ハイフン戦争

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ハイフン戦争(英:Hyphen War)とは、世界史の中でも特筆すべきどーーーーーーーーーーでもいい理由をきっかけとして、最終的に国家が分断された悲劇の総称である。

だが、どう考えても喜劇である。

概要[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「ハイフン戦争」の項目を執筆しています。

ハイフン戦争とは、端的に言えばソ連崩壊後の東欧諸国の中で、最も将来が有望だったチェコスロバキア(チェコ語でČeskoslovensko、スロバキア語でČesko-Slovensko)が、国名にあるハイフン「-」一文字を入れるか入れないかでおおもめにもめた結果、なぜだか国家が分断されるという、書いているほうもさっぱりワケが分からない事件の総称である。別名、「ダッシュ戦争」とも言う。

なお、この国家分断の裏側には、東欧諸国を裏から操りまくったロシアの影や、1968年に「人間の顔をした社会主義」を目指し、そして儚く散った若きリーダーアレクサンデル・ドゥプチェクの復権と突然の死、そして1960年代初頭に持ち上がったスロバキアの自治要求運動といった、様々な要素が見え隠れするのだけれど、いかんせん、たった棒線一つで国家分断が始まるという強烈すぎる事実の前では、たとえ歴史の裏にどんな陰謀や事実が隠されていたとしても、正直な話、どーでもよくなる。

あわせて、一応、時系列順に並べればそれなりに国家が分断される理由が分かる、にも関わらずウィキペディアでは嫌になるぐらい見事にチェコ、およびスロバキア、さらには当該人物の記事ごとに個々の内容が時系列もクソもないまま点在しており、正直なところ、この程度の記述でありながら、アンサイクロペディアのほうが分かりやすい。こういった点から考えると、棒線一本で国が分断されたのではなく、その後をちゃんと伝えなかったからそういうことになったのではないか、と思いたくもなる。が、結局のところ、面白いほう優先である。

それについては、まったく問題はない。

年表[編集]

ハイフン戦争は、1989年12月にチェコスロバキアに新しくヴァーツラフ・ハヴェル政権が誕生(別名ビロード革命)してから、わずか5ヶ月で勃発した民族間同士のいさかいである。最終的に1993年1月1日にチェコ、スロバキア両国が連邦制を解除(別名、ビロード離婚)するまでの4年間を時系列に沿って記述する。

  • 1989年12月・・・ハヴェルを代表とした反体制知識人たちによる平和裏の政権交代が実現される。流血もなく、とくに問題もないまま政権が交代されたため、その後、やわらかく上質な生地「ビロード」のような革命と称される。その際、プラハの春を指導した後失脚し、営林署で働いていたアレクサンデル・ドゥプチェク元チェコスロバキア共産党第一書記が復権。連邦議会議長に就任する。
  • 1990年3月・・・スロバキア社会主義共和国がスロバキア共和国に改名する。その直後にチェコ社会主義共和国もチェコ共和国に改名。で、その直後に、チェコスロバキアの名前をどう書けばいいかの話し合いが始まる。
  • 1990年4月・・・国名が「チェコおよびスロバキア連邦共和国」に変更される。その際、チェコ語での国名が「Česká a slovenská Federativní Republika」だったことにスロバキア系の議員が反発、その後、スロバキアの部分の小文字を大文字に変え、「Česká a Slovenská Federativní Republika」にすることで決着する。このグダグダな話合いを英語圏では「ハイフン戦争」、チェコスロバキアでは「ダッシュ戦争」と報道。ちなみに、名前の件についてはこの段階で終了しているけれど、その他の話し合いについては、むしろここからがスタートだった。
  • 1990年6月・・・緩やかな民主化を目指すために44年ぶりとなる選挙が実施され、チェコ、スロバキア両国で議会の半数を民主化勢力が占める。なお、チェコで第一党となったのは「市民フォーラム」(党首、ヴァーツラフ・クラウス)、スロバキアで第一党となったのは、「暴力に反対する公衆(VPN)」(党首、ヴラジミール・メチアル)。双方とも、共産党政権では冷や飯を食わされていた人物が首相に就任する。直後からチェコの首相、クラウスはチェコにおいて経済改革を実施。市場経済への移行が開始され、貧乏なスロバキア側から猛反発を受ける。
  • 1991年1月・・・工業国チェコ、農業国スロバキアへの経済支援を一方的に停止。この段階で、チェコ側の首相クラウスは、はっきりとスロバキアがチェコの経済発展の障害となることを確信。あわせて、チェコのクラウス首相は経済には強かったけれど、外交や謀略といった世界とはまったく縁がなかった。
  • 1991年4月・・・VPNのヴラジミール・メチアル党首、連立を組んでいた民主キリスト教連合との政策の違いから辞任。なお、メチアル党首も、元は共産党の非主流派からのたたき上げ。経済は元より、外交や国政においても一からの出発であり、連立解消も、結局はそれらの擦り合わせが間に合わなかった結果である。その後、メチアル党首は新しい政党「民主スロバキア連合」を旗揚げする。その際にチェコ首相のクラウスがメチアル党首に連邦の解消を提案する。
  • 1992年6月・・・連邦議会人民院選挙が行われた結果、民主スロバキア連合がスロバキアの第一党に躍り出る。
  • 1992年7月・・・スロバキア議会、一方的に国家主権宣言を採択。確実に自国の経済のことについて考えていないけれど、チェコに振り回される国政に困惑していた国民からは一定の支持を得る。
  • 1992年7月・・・スロバキアの採択を受けてチェコ側もそれを追認。明らかなに新生チェコの重荷と化していたスロバキアと分かれることについて、国民からは一定のうんぬんかんぬん。その結果、正式に連邦解体が決まる。しかし、もちろん国家の分断なんていう話には大反対する人も大勢おり、彼らは新政党「スロバキア社会民主党」を旗揚げし党首に収まっていたドプチェクにこの混乱を収めることを期待することになる。
  • 1992年9月・・・ところがどっこい。連邦議会議長にして、チェコとスロバキアの分断に最後まで反対していたドゥプチェク、謎の交通事故で重症を負う。誰も何も陰謀の件については口に出さない。国民もまた何も言わなくなる。あぁ、なんていうソ連時代のかほり・・・。
  • 1992年11月・・・ドゥプチェク死去。同月、平和裏に連邦を解体するための法律「チェコおよびスロバキア連邦共和国資産のチェコ共和国およびスロバキア共和国への分割およびチェコ共和国およびスロバキア共和国への移行に関する基本法」が正式に採択される。
  • 1993年1月1日・・・チェコスロバキアはチェコスロバキアに解体される。

