ドナルド・ラムズフェルド

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ドナルド・ヘンリー・ラムズフェルドDonald Henry Rumsfeld1932年7月9日 - )は、アメリカ合衆国の、実業家政治家であり、ジェラルド・R・フォード政権における第13代国防長官、およびジョージ・W・ブッシュ政権下における第21代アメリカ国防長官である。また、フォード政権下において一時期、大統領首席補佐官も努めている。

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ドナルド・ラムズフェルドが放った発言は、後世の物好きのために、有志たちによって「Unquotable/実業家」へ収録されています。

日本語版ウィキペディアの記述について[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「ドナルド・ラムズフェルド」の項目を執筆しています。

まず、右隣にある日本語ウィキペディアのリンク先をよく見て欲しい。ドナルド・ラムズフェルドという人物の説明文としてはなかなかの造りであり、パっと見、ウィキペディアで初めて見るような情報も多いため、多くの人間はあのような記事で満足すると思われる。しかし、ラムズフェルドという人物が、超大国アメリカの威信を地に落した人物だと知っている人間にとって、日本語版ウィキペディアの記述は確実に情報操作である。特に、もはや笑うしかないイラク戦争における彼の役割について、ほとんど何も記述していない状況は、むしろアンサイクロペディアよりもウィキペディアのほうが笑える。

違った意味で。

なお、英語版ウィキペディアの記事は73キロバイト。日本語版は16キロバイトである。

生まれと家族構成[編集]

ラムズフェルドは1932年イリノイ州シカゴで生まれたとウィキペディアには書いてある。しかし、英語版を見ると、イリノイ州エヴァンストン生まれであるとしている。きっと、目の錯覚だろう。なお、彼はブレーメンにいたフランドル系ドイツ移民の血を引いている。このことは、すなわち、彼が誕生した7年後に勃発する第二次世界大戦の敵方の血を引いていたわけである(フランドル系(オランダベルギー)なら、そうでもなかったりする…)。ちなみに日系移民はアメリカ合衆国により強制収容所に隔離されている。幸い、当時数千万人規模で存在していたドイツ移民に対してそのようなことはなかったが、彼のその後の生涯に大きな影を落とした可能性は否定できない

ちなみに、1936年、ドイツ系移民フリッツ・クーンの手によりドイツ系アメリカ人協会というファシスト政党がアメリカに誕生していたりもする(フランドル系の協会はあったのか?)。この組織は1941年にアメリカ政府の介入によって解散させられている。

幼少期~青年期[編集]

彼が生まれた1930年代、米国は世界恐慌の真っ只中にあり、その後のニューディール政策や第二次世界大戦など、まさに激動の時代に幼少期を過ごしている。なお、このことが、後のアメリカに大きな影を落すことになるとは誰も気づいていない。

ようやく戦争の傷跡が癒えた1949年、彼に初めての大きな栄冠が授与される。それは、米国版ボーイスカウトで、彼はその年もっとも輝いていた団員として全国表彰されたのである。ちなみに、米国におけるボーイスカウトの人脈はしゃれにならず、ビル・クリントンジョン・F・ケネディロナルド・レーガンなども著名な出身者である。ただし、日本語版ウィキペディアにおいて、彼の記事はもとよりボーイスカウトの記事においても著名な出身者の項目に記載されていない。著名な人物の項目の一番最初にコンドリーザ・ライスとあるのに彼の項目がないのも、何かの間違いに違いない

大学時代[編集]

高校を卒業後、彼は全米で4番目に古く、2006年の大学ランキングで1位という名門、プリンストン大学に入学する。入学後の彼はレスリングアメリカンフットボールに情熱を傾けている。ただし、アメフトについては、あのドでかい連中がぶつかり合うやつではなく、一つ軽いクラスの連中がやる「スプリントフットボール」と呼ばれるものである。ポジションはディフェンスバック。その反動からか、50年後、世界中に向けて呆れるほど攻撃的な性格を露にする彼が存在する。彼は、レスリングとアメフトのの両方でキャプテンを任されるなど、当初からリーダーシップを発揮する存在だった。なお、大学時代のルームメイトとして、レーガン大統領時代に政権内で同僚となるフランク・カールッチ国防長官がいる。

