豊臣秀吉 (太閤殿下)
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
~ 豊臣秀吉 について、千利休
豊臣 秀吉(とよとみ ひできち ひでよし、1537年1月1日 - 1598年8月18日)は、主君織田信長と同じくらいの時に登場していた指が6本ある女色原理主義者にして高根の花コン、ロリコン亡者のハゲ猿。尊称は太閤殿下。豊臣氏(羽柴氏とは無関係)の開祖。
ちなみに、あの羽柴秀吉とはまったくの別人物である。さらに加藤正清(幼名は夜叉丸、あの加藤清正とはまったくの別人)は養母の甥の当たる。
現時点では三英傑の1人に数えられているが、様々な逸話から疑問視されている。特に宇多源氏佐々木一門の六角氏の一員の「六角氏郷」と偽称した沢田源内(郷重)の『江源武鑑』(『太閤記』も源内の著作とされる)にその名が記されている。
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[編集] 人物・略要
『江源武鑑』によると、正月の元日生まれで元々は尾張の氏素性もさだかではない田畑を荒らす野人の子だった。だが、六角氏の家老だった浅井氏一族の「浅井弥助昌盛」こと木下弥右衛門昌吉(羽柴秀吉の父弥右衛門とは別人)と於仲の方(土豪・三輪弥五郎兼員の娘)夫妻に拾われ、その養子となった。彼は養父から「日吉丸」(サルの守り神、日吉神社が語源)と名づけられ、近江守護・六角承禎入道(四郎義賢、幼名は亀寿丸)の小姓として仕えた。
そのうち、養父によって人間の言葉や振る舞いを覚えた。養父の昌吉は尾張国被官・織田信秀(信長の父)の足軽大将で、尾張の富豪でもあった。しかし、養父は信秀に従軍し美濃で斉藤道三の軍勢と戦い、壮絶な戦死を遂げた。やがて日吉丸が家督を継いで、「木下藤吉郎元吉」と名乗り引き続き、承禎入道に仕えた。
しかし、藤吉郎は親戚の浅井長政(直接の血のつながりはない)を贔屓ばかりする主君と衝突し、亡き養父が仕えた故信秀の嫡子(三男)の信長が珍しい物好きなために、六角氏を見限り、献上される形で信長に仕えた。
清洲城の修築、墨俣城の戦いなど数々の合戦で猿知恵を発揮した。これを見た下賎出の羽柴秀吉(念のために別人!)に妬まれ、憎悪されたという。信長が本能寺の変で明智光秀で亡くなると、柴田勝家ら織田家の家老たちに可愛がられた為に、擁立され後継者に祭り上げられた(これは、本能寺の変の黒幕である羽柴秀吉が、藤吉郎を傀儡の主に立てる策だったのである)。
やがて、愛嬌がありひょうきんな藤吉郎は、羽柴秀吉の工作によって朝廷から「豊臣姓&豊臣秀吉」と「太閤殿下」の称号を賜り(藤吉郎元吉の名は放棄した)、完全に羽柴秀吉の傀儡と化したのである。
晩年は、妄想に取り付かれた羽柴秀吉の影武者として、明と朝鮮など東アジア全域を支配下に入れようとする恐るべき独裁者の姿を「ウッキー!」と叫んで、涙を流して演じなければならなかった。しかし、羽柴秀吉が信長の怨霊に殺されると、夫を嫌っていた羽柴秀吉未亡人の高台院(寧々)と組んだ徳川家康に毒殺されたとも、命からがらに北朝鮮に逃れた説もありさだかではない(ただ、現在の金正日は豊臣秀吉の生まれ変わりだと言われる)。
子の豊臣秀勝(石松丸)は、真田幸村の仕立てた影武者と入れ替わり、山野に逃れて猿となったが、どっかのばかに止めを刺されて死亡した。
[編集] 続々と現る偽者たち
- しかし後世になって自分は秀吉だと自称する、もしくはそれをイメージにした人物がたくさん現れた。次のとおり。
- 羽柴誠三秀吉(三上誠三)
- 自身は戦国時代の武将の生まれ変わりだとご近所の住職は言いつつも本人は秀吉の生まれ変わりだと自称する。しかし本当は豊臣秀頼、もしくは豊臣秀次の生まれ変わりという説がある。性格上から見ると、後者の可能性が高い。
