プラハ窓外投擲事件

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プラハ窓外投擲事件(ぷらはそうがいとうてきじけん)とは、ヨーロッパにおいての慣習である窓外投擲祭りにおいて発生した事件の通称である。チェコで起きたものが特に有名なため、プラハ窓外の変とも呼称する。本記事では、事件の概要のほか、事件のきっかけとなった窓外投擲祭りの発祥とその今日的課題についても記述する。

窓外投擲祭りとは[編集]

窓外投擲祭りの具体的な顛末ははっきりとしていないが、少なくとも高所から石、ガラス、丸太、甲冑、紙類を束ねたもの、ウンコ等を投げ捨てるという民間行事であった事は確かである。なお、窓外投擲祭りの原型は紀元前49年にローマ皇帝ユリウス・カエサルが元老院にいじめられたストレスを発散するため河原で賽を1万枚ほど川に投げ込んだ事であるとされる。なお、投げ込んだ賽が川の流れをせき止めて大洪水を引き起こし、洪水にイタリアとギリシャが飲み込まれて偶然にもカエサルは敵対勢力を排除する事が出来た(賽洪水事件)。また、アトランティスは地中海にあった説を信奉する会は、この時に起きた大洪水がアトランティスを滅ぼしたとしている。その後、この賽洪水事件時に流れ出た1万枚の賽をネコババして開業資金を集めた非営利団体インペリアル・ローマが主催する小規模な窓外投擲祭りが各地で起こったが、ローマ人はアメとムチの政策により大したストレスを持っていなかったため不発に終わり、窓外投擲祭りは暗黒時代までしばらく息をひそめる事となった。

事件の背景[編集]

ローマ帝国の崩壊後、ヨーロッパは教権が支配する暗黒時代へ突入した。暗黒時代のヨーロッパは物理的にも暗黒で、人々は暗い石造りの家の中に閉じこもり、ネズミやノミと遊び暮らしていた。この事がきっかけでペストが大流行した。また、道中でウンコをする時代であった事はメタンガスの発生を誘発し、大気汚染を助長・結果としてヨーロッパを暗黒に閉ざしてしまう事となった。貴族の宮殿も掃除をろくにせず更に照明もなかったためカビが大量発生して宮殿の絵画に使用されていたパリグリーン絵具をカビが化学変化させて毒ガスを生成、宮殿内を汚染し暗黒で満たした。死屍累々・阿鼻叫喚・魑魅魍魎の渦中で溜まりに溜まったストレスは人々を自殺へと導いた。そのため人々はいつ自分が暗黒に支配され自殺してしまうのかと自分自身を恐れるようになり、ストレス発散の方法を模索し始めた。

そこで発展したのが力に任せて物を破壊したり人を殴ったりする一揆打ちこわしであるが、たいていは駆け付けた騎士団や王の常備軍に蹴散らされた。人々はしばらくして、自身のストレスを他人へ暴力的にぶつける事は失策だと理解した。そこで窓外投擲祭りが復活したのである。ローマ崩壊時に弾圧を受け、街中のウンコ拾い業者として細々と運営が続けられていた非営利団体インペリアル・ローマはこの動きに目をつけ、再び窓外投擲祭りの企画運営事業を執り行う様になった。教権や王権は一揆よりはマシだと考え、これを黙認した。

第一次プラハ窓外投擲事件[編集]

1415年、宗教改革を進めていたプラハ大学の教授ヤン・フスが異端者として火あぶりにされた。この事はフス派のプロテスタント達に多大なるストレスを与えた。インペリアル・ローマはプロテスタント達の怒りとストレスを慰めるため、ヤン・フスが処刑された7月に決まって窓外投擲祭りを催すようになった。

1419年、いつも通り七月窓外投擲祭りが企画された。しかし重税や弾圧に苦しみストレスを例年になく増長させた人々は、自分たちを苦しめる元凶の役人のたまり場、プラハ市庁舎を占拠して窓外投擲祭りを行うようにインペリアル・ローマの役員に迫った。そこでプラハ市庁舎襲撃の計画が立てられ、7月30日に実行、市庁舎が窓外投擲祭り参加者約1500名にジャックされ、窓外投擲が開始された。ここで事件は起きた。市庁舎内の書類・テーブル・椅子などを投げ落とし興奮していた参加者は、誤ってプラハ市長と市参議会員を窓から投擲してしまった。「生き物および食べ物を投げてはいけない」という窓外投擲祭りの暗黙の了解が破られたことに動揺した参加者は市庁舎から逃亡し、窓外投擲祭りは中止された。

この事件を耳にしたヴァーツラフ4世がショック死するという二次被害が発生したほか、この事件をきっかけにフス戦争が勃発した。

第二次プラハ窓外投擲事件[編集]