なお、彼が大学生活と朝鮮戦争がものの見事に重なるが、それが後に重大な要素となる。

家庭生活[編集]

1954年、ラムズフェルドは同い年のジョイス・ピアソンと結婚する。彼女との間には子供が3人と孫が6人できる。なお、日本語版ウィキペディアでは2009年2月現在、いまだに孫の数が5人である。

兵役[編集]

1954年、彼は大学卒業し、海軍へ入隊。パイロットとその教官を務めることになる。しかし、彼が海軍に入隊した時期はいわゆる冷戦の真っ只中であり、表立って戦争を始めるような雰囲気ではまったくなかった。そのため、後に一国の軍隊を指揮する立場でありながら、彼は現場に立ったことがない。なお、これから約50年後に彼とことごとく対立するコリン・パウエル国務長官は、ベトナム戦争の泥沼から、身一つで、しかも一兵卒からたたき上げでのし上がった身である。

もっとも、知らなかったからこそ、世界最強のアメリカ軍をめちゃめちゃにできたわけだが。

なお、彼は海軍においてレスリングのチャンピオンにもなっている。彼は1957年に海軍を退役し、政治の世界へと足を踏み入れる。

政界進出への第一歩[編集]

1950年代のアメリカはまさにイケイケの状態であり、やる事なす事全て上手くいくと思われていた時代だった。まぁ、夢だったわけだが。そんな時代の風とも相まって、ボーイスカウトの全米表彰者兼プリンストン大学レスリング部&アメフト部キャプテン兼海軍レスリングチャンピオンのラムズフェルドは成功した若手エリートにありがちな、突飛な道を歩みだす。つまり、上へ向かって

海軍を退役した彼は、その手始めに、1957年に当選したアメリカ合衆国下院に当選したオハイオ州の下院議員、デヴィッド・S.デニソンの元で行政補佐官を務める。もちろん、共和党である。なお、デニソンは当時39歳のペーペーであり、そんな立場だったからこそわずか25歳のエリート白人を抜擢するようなこともできたといえる。ちなみにオハイオ州は、イリノイ州の隣にある。そして、1959年、デニソンが落選(下院は2年交代)すると、ラムズフェルドは彼の元を去り、1960年からシカゴに拠点を置く投資銀行「A.G.ベッカー」に勤務する。その後、デニソンは二度と議員に返り咲くことはなかった。

ちなみに、A.G.ベッカーはその後隆盛を迎える年金コンサルタントビジネスのパイオニアだったが、1984年メリルリンチによって買収されている。そのとき、ラムズフェルドはレーガン政権で重きをなす存在だったが、特に何かしたような話はない。彼は、1962年に会社をやめ、地元イリノイ州の下院選挙に打って出る。そのとき、若干30歳。しかし、経歴は上述したようにかなりのものであった。

政治の世界へ[編集]

30歳の彼がイリノイ州の下院にすんなりと出馬できたのはわけがある。まず一つに、当時のイリノイ州における大物議員エヴァレット・ダークセン上院院内総務(アメリカ上院における共和党の代表)の存在と、もう一つ、当時の共和党の趨勢、そして何よりも相手方の民主党に怪物大統領が鎮座していたことが大きい。実際、当時の共和党は、若者からお年寄り、黒人にいたるまで人気爆発のジョン・F・ケネディ(民主党)を相手にしなければならず、しかも1962年の10月には、全世界を震撼させたキューバ危機を乗り切るなど、まさに絶好調。その上、アメリカの中間選挙がその翌月に行われるという、ある意味、共和党にとって最悪な環境にあった。そのため、当時、共和党の院内総務だったエヴァレット・ダークセンは1962年の中間選挙に際し、思い切った若返りを提案する。45歳の大統領よりもさらに若い人材を積極的に登用し、かつ、党内のポストを割り当てていくことを選択した結果、やけに経歴が派手な30歳の元ボーイスカウトに白羽の矢が立てられ、後のアメリカに大きな災いを残すことになる。ただし、ダークセン自身は、ボロボロだった共和党を立て直した人物として知られるようになる。

