鶴田友美

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動: 案内検索
出典: 八百科事典アンサイクロペディア(大丈夫、本当の項目名はジャンボ鶴田だから。君は間違っていないよ。
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「鶴田友美」の項目を執筆しています。

鶴田友美(つるた ともみ、1951年3月25日 - 2000年5月13日)は、日本最強のサラリーマン

経歴[編集]

もともと類稀なる才能の持ち主で、オリンピックにも出場。その知名度と体力、体格が全日本プロ・レスリング株式会社馬場正平社長の目にも留まり、社長面接一発で内定が決まった。この際、「全日本プロレスに就職します」という、サラリーマンとしてはいかにも平凡な一言が、なぜか世間の耳目を集めたりもした。もっとも、正確には「僕のような人間が就職するのには、全日本プロレスが一番適した会社かなぁと思って。尊敬する馬場さんの会社を選びました」と言ったようだが、就職活動を終えた者の発言として特別珍しいものではない。

鶴田は馬場社長からの期待も大きく、採用後はすぐにアメリカでOJT研修を受けることになった。そこでドリー・ファンク・シニアから業務の手ほどきを受け、全国組織のトップとやり合うなど、早くも大器の片鱗を見せる。半年に及ぶ研修を終えると帰国し、馬場社長とともに会社の顔として活躍することになる。

1980年代に入ると、ブレーキの壊れたダンプカーを御するなど、危険な業務にも果敢に立ち向かい、一層評価されるようになった。日本企業が世界で活躍できることを示すために、当時世界一と言われたリック・フレアーとも何度もやりあったが、さすがになかなか打ち負かすことは出来なかった。しかし逃げの姿勢のフレアーに対して、鶴田の堂々とした姿勢はますます評価されるようになった。鶴田はハルク・ホーガンともビジネスの世界で相まみえたかったようだが、全日本プロ・レスリング社は、世界野生生物基金(WWF)のような不真面目な団体を相手にしていなかったので、それは叶わなかった。

バブル経済が終わると、海外からの人での買い漁りは下火になり、馬場社長も経営方針を転換した。より堅実な経営を行うために社内の人材育成を進め、鶴田はみっちりと後進の指導を行うことになった。鶴田のもとで多くの者が育ったのを見て、また自らの健康上の不安もあって、まだ43歳の頃から転職の道を探り始めた。48歳で全日本プロ・レスリング社を早期退職し、ポートランド州立大学の客員教授となったが、程なくしてB型肝炎が悪化。49歳で死去した。

ニックネーム[編集]

鶴田は「ジャンボ」の愛称で親しまれた。本名が友美でさすがにカワイくてイメージに合わず、当時世界の空をジャンボジェット機が飛び回り始めた頃であり、世界をまたにかけて活躍する鶴田の愛称としてはぴったりである。後には彼にあやかってジャンボ尾崎というゴルファーまで登場した。

「完全無欠のエース」とも呼ばれていた。小さい頃はともちんと呼ばれるくらいカワイく体が弱かったが、就職後はさすがに少々の風邪で休むようなことは無く、引退まで完全無欠勤で通した。鶴田のプロ意識の高さが垣間見られる愛称である。なお、どこにも欠点が見当たらないエースサラリーマンのことだと勘違いしている人もいるが、鶴田は案外取りこぼしが多かったので、これは誤り。

仕草・特徴[編集]

鶴田の売り注文

鶴田はしばしば大事なところで拳を突き上げる。これは証券取引所で見られる手サインの「万」を表し、これからの自分の仕事を1万円で売ると言っている。普通は拳を突き上げると、手のひらが内側になるが、鶴田の場合は前を向く。これは証券取引所の手サインで、売るときは手のひらが前、買うときは後ろと決まっており、鶴田もそれに従っているため。

また鶴田は血を流すといつもどおりのパフォーマンスが出来ないことが知られていた。全日本プロ・レスリング社の外国人契約社員、たとえばアブドーラ・ザ・ブッチャーザ・ファンクスは流血してからが本番とでも言うようにいつも流血していたのと対照的である。鶴田はあくまでもサラリーマンであり、汗は流しても血を流してまで仕事をするつもりはないという思いの表れであろう。

仕事着としては黒のものを愛用した。サラリーマンたるもの、フォーマルな黒を選ぶのは当然である。もっとも、まだ若手の頃は自分が率先して海外の取引先を迎えることもなかったので、あまりサラリーマンらしくない色(赤と青)の仕事着も愛用していた。

サラリーマンの鑑[編集]

