バブみ

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バブみとは、高次精神修養の一環である。

概要[編集]

バブみの境地へ行き着くためのトレーニングツール。

普く全ての修練は、まず自分が未熟であることを認めることから始まる。知識や経験がないことを自覚するからこそ、新しい知識や習慣を受け入れることができる。その為の手法として編み出されたのが「もっとも無力な存在」である赤子への回帰である。特に武術ではこれまでに身に着けた身体習慣を否定し「効率的な新しい習慣」を身に着ける必要があり、その為に一旦何の習慣ももっていない状態へと肉体と精神を戻さなければならない。だからこそ一見無意味そうなシゴキを経て肉体を疲れ果てさせ精神をカラッポにし、赤子と同じ何もできない無力な状態に追い込むのである[1]

また修練だけでなく、精神安定の為にも同様のことは古くから行われてきた。所謂マザコンファザコンは「自分は無力であり、故に他人へと全依存しても許される」という思考を持って心の安定を図る行為である。藤子F先生の、内外ともに張りつめ続けてきた男が「自分より大きく優しい存在」への依存を知ってしまう短編作品「やすらぎの館」はまさにそれで、大きな力への依存はそれだけで脳と身体を癒してくれるのだ[2]

これを発展させ、年少の相手や創作物のキャラクターに対して依存するため自らを幼児化するのが「バブみ」である。その為には深い鍛錬と安定した精神が欠かせず、ここに至るまでには長い修業が必要とされる。生半可な心根では「俺は何をやっているんだ」と正気に却ってしまい、羞恥で心が折れることさえある危険な行為でもある。

誤解[編集]

修練の様子。

バブみはあくまで「自分が主体」であり、相手に幼児化してもらうものではない。それでは精神修養にならないし、逆に自分が依存される側になってしまう。だが何故か「相手を幼児扱いし、都合よく可愛がる」という女性向けの娯楽的な意味にとられることが多く、修業を続ける男性たちからは「お母さんをやりたければ、自分で子供を産んで、それでやってくださいよ!」と抗議の声が上がっている。

またこの「修業向けの言葉が娯楽的な意味にすり替わる」という流れはかつて「壁ドン」が通った道であり、こういった一連の流れを繰り返すことがひいては文化面の衰退につながるのではないかという危惧の声も出ている。正しい意味で言葉を使うことは非常に重要であり、バブみはバブみとして使うべきなのである。

脚注[編集]

  1. ^ 非効率甚だしいかわいがりにも意味があるのだ。たぶん。
  2. ^ とはいえ、それが周囲にとっても幸福だとは限らない。言ってしまえば現実逃避にしかならないこともあり、「やすらぎの館」では依存し続けた結果として競争心も何もかも失って別人になってしまった。

関連項目[編集]