1962年に行われた選挙で、ラムズフェルドは見事に下院議員に当選。そして、1964年66年、68年の選挙にも連続して当選している。ちなみにエヴァレット・ダークセンは1969年、上院院内総務に在職したまま死んでいる。

政治家としての活動[編集]

ラムズフェルドの脳内。って別のドナルドと一緒じゃないか!

共和党下院議員となったラムズフェルドは、それまでの経歴を生かし、経済や航空などの政府の委員会に所属、そしてはやくから政府の運営にも携わるなど、その後の大物政治家として着実な一歩を積み重ねていく。特に、経済関連の重要人物、ミルトン・フリードマンの知己を得、その後のアメリカを大きく変えた、規制なき自由主義経済の源流に接している。これは、それまでの政府が公共事業をばんばん行って金をばらまく、いわゆるケインズ主義と呼ばれる経済政策を踏襲していたことに対して、政府は市場に手を出さないで、市場の好き勝手にやらせることこそ一番いい、というまったく異なる経済政策のことである。ちなみに、ケインズ主義が行き過ぎると経済が硬直化して元気がなくなることは、当時すでに実証されていた。ただし、規制しない自由な経済がどうなるのかは、そのとき誰も予測がつかなかった。

ちなみに、ミルトン・フリードマンはイリノイ州のシカゴ大学の教授であった。併せて、規制なき自由主義経済が最終的にどうなったかといえば、結局は、2008年9月に発生した金融恐慌に収束される。その結果、古臭くて捨てられたはずのケインズ学派に再び注目が集まることとなる。

また、ラムズフェルドは1964年の大統領選挙で公民権法に反対の立場を示したバリー・ゴールドウォーター上院議員が共和党の大統領候補になった結果、大統領選挙でも下院選挙でも歴史的な惨敗を喫したことを憂慮し、共和党の下院院内総務(下院における共和党の代表)の交代を模索する。一応、議員になってから2期しかたってないペーペーの話である。そして、当時下院における若手議員のリーダー的存在だったジェラルド・R・フォードを擁立することに成功。そして、院内総務の選挙で、それまで下院院内総務だった共和党の長老チャールズ・ハレックを破ることに成功する。ちなみに、フォード自身は、政治的野心を持たない不器用な人物として有名だったが、その特徴を生かして、清廉で朴訥=好意の持てる人物として売り出したことが大きい。

ちなみに、35年後、共和党はテキサスの腐れ脳みそにも同じようなイメージ戦略を用いて大統領選挙を勝利している。フォードとの大きな違いとして、フォードは若手のリーダー格として、それなりに有能だったことが挙げられる。もう一方については述べる必要がない

ラムズフェルドのルール[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「ラムズフェルドのルール」の項目を執筆しています。

有能な若手として抜擢されたラムズフェルドは独自の政治的ルールを作成し、実行に移していくことで議員活動を円滑に行っている。それらは、その後の政治家やビジネスの世界にも応用されている。

以下に示すのは、そのラムズフェルドのルールから抜粋したものである。併せて、このページ(英語だけどね)を参照のこと。ただし、ルールを作成した本人があまりにも守っていないのがネックである。

その1[編集]

ワシントンポストの第一面に掲載されたら嫌だと自らが感じるようなことを言ったり、行ったりしてはいけない。
なお、イラク戦争の際、戦況の判断を誤り続けた結果、アメリカ各紙の一面を賑わせ続けた国防長官が存在する。

その2[編集]

大衆に対する信用を大切にしなさい。
なお、大多数のアメリカ国民から辞任を要求されたにも関わらず地位に固執し、その結果、中間選挙で歴史的大敗の原因となった国防長官が存在する。

