアルクイユの村には悪魔祓いの儀式の音が響き渡った。翌日サドが部屋に向かうと乞食女はおらず、窓が開いていてカーテンが風に揺られていた、自力で逃げたのである。サドはその時特に気にかけなかったものの、逃げた彼女のした話にはどんどん尾鰭が付いてゆき、パリにその噂が着いた頃には、サドの屋敷には干物が散乱しているだの、サドの股間の黒白鳥がひとりでに頭をもたげただの、屋敷の周りで全裸の初老の男がうろうろしていただのと、とんでもないスキャンダルとなってしまい、サドは意図せずして世間から変態紳士の称号を得てしまったのだった。

性の饗宴[編集]

ポキン、マルキド飴。ポキン、マルキド飴。

それから数年後のことである。ここはマルセイユのとある古城、降りしきる雨の中馬車が城の前に到着し、中から二人の男が現れた。一人は32歳になっていたサド、もう一人は彼の下男のアルマンであった。到着するやサドはアルマンに「若くておっぱいのデカいのを頼む、数は多いに越したことはない。」と町で女の子を集めるよう指示し、金持ちの貴族の邸宅でパーティと聞いた若い女性たちが城には数人集まった。サドは例のいでたちで登場、パーティが始まった。

地下の部屋には蝋燭が灯され、ベットが2台あった。別室で待機させていた女性を一人部屋に呼ぶと、例の如く押し倒し鞭で滅多打ちにしながら事を行い、サドの後ろでは待機していた娼婦が鞭でサドを打ちながら彼を罵っていた。息もつかせぬ連続攻撃が30分も続くと、女性は息も絶え絶えとなってしまうのでそのたびに別室の女性と交代させ、アルマンが途中で参加したり、サドが女役を務めたり、娼婦とアルマンとサドで三両編成となったりと、自由気まま、好き勝手に乱交を楽しんだ。蝋燭の灯が消えてしまった時は「あ、穴はどこだァ~!」と穴を求めて皆で這いずり回り、狂乱痴態を演じながら夜が明けるのを待った。

投獄[編集]

翌日、麗らかな日差しのもと町の娘たちはくたくたになって家に戻されたが、サド主催の性の饗宴に付き合わされた娘たちはすぐにそれを判事たちに訴え、サドとその下男アルマンは緊急逮捕された。彼女たちが「サドから変なを中国宮中御用達の精力剤『龍魂虎骨金霊玉』と称して飲まされたが、腐った浅田飴のような味がし、翌日腹痛に見舞われた。」や、「妙な味のするソーセージを食わされた。」などと訴えたため、彼ら二人には重度の性倒錯者かつ性犯罪者で、完全の見込みはないとされ、死刑判決が下ってしまった。

しかしここで偉いのがサドの妻である。夫が自分を差し置いて町の娘やら娼婦やら下男と乱交騒ぎを起こし、果ては夫が自分の妹(姉より美人で快活、冒険心もある魅力的な女性だった)と交際を始めていたという事を知りつつも彼らに愛想を尽かさず彼ら二人をイタリアへと脱出させるということをしたのだった。アッパレ。

その後イタリアで彼は妻を差し置いて妻の妹と共に数年過ごし、逮捕され、脱獄し、結局また捕まり、それにより11年間の投獄生活が幕を開けることとなる。

獄中活動[編集]

1778年から、ヴァンセンヌ監獄、バスチーユ監獄と続けざまに投獄されたサド。暗く、寒い部屋の中で苫にくるまりながら彼は周りをチョロつくに「ああ私はペストになるんだ、いやそうに違いない」と怯え、鼠に齧られてすっかり神経が摩耗、衰弱した。そのおかげで被害妄想の塊となってしまった彼は毎日家へと「いつになったら迎えに来るんだこのバイタめ」などと手紙を毎日送り続け、4年後面会が許されどこまでも健気な妻が面会に訪れると、数年前の自分のことを忘れたがごとく妻に対し「今頃なぜ来たんだこの売女め!できるものなら身の潔白を証明しろ!」と口汚く罵った後面会を拒否、妻は身の潔白を証明するため修道女になり、これで皮肉にも彼の周りには看守の身長2メートル体重120キロの女しかいなくなった。彼はこれから小説を書き始めるまでの数年の間、監獄の中の下水を流す漏斗の穴を妻とすることとなる。

