バカ記事リダイレクトの刑
バカ記事リダイレクトの刑とは、ノー削除デーにおいて作成されたバカ記事を削除せずに無害化するために制定された刑罰である。
別名、島流し&さらし首。
概要[編集]
このセクションに書かれていることは黒歴史です!
できることなら見ないでおいてあげて!!
2009年のクリスマスに行われたアンサイクロペディアのイベント、ノー削除デーは、当初見込まれた予想通り、即時削除記事を大量に発生させたほか、どこをどうしても面白くできない記事もまた大量に発生させることとなる。本当に予想通りで泣きたくなる。その結果、{{第1回ノー削除デー}}という護符が貼られたその記事の前に、多くのエクストリーム・NRV剥がさせプレイヤーが苦悶することになる。
悪貨は良貨を駆逐する。
しかし、クソ記事を手直しすることに生きがいを感じる人々の中には与えられた命題を前に四苦八苦、右往左往しつつ、斜め上を行く抜け道を考え出すことを生きがいに感じる心底バカが存在する。あわせて、護符が貼られたページの中に、こんなページが存在していた。まさに積み重なった難問の前で四苦八苦していたら、実は難問の中に答えはあったというオチである。
この項目では、ノー削除デーだということで安易に作成された記事を島流しかつさらし首にすることで、今後、似たようなイベントを行う際、支障をきたすことのないよう配慮するものである。
さらし首[編集]
なお、やることは単純である。ノー削除デーにおいて投稿されたバカ記事にこの記事宛のリダイレクトを設定、島流ししつつ、この記事において項目を立ててさらす。ただし、記事によっては実在の大学であったり、分量は少なくとも加筆しやすい記事であったりするため、どこをどうやってもムリとしか思われない記事のみを対象とする。また、元記事自体は存続とするほか、スタブやカテゴリなどについても記載しないものとする。
栃木県立東マイケル大学[編集]
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栃木県立東マイケル大学(とちぎけんりつひがしまいけるだいがく)とは、栃木県宇都宮市にある日本の保育園である。2002年に設立された。
概観[編集]
建学の精神[編集]
- おさない はしらない しなない
- 3割・30本・30盗塁
- i am living in the at 御☆殿☆場
教育の特色・特徴[編集]
日本で初めての高等保育園として、中学高校の課程を終えた18歳以上の青年のうち、特に保育園からの教育を履修しなおすべきと判断された生徒を受け入れている。
入学試験の難易度は極めて低く、「重度の痴呆症患者が臨終の床でも正解できる程度」である。 また進学予備校大手の学究館(滋賀県大津市)では、同大学を偏差値ランキングの「Zランク」に位置付けた。
リンク[編集]
関連項目[編集]
ヤマブキシティの大乱[編集]
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ヤマブキシティの大乱(-たいらん)とは、1996年にヤマブキシティで起きた民衆反乱。一般には、あるシルフカンパニー職員の告発に端を発した内部離反、及びそれに応じた武装組織ロケット団に扇動された民衆蜂起を含めて呼ぶことが多い。なお、アニメでは完全に無視された。
大乱前史[編集]
ヤマブキシティは、カントー地方の経済の中心都市であり、数百万の人口を抱える大都市として賑わっていた。しかしながら、都市経済の実態は市に本拠を置く世界的大企業、シルフカンパニー(以後、シルフ)にほぼ完全に依存している状態であった。
シルフは19世紀に設立され、時代にの流れに乗って大企業へと成長した、国内最大の企業である。その事業はポケモン関係の薬品の開発から日用品、電子機器、インフラ、不動産にいたるまであらゆるものに及んだ。
1982年、国から軍隊の所有を認められ、武装企業となったシルフは、その威を用いて市政はおろか国政にまで強い発言力を有するようになった。やがて市の政治を完全に牛耳るようになり、市長や市議会はシルフの傀儡となり、議場には常に武装したシルフの兵士が背後に控えているという状態となった。そのため、シルフは政治と癒着して市民の血税を食い物にし、市政の腐敗は著しく進行していった。賄賂を意味するヤマブキ色のお菓子という言葉もここから生まれたのである。
