チラシの裏

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チラシの裏(ちらしのうら、the dark side of handbills)とは、の一種である「チラシ」の、裏面のことである。「チラ裏」(ちらうら)とも略される。

概説

散らされしチラシ。

「チラシ」とは、広告や宣伝の類を、1枚の紙に印刷したものである[1]。通常は、新聞に折り込んだりポストに投げ込んだり、あるいは街頭で配ったりすることにより、不特定多数の人の手に渡るような頒布方法がとられる。日本においては、1人の人間が1日に接するチラシの量は10枚とも100枚とも言われており、日本全国で1日にどれくらいのチラシが発行されているのか、考えただけでも夜も眠れなくなってしまう。

しかし、チラシそのものはこのように重要な思索の対象となり得るのに対して、チラシに記されている内容は、多くの場合は無価値であることが多い。これは、チラシに記されている内容がそもそも、万人向けのものではなく、ある特定の層にしか有益でないことが多いためである。(例えば、収入の少ない大多数の日本人にとって、不動産広告が印刷されたチラシは無価値であろう。あるいは、同性愛者にとって、異性愛者向けの風俗店の広告が印刷されたチラシは全くの無価値である。)

チラシに記されている内容が無価値である場合、チラシを受け取った者は、その内容とは離れたところで、チラシの活用手段を検討する。この際に、1枚の紙の表面と裏面の両方に、広告や宣伝が目一杯印刷されているものは、紙飛行機や折鶴、栞など、ごく限られた用途にしか用いることができない。
これに対し、表面のみに広告や宣伝が印刷されており、裏面が白紙であり、かつそれが日常的に用いられる筆記具(鉛筆ボールペンサインペンなど)の使用に充分耐えうる紙質であれば、裏面を自由にメモ用紙落書き用紙として使用することができる。

このとき、このような方法によって用いられるチラシを、特に区別して「チラシの裏」と呼ぶのである。

Domokunyellownbackground.jpg この節はうろ覚えで書かれたものです
誰か、の代わりに僕の記憶の穴を埋めてください。(Portal:スタブ

歴史

「チラシの裏」の歴史は古く、奈良時代にまで遡ることができる。

チラシ以前

木簡の裏を見て思わず顔が綻(ほころ)ぶ研究者。何が書いてあるのか訊いてみたが、どうしても教えてくれなかった。

まだ日本に「紙」が普及していなかった頃、人間は木簡に文字を記していた。日本に現存している最古の木簡は、東大寺正倉院に保管されていた宝物に付けられているものである。その木簡の表面には、宝物の名称や、保管された日時、来歴などが記されているのだが、裏面には、

此はいとわろし。末代まで伝ふるべき品こそ正倉院に納むるべかめれと言へど、此は必ずや早々に失はるるべし。

――などと、記されているのだ。他にも木簡の裏面に、当時の役人が書いたと思われる感想らしき文章が多く残っており、これが日本における「チラシの裏」の始まりであると考えられている。(ちなみに、感想は全て上の例のように否定的なもので、肯定的なものは一切無い。そのような良い品こそ盗難などにより早々に散逸してしまったものと考えられよう。)

勿論、木簡そのものは、このような用途以外にも、日常的な文書のやりとりなどに広く用いられていた。が、現代において、ボールペンで内容が記されている紙を、他人に渡すような用途に転用できないのと同じように、当時も、木簡には墨で字を書いていたので、一度使った木簡は基本的にはそのまま捨てざるを得なかった。

尤も、木簡そのものが庶民や下級役人では入手しづらい状態であったため、個人的なメモ日記が木簡の裏に記される例もままあった。1961年に平城京で大量の木簡が出土した際には、表面からは当時の公的な文書のやり取りを、裏面からは当時を生きていた人間の本音を、と、考古学的に一粒で二度おいしい研究材料として研究者間で奪い合いになったという。

実際に1つの木簡をもとに2本の研究論文を発表して論文数を稼ぐ研究者が出るなど、木簡は表裏ともに大いに研究され、当時の人々の生活の様子を知る上で学問的に大きな成果があがった。チラシの裏を迂闊に保管しておくと、自分が死んでから遥か未来において恥が晒されてしまうという好例であろう。