鶴田はまさにサラリーマンの鑑ともいえる言動を随所に見せた。

たとえば世界的に有名だったルー・テーズから企業秘密の岩石落としという技術を教えられた際(ちなみにこの岩石落としは、名前からも分るとおり、前述のブレーキの壊れたダンプカーの制御にもってこいである)、100万ドルという法外な授業料を請求された。このとき鶴田は、「世界一になったら払います」と答えている。当時、世界一というのは前述の全国組織のトップのことであった。しかしいくら全国組織のトップに上り詰めて鶴田の名を世界に知らしめても、それで100万ドル払うというのはコストパフォーマンス上良くない。そこで鶴田はコスト的観点から、全国組織のトップに拘らず、全米組織のトップに上り詰めたのである。

また馬場社長は、アメリカで自分を売り込み人脈を広げた経験から、鶴田にもアメリカで活躍するよう手配した。そのため全米組織のトップとしてアメリカ各地を訪れている。それゆえ、鶴田は世界で活躍できるという評価を獲得し、「世界の鶴田」と呼ばれるようになった。現にアメリカの第一人者を日本に呼びつけて全国組織のトップの座を奪った藤波辰爾よりもずっと高く評価されている。

そして後輩への指導も怠らない。三沢光晴川田利明小橋建太田上明らを手厳しく鍛えたゆえに、彼らはその後大活躍した。鶴田が第一線で活躍した時代も、全日本プロ・レスリング社は潤っていたが、鶴田の指導を受けた三沢らの時代にはさらに驚異的な増収増益を記録しており、組織運営の観点からもこうした指導は高く評価される。また、鶴田が転職する際には記者会見を開き、後任にあたる三沢らがますます活躍するだろうことを説明し、引継ぎをスムーズに行った。

日々の仕事でもサラリーマンらしさが光った。一日の仕事を終えると、「いやー、シンドイ仕事ですよ」と答えることもあったが、仕事相手を讃えたり、握手することを忘れなかった。同僚の天龍源一郎とともに全力で仕事に取り組んだときも、その後すぐに天龍に握手を求めている。

結婚相手にも誤りはなかった。妻の保子も夫を支え、馬場社長の夫人である元子とも懇意になることで、夫の出世に貢献した。なお、夫の友美が死去後は、妻の保子は馬場元子社長を批判している。保子は元子と気が合うから友達だったのではなく、あくまで夫を助けるために親しくなっていたに過ぎない。

先進的ビジネスマン[編集]

昨今では企業の社会的責任も強く意識されるようになり、社員が社会奉仕活動を行うのも一般的となりつつある。しかし1980年代当時から、鶴田は地域の治安維持のために活動していた。具体的には、路上の迷惑者すなわち暴走族の排除に力を注いでいた。暴走族はたしかにいつも威勢は良いがスタミナがないので、だいたいいつも鶴田につまみ出されることになった。しかし完全に痛めつけることなく、喧嘩の実力は拮抗していると思わせたり、相手が怒って勝手に帰っていくように仕向けたりと、暴走族が周囲の者に八つ当たりして被害を及ぼすことのないように細心の注意を払っていた。

一方で、戦後の企業文化として、つきあい残業、つきあい麻雀など、なにかとつきあいが必要だったが、鶴田はこのような古い慣習を良しとしなかった。彼は周りの人といつも飲み歩くようなことはせず、ひとりで宿舎の近くのコンビニに出かけたりと自分の生活ペースを大切にした。また、飲食店で後輩と同席しても、必要以上に奢ったりはしなかった。

しかし飲むこと自体が嫌いなのではなく、むしろオンとオフの切り替えを重視していたと言ったほうが正確であろう。長州力と仕事をしたのちも、長州があまりに頑張りすぎて職場のロッカー室でへばってしまったのに対して、鶴田は余力を残していたのか飲みに繰り出している。

病気を患い本来の働きが出来なくなったとはいえ、終身雇用制度がまだ当たり前だった当時としては珍しく、定年まで時間を残して早期退職した。その後は教授を目指し、実際にそれに先駆けて筑波大学の講師となっている。今でこそコンサルティングやメーカーの研究所などを退職した人が私立大学の教員に転職することは珍しくないが、鶴田の人生プランはやはり先進性があった。

評価[編集]

全日本プロ・レスリング社内での外国人契約社員からの評価は、同僚の天龍源一郎のほうが高く、鶴田と天龍が出世争いをしていた頃は、天龍が次代のエースになると言われた。しかし実際には鶴田のほうが順当に出世している。優秀すぎる鶴田が仲間の反発を買わないように、鶴田なりに八方美人的な振る舞いを避けていたものと推測される。

野田佳彦首相は鶴田を敬愛していることが知られている。野田は自らの内閣をドジョウ内閣と呼ぶなど、派手さはなくても着実に仕事をこなそうとする実務者肌である。そんな彼が、サラリーマンの中のサラリーマンである鶴田を尊敬するのは至極当然のことである。

関連項目[編集]