1985年、シルフの指示により、ヤマブキシティが四方を塀で囲まれ、シルフの要塞を兼ねた城郭都市となった頃から、一般市民の間には抑圧感とシルフに対する鬱憤が蓄積していった。これに対して、シルフは自分たちに口出しする者を容赦なく弾圧し始めた。弾圧は次第に苛烈を極め、シルフを非難する落書きをした者は家族ともども処刑された。このようなことが頻発するに及んで、市民のシルフへの不満は爆発寸前となった。しかし、シルフの威を恐れる国は有効な対策を撃ち出すことができなかった。
なお、市の警察を管轄しているヤマブキシティジムはシルフに完全に取り込まれており、リーダーのナツメは霊感商法で悪名高いオカルトグッズ「シルフスコープ」の宣伝に全面協力するありさまであった。またジム内にやたら設置されているワープパネルもシルフの製品である。シルフはジムが反乱の温床になることを防ぐため、熱心に引き込んでその権力を漸減させることに腐心した。
ポナヤツングスカ事件[編集]
1996年3月、後の反乱の原因となる事件が発生した。これがいわゆる「ポナヤツングスカ収容所事件」である。以下にこの事件の概要を記す。
ポナヤツングスカ支店[編集]
ポナヤツングスカはロシアの最奥部にある不毛・極寒の地であり、辺りに人家はなく、陸の孤島である。ここにあるシルフの施設(公称・ポナヤツングスカ支店)は高い塀で周囲から完全に隔離されており、関係者以外は近づくことすら認められていなかった。またその正確な場所はおろか地名すら地図には載っていなかった。
このことから明らかなように、ポナヤツングスカ支店は実際には支店としての役割を果たしていないのは明白であったが、それにも関わらず、シルフの完全な情報統制によって、内部で何が行われているのかは全くの謎であった。
内部告発[編集]
しかし1996年3月、元職員の証言により、その実態が強制収容所に等しいものであったことが暴露された。この職員はシルフの元研究員で、命かながらポナヤツングスカから脱走してきたという。彼は、ポナヤツングスカ支店がシルフ上層部の意向に逆らう者や、権力闘争に敗れた者を収容し、死ぬまで凄惨な強制労働を強いるための施設であることを明らかにした。マスコミはシルフに憚ってこの事実を隠蔽しようとしたが、もはや不可能であり、その一部はシルフを非難し始めた。
シルフ内紛[編集]
この事実が世の知るところとなると、シルフ内部の反体制派はにわかに活気づき、シルフ上層部を非難する声明を発表、離反を明らかにした。離反した者の中には冷遇されていた研究職が多かったという。これによって、シルフ内部で内紛が始まったが、この時点では未だ大規模な戦闘は行われず、シルフ上層部は徹底弾圧によって鎮圧しようとした。これを後の民衆反乱と区別してシルフ内紛と呼ぶ。
ロケット団の「解放作戦」[編集]
そのころ、カントー地方全域で最大勢力を保持していた反政府組織「ロケット団」は、権力の権化であるシルフを目の敵にしており、ヤマブキシティを虎視眈々と狙っていた。そしてついに、5月、ロケット団はシルフの混乱に乗じてヤマブキシティを制圧すべく、城壁を超えて市内に侵入した。シルフの軍隊を恐れず突撃するロケット団員達を見た市民やシルフの反体制派は、ロケット団を「解放軍」と称え、以後、熱狂的に支持していくことになる。以降「解放戦争」を自称するロケット団に応じて市民の大反乱が起こり、これを後押しするするロケット団の物資補給もあって反乱軍の勢力はしだいに拡大していった。しばしばこの反乱以降を指して「ヤマブキシティの大乱」と呼ぶこともある。
ヤマブキジムの戦い[編集]
反乱軍はまず市内の警察であり、シルフの手下と目されていたヤマブキジムを屈服させるべく、ヤマブキジムを攻撃した。リーダーのナツメ以下主だった構成員は長い間シルフの兵力に頼りっきりで平和ボケしており、ジム側はあっというまに壊滅してしまった。ナツメは他の構成員を見捨てて得意の空中浮遊で逃げようとしたが、途中で反乱軍の砲撃の音に驚いて落下するという醜態を晒し、市民の物笑いの種になった。しかしその後、ナツメは反乱軍にに寝返り、ロケット団に幹部としてもてなされた。ナツメの超能力にはロケット団も一目置いていたのである。
シルフカンパニー包囲戦[編集]
ヤマブキジムを制圧し、警察権力を抑えた反乱軍はいよいよシルフ本社の制圧に乗り出した。すでに市内にはシルフの軍隊が展開しており、反乱軍との間で一進一退の激戦が繰り広げられ、死傷者は数万人にのぼった。その頃シルフ側では反体制派の離反以降内応者が続出し、部隊の指揮は著しく低下、本社は反乱軍に完全包囲され、その制圧の時は刻々と迫っていた。
ヤマブキジム壊滅から7日後、反乱軍はついに本社に侵入を開始、一斉攻撃によりシルフ側は総崩れとなり、最上階にいたシルフ社長の身柄を確保。ここに戦闘の終結と新政府の樹立を高らかに宣言した。
