バルスの変
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
バルスの変(-へん)とは1879年6月15日、ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ率いるラピュタ帝国に年齢不明の少年少女がたてこもり、ラピュタを暴壊させた事件である。死者7339人、けが人4598人。この事件の内容は本能寺の変に似ている。
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[編集] 事件に至るまで
1879年6月14日、ロムスカがラピュタに上陸したのだが、そのときドーラが率いる飛行船もラピュタに接近していた。 同日午後5時18分、ドーラ上陸。しかし少年少女はロムスカが悪いことをする(悪役なので当然のことだが)と思い込んでしまった。しかし当日は寝た。翌日、少年少女、ドーラたちが突入。しかし、ドーラたちは拘束される。 しかし、それを逃れた少年少女は、ロムスカをついに攻めることとなった。
[編集] 少女拘束
一方それを知らないロムスカは、飛行石を使って内部に突入しようとした。しかしついに一方の少女が突撃。 拘束するもそれが事件の原因となる。
[編集] 裏切り
その後ロムスカは少女を連れる。そこにはロムスカよりも位が上の軍隊がいた。軍隊は、拘束をとめろ、私こそがラピュタ王だといった。しかしロムスカの怒りは限界になり、飛行石を使って軍人をごみのように殺した。しかしこれに少女の怒りが限界になり飛行石をうばい逃走。
[編集] バルス、そして暴壊
そして少女は飛行石を少年の手に譲り、さらに王座の間に逃走。そしてついに拘束されることとなるのだがそこに少年が来る。そして大砲を2発うって脅した。危険は免れないと予測したロムスカはついに3分の猶予をあたえる。だがそれが失敗してしまう。その後同日午後4時19分飛行石を持った少年少女がバルス!!とさけんだ。そのことによりロムスカは視力を失うこととなるが、その数ヵ月後手術で回復するも3年後また視力を失うこととなる。そして暴落。それとともにロムスカも落下。しかし壁にしがみついていたため軽傷で済んだ。
[編集] 一方そのころ鹿児島などは
しかしこれによって二次被害が発生した。発生したのは鹿児島だった。そのころ漁師などはちょうど帰る時間だった。そして、1879年の同日午後5時27分、暴壊したラピュタが落下。漁師34人が死亡した。しかしそれだけではなかった。そのとき賑わいを見せていた港付近に波が押し寄せ700人が死亡した。
これにより、当時鹿児島で行われていた九州大名サミット(先進大名首脳会議)に出席していた島津義弘、大友宗麟、龍造寺隆信、松浦鎮信、大内義隆などの九州の有力大名は怪我を負い、ラピュタに対して宣戦布告を行うことになる。
これが後の九州・ラピュタ戦争の引き金となる。しかし、元は少年少女が元だったのでロムスカとの関わりは一切なかった。
[編集] 逮捕
その後同年7月5日犯人となる少年少女が業務上過失致死、殺人容疑で逮捕された。しかしロムスカは逮捕されなかった。 しかしその六日後少年少女は同じ日同じ時間に夜神月之助が持っている死亡巻物(今のデスノート)によって殺された。これによって事件の真相はなぞになっていたはずが、壁に書かれていた不気味な文で明かされた。ちなみに夜神月之助のひ孫が現在キラの夜神月である。
[編集] 子供について
このバルスの変のため兄は犯人にうたがわられたことにより自殺。弟は兄のいきなりの死にショック、鬱になってしまい死亡。ロムスカは葬式のとき、「見ろ、人がゴミのようだ!」と言った。墓はそこらじゅうの墓場のどこかにある。
[編集] 名前の説
実はすでに犯人の名前は公表されているのだが、こういう説が生まれた。
犯人孫悟空、三蔵法師説
実はロムスカの正体は牛魔王だったという説ができて生まれた。ちなみにその後ロムスカは三蔵法師をギタギタに食った。
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