ホアキン・バラゲール

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ホアキン・バラゲール(Joaquín Antonio Balaguer Ricardo、1906年9月1日 – 2002年7月14日)とは、ドミニカ共和国の環境テロリストである。

人物[編集]

第一次政権[編集]

ドミニカ共和国サンティアゴ県の中産階級の家に生まれる。サンドミンゴで育ったものの当時ドミニカは乱開発による環境破壊が進んでおり、幼な心にトラウマを植えつけられるとなってしまった(これが後に、環境テロリストとして辣腕をふるうキッカケとなる)。その後パリ大学で環境学科を専攻、当時ドミニカの独裁者であったラファエル・トルヒーヨ政権下で環境大臣への就任を望んだものの果たせず、仕方なく外交官となった。しかし、たとえ友好国であろうと環境問題に力を入れていない国に対しては容赦なく批判を繰り返したために外交官から内閣の各省庁を転々とさせられ、冷や飯を食わされてきたものの政治手腕は確かであったために1960年には副大統領から大統領に就任することとなった。しかし、大統領の就任演説で「私が大統領となった以上は国家のもてる全てを環境問題に注ぎ込み、たとえ国内産業や経済、ひいては国際関係を犠牲にしようとも環境問題の解決を最優先とする」と発言したことで国内外に動揺を呼び、翌1961年には切羽詰った軍需産業の狙撃手によってトルヒーヨが暗殺され、さらに翌1962年にはクーデターが勃発、バラゲール政権は崩壊するのであった。現実を見ずに実力も伴わないまま、理想だけを追求する政治は決して理想どおりに行かないという好例である。

第二次政権[編集]

その後に勃発したドミニカ内戦(~1966年)のドサクサに紛れて着々と力を蓄えたバラゲールは、今度は「理想を実現させるためには、力が必要である」ことを勉強した上で社会キリスト教革命党から大統領選に出馬、対立候補であったドミニカ革命党のフアン・ボッシュを破って再び大統領の座に返り咲いたが、その陰にはきたない工作や袖の下や賄賂山吹色のお菓子がさかんに飛び交っていたことは言うまでもない。そして必要とあらば殺し屋を雇って対立候補の側近(あくまで本人を弱らせることが目的である)をコロコロしてしまうことも辞さなかったのである。もちろん反対するものはことごとく粛清した上で「美しいドミニカの復活」をスローガンとした環境政策を推進、有害物質を排出する企業には法外なまでの重税を課したり、あるいは気まぐれに操業停止にするなどは日常茶飯事、果ては一般国民が生活の糧を得るために行っている焼畑農業すらも禁止、ドミニカから排出されるCO2(二酸化炭素)を67%削減させることに成功した、が、国内産業や経済は文字通りボロボロになってしまい、極端な格差社会が出現してしまったが、それもこれも、すべては環境を守るためであり、地球市民として大きな功績を残したものと自負していた。

第三次政権[編集]

そんな自己満足な政策ばかり繰り返していたバラゲール政権がその座をアントニオ・グスマンに追われたのは1978年の大統領選である。しかし、グスマン政権に交代するや否やドミニカの主要産品である砂糖が暴落した(砂糖産業はバラゲールが掌握しており、裏でバラゲールが糸を引いていたとも言われている)ために経済はさらにボロボロとなってしまったために2期(1期4年)後の1986年の大統領選では三度目の当選を果たすが、こうなるともはやなりふりかまってはおれず、対立候補のスキャンダル探しや側近の暗殺や買収などは当たり前、アメリカのCIAやICPO(国際警察機構)に働きかけてなんとか冤罪に仕立て上げよう画策までした結果であった。その甲斐あってどうにか三度目の大統領就任を迎えたバラゲールであったが、白内障のためにほとんど視力がなく、とても政務を執れる状態ではなかったと言われており、まさに権力の亡者である。かくして権力の座に就いたものの何もできないまま1996年に政界を引退、寝たきりのまま2002年に亡くなった。

国際的評価[編集]

そんなバラゲールであったが、独裁者でありながら国際的評価は以外に高いのはひとえに環境問題に対する取り組みと実績に対するものである。ドミニカと同じイスパニョール島の西3分の1を占めるハイチが環境の荒廃によって経済的に衰退してしまったのに対し、ドミニカは復活させた豊かな自然を資源として産業を復活させ、経済的に逆転したことがアル・ゴアの著作『不都合な真実』において大きく評価されており、21世紀における友愛政治の先駆者、理想的な地球市民の姿として紹介されたのである。

関連項目[編集]