臨時政府[編集]
ヤマブキシティに置かれた新政府は旧シルフ本社を臨時庁舎とし、臨時市長としてロケット団の幹部を選任した。市民たちはシルフ社長の即時処刑を求めたが、新政府はすぐには決断しなかった。その後新政府の体制やシルフ時代の施策の存廃が協議された。
諸都市への波及[編集]
ロケット団のヤマブキ侵入と時を同じくして、全国各地でロケット団やその他の反政府活動家による不穏な動きが目立ち始めた。諸都市の警察を管轄しているジムリーダー達はこの動きを警戒し、反乱予備軍を徹底的に取り締まった。特にヤマブキジムの陥落は衝撃を与え、反乱の波及を防ぐため、都市の治安維持を強化するとともに、密かにヤマブキ攻撃のための対策が練られた。特にタマムシジムのリーダー、エリカはこの動きに積極的で、大規模な精鋭軍を組織した。中央政府も諸都市の動きに同調しつつあった。
この動きに対して、ヤマブキ新政府は城壁の守りを固め、ゲートを封鎖して攻撃に備えた。しかし、新政府はあくまで市政府を称しており、本来国家そのものに対する反抗は意図していなかった。
ヤマブキ戦争[編集]
8月、諸都市は攻撃を始めた。タマムシジムリーダー・エリカやハナダシティジムリーダー・カスミ等はこの戦いに積極的であったが、一方でクチバシティジムリーダー・マチス等は動こうとせず、対応が大きく別れた。国軍は静観していたが、後に参戦した。これらの連合軍が数十万の兵をもってヤマブキシティを包囲したが、新政府軍の抵抗は激しく陥落の兆しは見えなかった。
スパイの暗躍[編集]
そこで連合軍が投入したのが、コードネームで「レッド」「リーフ」「グリーン」等と呼ばれる少年少女のスパイであった。彼らは子供ながら超人的な能力を有し、敵陣を混乱させ、新政府軍の計略を暴き、それだけでなく、庁舎に幽閉されていたシルフ社長を救出することに成功した。彼らの暗躍による新政府軍の動揺は著しく、もともと多様な背景を抱える集団の寄せ集めだっただけに疑心暗鬼の風潮が現れ始め、士気が大きく低下した。
陥落と殺戮[編集]
8月下旬、この混乱を好機として、連合軍はついにヤマブキ市内になだれ込んだ。混乱していた新政府軍に為す術はなく、次々に撃破されて壊滅した。無辜の市民が虐殺され、市内は地獄絵図と呼ぶにふさわしい惨状を呈した。新政府が存続できた期間はわずか3ヶ月に過ぎなかった。ここに、シルフへの反発に始まり、諸都市までをも巻き込んだ世紀の大反乱は終結を見たのである。
全国への影響[編集]
この大反乱は全国的に大きな影響を与えた。
諸都市への影響[編集]
この反乱以降、諸都市の治安維持が急務となり、各地のジムによる不平分子への抑圧はますます厳しくなった。ジムの警察権が強大になり、市民を徹底的に監視した。
ロケット団[編集]
全国的な残党狩りによって、反乱に加わっていないロケット団員をも厳しく取り締まられたため、大きく衰退した。しかし一部は取り締まりを逃れ、地下に潜って再興を図った。彼らは市民の不平不満を吸収して着実に勢力を蓄え、3年後に再び決起することになる。
ジムリーダー[編集]
ヤマブキ攻撃の際に加わらなかったジムリーダーに対し、反乱軍に通じていたのではないかという疑いが持たれ、急速に権威を失った。ナツメも懇願により職を安堵されたが、同様であった。一方、参戦したカスミやエリカがジムリーダー間で大きな権力を握り、兆散した元ジムリーダー達に追っ手を差し向けるとともに、しだいに中央政府の施策に介入し始め、政治を乱した。
その後のヤマブキシティ[編集]
戦場となったヤマブキシティでは人口が反乱前の五分の一に激減した。多くの人間が市外へ流出し、貧困者のみが街に留まり、かつてのような活気は二度と戻らなかった。シルフは復活し、企業体としては大きく衰退したものの、ヤマブキジムの警察力が有名無実となったこともあり、再び警察権を行うようになった。言論統制は一段と厳しくなった。市民の誰もが口々に、シルフ社長を助けた少年の武勇や、ロケット団への罵倒を口にした。彼らの目には光がなく、言葉には覇気がない。そこで、後にこの地を訪れたある詩人は、ヤマブキシティをこう評したのである。「まるでドールハウスだ」と。
関連項目[編集]
リダイレクト記事への加筆方法[編集]
なお、元記事からリダイレクトで飛ばされた人の中には、奇特にも、元記事の手直しを考える方がいらっしゃるかもしれない。心底やめておけ。しかし、どうしても、という人は、この記事の題名の下にある(~~からの転送)と書かれたページにあるリンクをたどれば元記事の編集も可能である。
果たして、その行為になんの意味があるかは誰もわからないけれど。