セックス制限法

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』

セックス制限法(―せいげんほう)とは、セックスを大幅に制限した法律の総称。2000年問題細木数子が子作りを促進したために生じた社会的混乱を抑えることを目的に検討され、6年後に制定された。

目次

[編集] 構成

一般的にはセックス制限法と呼称されるが、これは以下の法律の総称である。

  • 性交制限基本法
  • 男女間の性器結合の規制に関する法律
  • 零細風俗店およびデリバリーヘルスの規制に関する法律
  • 自慰行為の促進と性器結合に及ばない性風俗産業の支援に関する法律
  • 特殊宿泊施設の制限に関する法律
  • クリスマスにおける過剰な恋愛扇動の規制に関する法律
  • 喪男および腐女の社会的地位向上に関する法律

[編集] 性交制限基本法前文

性交制限基本法の前文は以下のとおり。

健全な家族計画と経済計画に則り、健康で秩序ある性生活を営む権利と義務を有する。こうした理念を実現するために、不用意な性行動と想定外の妊娠を回避し、よりよい家族生活を営み、以ってわが国および国際社会の健全な発展に寄与しようとするものである。昨今の人口爆発は、秩序なき破廉恥な男女交際と売春の蔓延によるものであり、そうした行為の抑制はわが国に限らず世界的な課題となりつつある。本法律および関連法では、性行為の秩序を示し、より健全な性文化と人口構成の構築に寄与するものである。

[編集] 経緯

1999年に細木数子がテレビのバラエティー番組で子作りを扇動したために、中出しでセックスをする若者が爆発的に増加した。そのために2000年に爆発的な出産ブームとなり、産婦人科医・助産婦や保育施設不足が深刻化した。将来的には学校の教室の不足、受験戦争の過熱、就職氷河期の再来なども予想される。こうしたことから政府はこれ以上の出産を規制すべく、セックスを大幅に規制することが迫られた。しかし2000年の通常国会では一旦廃案となっている。

最終的に難なく国会を通過した。当初は妊娠の増加を抑えることが目的だったが、喪男・腐女たちの意向により、セックスそのものを規制することに主眼が置かれるようになった。

[編集] 内容

基本となる内容は以下のとおり。

[編集] 性交税の徴収

セックスに関して税金(性交税)を徴収し、セックス抑制効果を生み出した。たとえば、

  • ラブホテル利用時、1カップルにつき3,000円
  • コンドームまたはペッサリー1つにつき300円
  • ピル1錠につき100円

さらにセックスを連想させるものに関しても課税対象となる。たとえば、

  • 夜10時以降の男女2人での居酒屋利用に1,000円
  • 夜9時以降の男女同数でのカラオケ利用に2,000円
  • 夜9時以降の男女2人での観覧車利用に500円
  • 30歳以下の男女2人でのホテル利用に2,500円
  • クリスマスやバレンタインデーでは男女2人での外出には許可証(1通2,000円)の所持を義務付け

[編集] 性風俗産業の規制

性風俗産業を隠れ蓑に、自由恋愛中の男女がセックスすることを防ぐために、無店舗型性風俗産業を大幅に規制した。この法律に違反して男女が自由にセックスを行った場合、3年以下の懲役とともに付加刑として精管切除または卵管結紮が課される。

[編集] 喪男・腐女の社会的地位向上

性交経験のない男女は優遇される。30歳まで一度も性交したことがない男女に対しては国から童貞恩給・処女恩給が支給される。また、公務員の場合は昇進も早くなる。現在では精度の高い童貞・処女判定の研究も行われている。4

[編集] セックス禁止法制定に対する前向きな取り組み

社会のクズどもが67億人もいる世の中を直すために人口をある程度減らすためにセックス禁止法を制定!!

[編集] 影響

童貞恩給・処女恩給を受給する高齢童貞・高齢処女が増加し、ニートや引きこもりは贅沢をしなければなんとか自分のお金で食っていけるようになった。反対に、セックス大好きのプレイボーイはいつもお金に困るようになり、いかに低価格でナンパ(ヤスナン)するかが求められるようになった。

[編集] 歴史上におけるセックス制限法

[編集] 閨房禁止令

日本江戸時代後期、九州地方の唐島藩において、当時の藩主である小倉忠輝公の命により、このセックス制限法と同様の趣旨を持つ『閨房禁止令』が出されたことがある。

この禁止令が出された経緯については、在野の歴史研究者などにより複数の説が唱えられているが、確たるものは無い。ただし、有力なものとしては、当時、正室清姫とうまくいっていなかった忠輝公が、ある日城下を視察した折、セックスの快楽に浸る庶民たちの姿を目の当たりにし、我が身の窮屈さに大いに憤満を抱いた事が原因であったという説がある。ちなみに、この正室清姫はやりまくり将軍として名を残す徳川家斉の54番目の子であり、父親に似てやはりその方面では大変にタフな女性であった為、当初は忠輝公との仲がうまくいかなかったと言い伝えられている。

この閨房禁止令が出されるや否や、現代のセックス制限法とは逆に、唐島藩内は大混乱に陥り、挙句には一揆まで発生したという記録が残る。もっとも、この騒動は程なく忠輝公が自省し禁止令を撤廃した事で無事に収束した。翌年、唐島藩にはベビーブームが到来、藩の人口は一気に倍増し、その後この唐島藩と小倉家は九州の雄藩として幕末まで安泰であった。なお、当時は現代とは逆に人口が増加する事がそのまま繁栄に直結する時代であった。

禁止令を出した忠輝公は禁止令撤廃から程なく、仲がうまくいくようになった清姫と睦み合っていた最中に腹上死したと言い伝えられている。

この唐島藩における一件については、それによって生じた藩内の社会混乱を東映の撮影班が記録していた事で知られる。この記録映像は後に編集され、ドキュメンタリー映画『徳川セックス禁止令 色情大名』として公開されている。

[編集] 関連項目