チョン

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チョン(Chong、B.C.200年頃~B.C.100年頃)とは、朝鮮半島に住んでいたといわれる伝説上の人物。磨帝(まてい)とも。

生い立ち[編集]

伝記によると、チョンの出生地は現在の日本の大阪あたりだったという。盗賊の子として生まれ、社会的身分は高くなかった。 若いチョンは家柄が悪いことを気にしていたらしく、大阪では日本人の名前を名乗るなどして村に溶け込もうとしたという。 しかしある日隣の家で作っていた米を盗み、村から追放されたが、彼の父は見込みがあるとしてチョンを本格的な盗人へと育てようとした。 はじめのうちチョンは父について盗みの技術を向上させていたが、その過程で自我に目覚め、自分が日本人ではなく朝鮮人であることをこのころ初めて知ったという。 すっかり落ち込んだチョンは、故郷を捨て、海を渡り、三国が乱立して争っている朝鮮半島へと逃れた。

出世と挫折[編集]

日本では自分が朝鮮人ということで落ち込んでいたチョンだが、朝鮮では「日本から来た若者」として「王者」と呼ばれ尊敬の対象になった。 2年後には異例の速さで村長になったという。 チョンが大阪難波出身の貴人だということは当時の王の話でも話題となり、新羅の皇帝から呼び出された際には大阪の文化を教えたという。 大阪に興味を持った皇帝は、チョンに特級盗人(朝鮮名ニダニダ)の称号を与え、高官たちの秘密を握っては報告したという。腐敗しきった新羅を皇帝はよく思っておらず、チョンの報告をもとに人事制を一新することになる。 王宮における大阪灘波出身のチョンの権力は絶大なものであったが、ある日、皇帝の履いていた草履を尻に敷いていたことで大顰蹙を買った。このため一時的に北朝鮮に左遷されるも、翌年は復帰、左大臣の職を得ることになる。

戦争と平和[編集]

新羅皇帝の命を受け、左大臣となったチョンは、西へいっては七転八倒敵を切り裂き、東へ走っては電光石火の如く誤報を流して敵を混乱させ、まさに獅子奮迅の働きであったが、この彼の活躍のおかげで新羅は朝鮮半島の大部分を制圧し、カムサムニー川の決戦において残党を一網打尽にする。 しかし、彼の帰陣途中、新羅皇帝から一通の手紙が届く。内容は、ただちに軍を解散せよ、であった。権力闘争はすでに始まっていたのである。

新皇帝磨帝(まてい)[編集]

チョンはただちに軍を新羅に向け、皇帝軍を破り、そして自らが王であることを宣言した。 磨帝と名乗り、これから世界に覇を広げるのである。

磨帝時代の版土[編集]

最初は中国であった。朝鮮人と比べると身長が半分ぐらいしかない中国人は、家内制手工業の担い手として最適であるとして、まずこれを攻め、北京、長安を占領。そこで海軍を編成して一気に南京から今のベトナム辺りまでの範囲を手中におさめた。 チョンの子は父の名をもらいチョンコと号したが、チョンコは優秀な騎馬軍団を西に進め、シルクロードを渡り、ロシアと交戦し、見事これを撃破した。 世界最大の版図をおさめた国と言えばモンゴル帝国だが、チョンチョンコが治めたユーラシアにまたがる大帝国は軽くそれをしのぐのである。

磨帝の死後[編集]

磨帝は多くの医者が警告していた通り、肥満、糖尿病を患い、もってあと1年といわれていたが、その通りに死んだ。

しかし磨帝の残した国は数多い。日本中国ロシアチベットモンゴルベトナム、そしてイギリス・・・など、枚挙にいとまがない。まさにアジアの歴史とは、チョンチョンコその2人によって作られたといっても過言ではないのだ。

朝鮮という語は現地では「チョソン」と呼ばれる。もちろんチョンの偉業が讃えられてのことである。そしてこの語は、大韓民国人に匹敵する美称となったのである。

ちなみに、日本の九州地方の一部方言では、奇想天外な行動や思考をする人物のことを敬意を表して「まてえ」というが、これはほかならぬ磨帝に由来するもので、チョンが日本でも尊敬されていたことを物語っている。