最古のチラシの裏

「木簡」ではなく「紙」の裏面がこのように用いられた例として最古のものは、『万葉集』に採録されている和歌ではないかと言われている。特に、万葉集の巻十四には、当時の日本の中心であった奈良(平城京)以外の地域で詠まれた、「東歌」(あずまうた)と呼ばれるジャンルの歌が多く採録されている。

当時は、現在のような郵便制度は勿論、個人の私的な文書(私信)を遠距離間でやりとりするような制度が無く、また紙そのものも奈良や京都以外の地域では未だ貴重なものであった。そのため、私信は、公的な文書の裏面などにこっそりと記され、公用あるいは私的な用で地域間を行き来する者に託されるということが殆どであった。
「信書の秘密」などという概念も無かったこの時代、私信を託された者はその中身を盗み見し放題であった。そのなかに良い歌があれば、これを書き留めておいて自分で使う(盗作する)ということも日常的にあったとみられている。そのような歌が、「東歌」として『万葉集』に集められたのである。

また、巻二十には、主に九州沿岸の防衛のために徴兵された防人によって詠まれた、「防人歌」(さきもりうた/さきもりのうた)と呼ばれるものが採録されているが、これなどは、政治的あるいは軍事的な内容の公文書の裏面に記されていたことがはっきりしており、その一部は現存している(中州産業大学図書館所蔵/非公開)。

多くの名無しさんの手によってチラシの裏に書かれたものを蒐集し、書物の形で編纂した『万葉集』は、現代の“ブログ本”や“2ちゃんねる本”の源流となるものであると言って良いだろう。

歴史の裏に隠れる

上代(奈良時代)にはこのように多く用いられたチラシの裏であるが、中古(平安時代)以降のものは意外にもあまり残されていない。勿論、一般にも紙が普及するにつれ、チラシの裏的な利用もまた増えていった筈ではあるが、それを「文学」の一種として蒐集しようという試みが、万葉集以降においては殆どなされなかったためである。

現在も、各地域の文書館や郷土史料館などで、その地域に現存するチラシの裏を蒐集・研究する試みはあるが、全国的にそれらを体系化しようという動きには至っていない。繰り返しになるが、インターネットも電話も郵便も無かった時代に、全国の名無しさんの作品を蒐集した『万葉集』編者たちの見識の高さは、現代の視点から見てもやはり驚くべきことである。

日記文学」や「物語文学」なども徐々に発展していったが、これらの多くは、紙をふんだんに入手できる地位の者によって書かれており、従って、大抵は紙の表面にしか文字は書かれていない。裏面などに推敲の形跡を読み取ることができる場合もあるものの、そのような例は少ない。当時は、文字は和紙に墨で書いているため、裏面を積極的に使用すると裏写りする惧れがあり、この頃の知識人は既に裏写りを「わろし」ものとして捉えていたのである。

チラシの裏からの文学

『春色梅児誉美』の挿画。ご覧の通りの春画である。(この画像には、掲載が不適切と思われる箇所が含まれるため、該当箇所を黒塗りにしています。)

歴史上再び多くのチラシの裏が確認されるようになるのは、江戸時代になってからである。文化文政時代には、印刷技術が普及し、瓦版浮世絵などのような“その場限りの用途のための印刷物”、即ち現代のチラシに近い位置付けのものが多く一般に出回るようになったため、それに伴ってチラシの裏的な記述もまた多く残されるようになったのだ。勿論、裏写りするという問題は解決されていないが、チラシの裏なのだから、読めさえすればそれで良いのである。
(なお、読者のなかには、「瓦版はともかく、浮世絵は“その場限りの用途”とは言えないのでは?」とお感じの方もおられるかとは思うが、その“用途”については、浮世絵の多くが春画であったという事実からお察し頂きたい。)

特に、為永春水(ためながしゅんすい、1790年-1843年)は、チラシの裏から文学の道に進んだ人物として知られている。為永は元々貸し本屋を営んでおり、商品である本を読む時間は充分にあった。現代でもそうであるように、男性が一人の時間に好んで読んだり見たりするようなジャンルのものは、ある特定の方向のものに決まっており、それによって惹起される妄想の方向性もまた同じであった。
妻も娶らず独り身であった為永は、チラシの裏に自らの妄想を延々と綴り、それを貸本としてさりげなく他の商品と一緒に並べておいたところ、やがてその作品は大変な好評を博すようになった。こうして、現在では高等学校の日本史の教科書にも掲載されている名作『春色梅児誉美』(しゅんしょくうめごよみ、『春色梅暦』とも)が世に出たのである。1832年、為永42歳のことであった。