1617年、プロテスタント嫌いのフェルディナントがボヘミア国王に即位し、国内のプロテスタント勢力及びプロテスタントに加担するインペリアル・ローマを迫害する政策を実行しようとしたが、プロテスタントの貴族が反対してフェルディナントを国王として認めないという抵抗をしたためカトリック・プロテスタント間の対立が深まり人々はストレスが溜まった。

そして1618年、200年前のプラハ市庁舎襲撃を再度行いフェルディナントに抵抗するという計画がインペリアル・ローマ内で持ち上がった。多くの役員はこれに反対したが、市庁舎ではなくプラハ城を襲撃し、華やかに窓外投擲を行うという計画に変更した所、全員一致で計画が承認された。 5月23日に計画は実行され、数万人の窓外投擲祭り参加者に取り囲まれたプラハ城はあっけなく開城され、城内の至る窓から窓外投擲が行われた。しかしここでも事件が発生した。またしても興奮して正常な判断力・視力を失っていた参加者たちは、誤って国王顧問官3人と書記2人を窓外投擲してしまったのである。地上20メートルの窓から投げ出された5人は柔らかい干し草に落下したため助かったが、うち1人が干し草に着地した際に大きくバウンドして時速30kmで地面に激突、むち打ち及び骨折の被害を被った。「生き物および食べ物もしくはくつ下を投げてはいけない」という暗黙の了解はまた破られ、参加者は逃亡、祭りは中止となった。

この事件を受けて勢いに乗ったプロテスタント貴族はフェルディナントを退け、プロテスタントの国王を迎えた。ボヘミアに裏切られた神聖ローマ帝国は怒り心頭で大軍団をボヘミアに派遣し、無理やり騒動を鎮圧した。主要貴族の財産が没収されたほか、騒動を起こしたインペリアル・ローマは解散させられたあげく国外追放処分となり、インペリアルローマ役員はプロテスタントを引き連れヨーロッパ中に散らばってしまった。人々は窓外投擲祭りの企画運営者がいなくなったため心のよりどころを失い、怒りに任せて神聖ローマ帝国を攻撃し三十年戦争を引き起こした。

第三次プラハ窓外投擲事件[編集]

1948年3月10日、チェコスロヴァキアの外相ヤン・マサリクが外務省の中庭で転落死しているのが発見された。この頃チェコスロヴァキアでは社会主義に対する反感とストレスが強まっており、インペリアル・ローマ解散の後沈静化していた窓外投擲祭りが度々行われていた。当局は積み重なったストレスに耐え切れず自殺したと発表したが、私的に窓外投擲祭りによく参加していたヤンがストレス過多で自殺するのは不可解だとして自殺説を疑問視する声が挙がった。

3月10日には外務省主導で政府公認の窓外投擲祭りが開催されており、その終盤頃にヤンがソ連外相との会談を終え帰国したと考えられる事から、祭りがラストスパートに突入したためヒートアップした参加者に誤って投げ落とされたのではないかという説がある。もしこの説が事実だとした場合、「生き物および食べ物もしくはくつ下(ハイソックスを除く)を投げてはいけない」という暗黙の了解がまたしても破られた事となり、窓外投擲祭り参加者のモラル欠如が懸念される。

現代における窓外投擲祭り[編集]

窓外投擲祭り後の路上の様子。

現代においても窓外投擲祭りは行われており、さらにはその文化はアジア・南北アメリカにも広まりつつある。一例として、韓国では大学試験のストレスを発散するべく窓外投擲祭りが例年開催されている。

従来の暴動・デモにまた窓外投擲祭りが取って代わってきていると学者は指摘し、公衆衛生の悪化、地球温暖化、オゾン層の破壊、ついては若者の精子の減少を引き起こすとしている。また、ストレスが溜まるとすぐに窓外投擲に走るという思考を「窓外投擲脳」と非難し、窓外投擲時に前頭葉のβ波が低下して羞恥心が欠落するという批判も出たが、窓外投擲祭りの専門家は「ストレスを発散できずに非行に走る方がよほど恐怖だ」と論点をずらしつつ窓外投擲祭りの意義を肯定している。

また、第一次の200年後に第二次、第二次の300年後に第三次、と事件の発生スパンに規則性が顕著に見られる事から、第三次の400年後、つまり2300年代に第四次窓外投擲事件が発生するのではないかと危険視する声もあるが、これも窓外投擲祭りの専門家は「陰謀論だ」と一蹴した。

世界の窓外投擲を操っているのは弾圧を生き延びたインペリアル・ローマだとする都市伝説も流行し、日本・東京都に存在する同名の芸能プロダクション「インペリアルローマ・プロダクション」が風評被害を受けた。この件で悪ノリした同社の社長兼代表アイドルN氏が窓外投擲至上主義を掲げ都知事選に立候補し、なぜか歴代出馬者最高の得票率44.50%を叩き出して健闘するというハプニングが生じたが、同時期に同社の巨額脱税が発覚してN氏が書類送検され事なきを得た(44.50事件)。

関連項目[編集]


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