- 竹中直人
- 見事なまでに秀吉になった人物。下半身を露出するなど役者魂も大いに見せ付けた。体格も性格も殆ど一致することから彼のほうが秀吉の生まれ変わりなのかもしれない。
- 間寛平
- イメージが一致するも、知能としてはどちらかと言うとこちらのほうが下であるといわれる。ただ筋肉質であることには意外なところで一致する。
- 仲村トオル
- 格好のいい秀吉を演じたが、イメージがかけ離れていたため、秀吉らしくない。
- 香川照之
- 名演技を披露したが、前田利家の妻にたたかれて吹き飛んでしまった。その後あっという間にに憔悴し絶命。
- 柄本明&武田鉄矢
- 微妙なところで一致する。漏らしてしまったため、唐沢寿明が掃除をさせられる羽目になった。
- 草彅剛
- ヘタレ秀吉を演じた。まったく話にならない(ただし、信長に蹴られたのは羽柴秀吉の史実をみごとに踏まえている)。
- 中村勘三郎(勘九郎)&中村橋之助
- 電波系ともいえる美化された秀吉を演じた。
- サル
- イメージも性格も一致する。ただ多数いるため、どれが秀吉と自称したのかは不明。
[編集] 逸話
- ホモが多いとされる戦国武将の中では珍しく
女子 じゃないと勃たない人物。 - その代わり相手が女でさえあれば、下は0歳から上は60歳まで何でもアリの淫獣だった。
- しかし、人間一歩手前の秀吉はなかなか妊娠させることができなかった。
- 彼の子は貧弱な息子豊臣秀勝(幼名は石松丸、羽柴秀勝とは別人)がたった一人だったというなんとも泣ける話である。
- その一人息子も本当の子か怪しいもんだけど、妖怪である可能性が極めて高く、早く亡くなったという。
[編集] 系譜を改竄した江源武鑑の件について
ウィキペディアでは、近江国雄琴村の百姓(農民)の喜右衛門(仁左衛門とも)次男坊で、詐欺師&チンピラでもある沢田源内郷重(1590年? - 1160年)の『江源武鑑』20巻に記されている秀吉の養父(木下弥右衛門昌吉)は浅井氏一族の「浅井弥助昌盛」という名もあり、六角義賢と織田信秀の武将として仕えていたと記されている。さらに源内崇拝者で、ここまでの改竄を正当化を極めた学者の佐々木哲(沢田源内の末裔という)も、ある意味かえってすごい印象をあたえた人物である。
ともかく、この改竄説は佐々木哲を崇拝するウィキペディアンには、絶大の支持が高いという(その他に源内は『大系図』30巻、『倭論語』、『足利治乱記』、『異本関ケ原軍記』などなど…という胡散臭い書物を著し、70余歳までしぶとく生きた悪運の強い人物である)。
もっともひどいのものは、羽柴秀吉が少年時代に仕えた松下嘉兵衛(加兵衛)の系譜が宇多源氏西條氏流とされ、本家の六角氏綱(承禎入道の叔父)の勘気に触れて、近江国を出奔し遠江国松下村で「松下氏」と称し、駿河国守護今川氏親(義元の父)に仕えたと書かれていることである。
ちなみに遠江松下氏の出目はそれぞれ諸説がある。実際には猿楽者の棟梁の卜部氏か、あるいは漢の高祖の末裔と仮冒した西突厥系(ようするに日本人じゃないよね…)の弓月部の末裔の秦氏あるいは東漢氏の流れである。松下氏の分家の花井氏(忠輝の姉婿の三九郎吉成などが出る)、同族の大蔵氏(大蔵藤十郎(大久保長安)など)があり、松下電器の創始者の松下幸之助は嘉兵衛の末裔である。…決して、沢田源内と佐々木哲の記述をけつして信用してはならない。
[編集] 関連項目
- 所縁の地
| この項目「豊臣秀吉」は、日本史に関連した企画書ですが放送日が迫っています。アンサイクロペディアではその時でないのに歴史が松平アナを動かす! (Portal:スタブ) |