その3[編集]

一流の人間は一流を雇う。二流の人間は三流を雇う。
なお、このような発言の結果、テキサスの腐れ脳みそを常に優秀な大統領扱いしなければいけなくなった国防長官が存在する。

その4[編集]

失敗した際は、大統領に報告すること。そして、早期にそれを修正すること。遅れは被害を悪化させるだけである。
なお、イラク戦争で兵力が致命的に足りないことが分かった後も、2年以上もその失敗を修正させなかった国防長官が存在する。

結論[編集]

寝言は寝て言え。

ニクソン政権の誕生[編集]

1963年のケネディ暗殺後、リンドン・ジョンソン政権がベトナムの泥沼に陥る中、民主党に流れていた国民の支持が徐々に共和党へ返っていく。それは、前述したエヴァレット・ダークセンやジェラルド・F・フォードら共和党の大物議員が、党派対立を超えて黒人差別の撤廃に動き、公民権法を成立させたことや、1950年代に猛威を振るった反共主義(マッカーシズム)の反動からアメリカに容共的な流れが出てきたこともあり、アメリカに一元的な思想ではなく、多元的な思想が現れた時代の風を上手く捕らえたことによる。これは、ラムズフェルドをはじめ、若い政治家の活発な活動によるところが大きい。

そして、運命の1968年の大統領選挙で、共和党リチャード・ニクソンが、わずか1%の得票差で、民主党のヒューバート・ハンフリーを破り、当選する。

1969年の大統領選挙の後、ラムズフェルドは有能な若手としてニクソン政権の主要閣僚として抜擢され、下院議員を辞職する。

ニクソン政権下での活動[編集]

1970年、ラムズフェルドはニクソン政権における大統領補佐官、および機会均等局長(Director of the Office of Economic Opportunity)に任命される。なお、機会均等局の部下に、9つ年下のディック・チェイニー、後のブッシュ政権の副大統領がいた。ちなみに、機会均等局はリンドン・ジョンソン大統領の肝いりで作られた、1964年に作られた新しい機関であり、主にネイディブ・アメリカンの生活向上などに関わっていたが、1973年に廃止されている。

ちなみに、日本語版ウィキペディアには経済安定プログラム長(Director of the Economic Stabilization Program)も勤めたとあるが、英語版ウィキペディアにおける「Economic Stabilization Program」とは、1970年における経済安定条例のことである。ようは、それのディレクター(責任者)ということである。そもそも、アメリカ現代史における超重要人物の項目の中にプログラム長という奇妙な日本語があること自体おかしいのだが、これも情報操作によるものだと思えばかなり納得がいく。つまり、小さいことは気にしちゃいけないってことだ

なお、肝心のニクソンは彼のことを「厳格な人物である」と評しているが、同時に「人格が狭量であることも確実」と付け加えている。

NATO大使として[編集]

1973年、彼はニクソンから北大西洋条約機構(NATO)の米国大使に任命され、ベルギーブリュッセルに赴任する。当時のヨーロッパは、米ソのデタント(緊張緩和)を背景に東西ドイツの融和が進み、後のEC(ヨーロッパ共同体)への動きが萌芽し始めたころである。そのため、NATOの大使として防衛計画や理事会に出席したと言えば聞こえはいいものの、はっきり言って左遷に近い。この行いを彼はしっかりと心に刻み、後にフォード政権において、彼はニクソンが積み上げて言った米ソの緊張緩和政策を瓦解させることに腐心する。

なお、ニクソン政権における外交担当、ヘンリー・キッシンジャーはラムズフェルドのことを「私があった中で最も不遜な人物」と酷評している。しかし、同時に「彼は絶対に負けない」とも言っている。

しかしその30年後に、彼がなぜ負けないかというと、「単に負けを認めないから」という、かなり恥ずかしい事実が明らかになる。いまだに、イラク戦争での失敗を認めていないのだから、それも相当なレベルである。

参考文献[編集]