マシュー・ペリー

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日本史教科書でもおなじみの肖像画

マシュー・カルブレース・ペリーMatthew Calbraith Perry, 1794年4月10日 - 1858年3月4日)は、アメリカ海軍軍人天狗。天狗になったときの名は「彼理」。

経歴[編集]

アメリカロードアイランド州にて海賊の3男として生まれる。1809年に自身も海軍に入り米英戦争に2人の兄とともに参加する。彼は、普段は人間の姿をしているが、酒を飲むと真の姿である天狗に変化する特性を持っていた。当時、飛行機などは存在していなかったため、空爆などの攻撃は彼しかできず大活躍だったようだ。その後、ボトルシップの趣味と特技の妖術を生かしアメリカ海軍最初の蒸気船フルトン号を建造する。また海軍大佐に昇進し、1841年には同海軍工廠の司令官となった。

1852年3月に東インド艦隊司令長官に就任した。そんな中、と友達になりたかったが近海の鯨全てに逃げられてしまったアメリカ大統領ミラード・フィルモアは、日本近海に鯨がいることをgoogle earthで知った。また、日本が長期の引きこもりであったことも、フィルモアの正義感に火をつけた。彼は「引きこもりなんて良くない!みんなと仲良くしようじゃないか!」というウザい委員長っぷりを発揮。ペリーはそんな彼のパシリとして日本に開国を求め、日本に来航することになった。フリゲートミシシッピ号を旗艦とした4隻の艦隊は、やろうと思えば太平洋経由で日本に来れたが、部下思いの彼はカナリア諸島ケープタウンシンガポール香港上海沖縄(琉球)小笠原諸島を観光旅行して、1853年、浦賀に入港した。そして日本の江戸幕府の代表のじじいどもにフィルモア大統領直筆の「学校に来ましょう」的内容の手紙を手渡した。ここでは具体的な協議は執り行われず、引きこもり解除の要求をしたのみで、湾を何日か測量したのち、幕府から翌年までの猶予を求められた。ペリーと愉快な仲間たちも、いいかげんマクドナルドが恋しくなったためアメリカに帰ることにした。この際、東京湾に「ミシシッピ湾」と言う名前を勝手につけるなどといった行動に見られるように、愛国心豊かな人物だったようだ。途中ペリーは琉球王国へ寄港したが、マックが無くて自棄起こして酒飲んで天狗に変化したりして、琉球王国もいろいろ大変だったようだ。

太平天国の乱がおこり、米国での極東事情がうつろうなか1854年2月13日(嘉永7年1月16日)7隻の軍艦を率いて現在の横浜市金沢区の沖に迫り条約締結を求めた。このとき、ペリーは日本文化への配慮として自らの旗艦の名前を「佐助華号」という大和魂溢れる名前にしており、思慮深い人物であったことが伺える。その後、神奈川で日米和親条約を調印した。このときの彼は一切の軍事的行動をとらず、戦艦をバックにニヤニヤ笑っているだけであった。武力に訴えた行動をとらなかったことから、彼は平和主義者であるといえる。これは、彼が予め上司に「武器つかったらめっ」と命令されていたからともされる。しかし、彼は海賊の子供なのだ。海賊の子供は海賊である。海賊はパーレィのみにしか従わない。上司の命令なんて跳ね除けるのが海賊である(例:甘寧)。やはり彼は平和主義者であるといえる。


帰国した後は遠征記などを記す。また,ピアノの先生もしていたようである。若干,気が短く、しばしば片言の日本語で怒鳴っていたという。また,晩年は特殊な帽子を着用していた。

関連項目[編集]

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