小説家サド誕生[編集]

数年間の投獄の間、彼の慰みになるものは次第に減っていった。嫁の漏斗管はメガホン代わりに使ったところ看守に取り上げられてしまい、慰み物を失った彼の心の中でふつふつと湧き上がる尿意ならぬ性欲ならぬ何かが頭をもたげてきたのであった。そして彼は何か本を持ってきてくれと看守に頼んだ、そして看守から渡されたのはモリエールにコルネイユ、ラシーヌの作品たちであった。彼は性的表現が無いことに落胆しながらも読み耽り、知識を溜る先を模索していった。

そしてついにある日、看守が食事を牢獄内へ入れようとしたときに看守は「ヒヒヒヒヒ」と呟きながらナメクジよろしく自らの尻をシーツにこすりつけている彼の姿を発見した。その茶色く染まったシーツを必死で守ろうとしている彼からそれをひったくってみると『司祭と臨終の男との対話』と読め、面白がった看守は彼に紙とペンを与え、彼は一日中自らのサディスティックな妄想と性欲を紙の上にぶちまけるようになった。自らの経験と妄想でしたためた小説を彼はのちにこう語っている。

「自分の書いた小説で絶頂に達せらるるならば合格である。」
エログロ小説 について、サド侯爵

こうして獄中で彼は続けざまに玄人向け小説を発表、それはごく限られた好事家の貴族たちの間で静かなブームを呼び、一時の変態紳士の名は小説家へと変化したのである。しかしそのことについて彼は知る由も無く、次第に世間では革命への不安が高まっていた。

その後、看守たちの革命の不安から、以前まで認められていた一日2回の散歩を禁止されたサドは怒り狂い、部屋の排水溝から件の嫁を引き抜き、プープー吹いたところ狂人扱いされて精神病院へと送られた。書き溜めていた小説は持ち出し禁止となり悔しがっていたところ、バスチーユの監獄が襲撃され、彼の部屋も原稿ごと荼毘に付されたことを知ったサドは卒倒した。

晩年[編集]

1790年、彼は50歳となっていた。革命のごたごたで精神病院から出所した彼は、自らの醜く肥え太った姿を黒白鳥のシュシュを付けようとして果たせず気が付いたのである。若き頃のような道楽ができぬことを知った彼はひたすら小説の創作に励み、日本でも澁澤龍彦の訳でよく知られている『悪徳の栄え』を発表したところ、その性的な表現に鼻血が止まらず、意識朦朧としたナポレオンからまたもや狂人扱いされ、1803年精神病院にまたもや戻された。

それからは創作意欲も萎えてしまったかのごとく、たまにくちゃくちゃと口を動かし、窓から外を眺めるだけの老人となり果ててしまい、彼の頭の中でいくらどす黒い妄想が蠢動しようと、それを現す術がなくなったかのように、くちゃくちゃと口を動かす日々を過ごし、次第に衰弱していった。

そして1814年の冬、74歳の老人となった彼は、誰もいない部屋の中で高い窓から差し込む申し訳程度の光へ「もっと女を!」と一声叫び死んだ。

後日閑話[編集]

彼の小説の多くは革命の名を騙った暴徒によって踏みにじられ、一時はこの世から消えたかと思われた。しかし100年の時を経て『ソドム百二十日』は発見され、相変わらず好事家の貴族の間で脈々と読み継がれた。澁澤龍彦は『悪徳の栄え』がワイセツであるかナイーブであるかを巡って裁判を起こされ、寝坊して三万円の罰金となった。

彼の思想はバスチーユの業火と共に灰に帰したかと思われたがそうではなかった。2世紀の時を超えてもなお、彼の思想は脈々と世界中の界隈でマゾッホの思想とセットとなって受け継がれているからだ。

バシィーッ!バシィーッ!嗚呼今日もどこかで鞭の音が……