解体後[編集]

幸いなことに、チェコスロバキアが解体された後、大きな内乱や事件などは起こらなかった。これは、ユーゴスラビアのように多くの民族がモザイクのように国家内に居住していたわけではなく、チェコ人はチェコ、スロバキア人はスロバキアにほぼ問題なく居住していたためである。また、言語もほとんど同じであり、政治についても両国民ともある意味納得して国家を解体した結果であるため、むしろチェコスロバキア時代よりも民族的には友好的になったとさえ言われている。

ただし、経済については、工業国のチェコが数百万人の自国民を失ったことと、農業しかないスロバキアがチェコを失ったことで、互いに大きなダメージを負うことになる。

最後のチェコスロバキア人[編集]

実のところ、ハイフン戦争とビロード離婚の発端となったのは、1968年に行われたドゥプチェクが主導した改革、通称「プラハの春」である。有名な社会主義経済からの緩やかな脱却や表現の自由といった改革以外にも、それまで民族間の中で明確にあったチェコ人とスロバキア人の間の権力格差を解消、両国人は対等であるという、ごくごく当たり前な話が改革の名の下に行われようとしていた。しかし、そんな話を実際にやられてしまうと困るのは、他民族国家といいつつ実質スラブ人国家だったロシア。当時の名はソビエト社会主義共和国連邦。彼らは速攻でチェコスロバキアに戦車を派遣し、改革を潰し、ドゥプチェクを営林署へ追いやった。その後、当たり前のようにチェコ人とスロバキア人の格差は以前のまま残り、さらに、ドゥプチェクの後を引き継いだこれまたスロバキア出身のグスターフ・フサークが、空気を読まずにスロバキア側に率先して投資を行ったことで、チェコ人にも不満が溜まるといった悪循環が、ビロード革命の直前まで続くことになる。

そんな火種が最終的にソ連から独立した後に両国家に飛び火し、最終的に国家を分断する大火事になるんだから、歴史ってのは皮肉だ

ちなみに、そんなチェコとスロバキアの解体について、国家分断による格差の是正に最後まで反対していたドゥプチェクが、下側と見られていたスロバキア出身だってところもまたひどい話である。そのため、連邦解体の直前に死んだ彼には「最後のチェコスロバキア人」という異名がつけられることになる。

実は[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「ビロード離婚」の項目を執筆しています。

上記のように、ハイフン戦争というものを語る際には、本当であるならば、チェコとスロバキア両国の政治や歴史を語らなければいけないのだけれど、いかんせん、歴史的な事実と連邦解体までのちゃんとした流れをいくら説明したところで、棒線一本のために国家が解体という話のインパクトが強すぎるのが現状である。この言葉がチェコ、スロバキア両国のイメージに相当悪い影響を及ぼしていることはまず間違いない。

何回でも言わなければならない。チェコスロバキアの解体には「ビロード離婚」という正式な名称が存在している。ただし、そのビロード離婚の原因として、一番最初に「-」一つについてのバカらしい言い争いがあったということは、どうしたって否定できない事実である。

関連項目[編集]