但し、『春色梅児誉美』が日本史の教科書に掲載されている理由は、その内容の素晴らしさではなく、天保の改革による弾圧の一例としてである。この作品は、江戸の風紀を大きく乱したとして絶版となった(作品の内容については、この「風紀を乱した」という弾圧理由からお察し頂きたい)。1842年には為永は手鎖の刑(手錠を嵌めたままで一定期間日常生活を送らねばならない刑)を科され、文章を書くことはおろか、日々の色々なものの発散にも事欠くようになった。このときのストレスがもとで翌1843年には彼は亡くなっている。

チラシの裏に良い物が書けたからといって、それを公に出して良い時代は、何百年も前に既に終わっていたのである。

「チラシの裏にでも書いてろ」

チラシの裏に描かれた作品の例。インターネットが無ければ、このような良作も闇に埋もれていったことであろう。

ところが、奈良時代から実に1200年以上の時を経た現代においては、再び、チラシの裏に書かれたものがしばしば社会に大きな影響を及ぼすようになった。

20世紀末頃から、インターネット匿名掲示板などの媒体が普及し、誰もが匿名で、自由に全世界に情報を発信できるようになると、たちまちそれらの媒体は雑多な書き込みで溢れた。しかし、その混沌のなかにも、社会学的にみて非常に有益な意見や、匿名ならではの鋭い視点からの投稿などが、時折見られることがある。

そのような場合、大抵は、その書き込みを見た他の投稿者から、「ここはお前の日記帳じゃねえんだ、チラシの裏にでも書いてろ、な!」というレスが寄せられる。一見すると少々乱暴にも見えるこの一文は、インターネットスラングの一種で、正しい日本語に意訳すると

「あなたの意見は大変素晴らしい。このような匿名掲示板に書くには勿体無い。ぜひ、チラシの裏などで推敲していただき、個人ブログ[2]などの然るべき所に改めて発表なさって下さい。」

――という意味になる。

現代においては、全く無名であった個人のブログであっても、内容によっては大人気となり、数多くの閲覧者が訪れてコメントを残したり、他の掲示板などで取り上げられたりすることにより、執筆者の人生に大きな影響を及ぼすことがしばしばある。一方、同じ内容を、匿名で掲示板に書いたのであっては、その内容がどんなに良いものであっても、書き込んだ個人が人気を博すということは決して多くない(それ以前に個人の同定が困難である)。
匿名掲示板であっても、ハンドルネームを名乗ったりトリップを付けたりすることにより、個人の同定は不可能ではないが、やはり自分の文章を自分の名前とともに世界に知らしめるには、個人ブログのほうが絶対的に適しているのだ。


無名の人々によって用いられる、「ここはお前の日記帳じゃねえんだ、チラシの裏にでも書いてろ、な!」というスラングは、稀有な才能を有した者を匿名掲示板などに埋もれさせずに、世に出して相応の名声を与えるべきであるとする、たくさんの優しさと、少しの羨望が混じったメッセージなのである。


脚注

チラシの裏に描かれた作品の例その2。アスキーアートなどを描く際にも、チラシの裏での推敲は不可欠である。
  1. ^ 複数枚の紙が綴られていたり、冊子になっているものは、チラシとは呼ばない。それは、『ホットペッパー』などのように街角で無料で配られており、総ページ数の99%以上が有効に使用されずに処分されていく類のものであっても同様である。
  2. ^ ここでは、インターネット上でつける日記帳のこと。詳細はブログの記事を参照。


関連項目

  • ウィキペディア - 「全世界のチラシの裏を集めて、素晴らしい情報源を作ろう!」という方針をとっているウェブサイト。1枚のチラシの裏を多人数で編集できるウィキという仕組みを用いており、多面的な視点に満ちた独特の情報を、数多く収集・提供している。
  • 事実上俺だけの記事
  • 自分語り

最後に

S-お前の日記帳じゃない.jpg

Poruporu.png あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
『おれは "チラシの裏" を見つけたと思ったらそれはスタブだった』
な… 何を言ってるのかわからねーと思うが おれも何をされたのかわからなかった… 頭がどうにかなりそうだった… 身長が156cmだとか1が2だっただとかそんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ… (Portal:スタブ)