さぶカルチャー

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さぶカルチャーとは、日本における現代的男色表現とその歴史である。

前近代までの男色表現[編集]

日本では古くから男色文化が盛んであり、江戸時代には陰間茶屋という男娼館が存在し「男色と女色、どちらが上か」という議論も行われていた。
またそれよりさかのぼって戦国時代でも武将が絆を深め合うため色恋の仲になることは決して珍しいことではなかった。
例えば武田信玄は男色に入れ込むばかりに美少年だけの親衛隊を作って隊舎に入りびたり、「仕事しろ御屋形野郎」と家臣に窘められることもあったという。

しかし明治以降はキリスト教的価値観が流入し、宗教的理由から禁忌とされるようになった。
本来アニミズムより派生した神道国家である日本には一神教の戒律はそぐわないのだが、徳川幕府が倒れて以降の「欧米文化こそ正しい」という歪んだ思い込みが男色表現に大きな影を落とすこととなった。
「鶏姦(アナルセックス)」が法律で明確に禁止され、前の五千円札の人は「男色は野蛮で暴力的な行い」という誤った思想を自らの大学で説いていたと記録されている。

その反動もあって大正時代近辺では男色は地下表現となったが、それが却って多くの文人文士により愛好される理由ともなった。
作品のテーマとして「生殖を超えた先にこそ真実の愛がある」という理想を説いた作家もいれば、ひたすら過去の文学作品から男色要素を探し出して検証しその素晴らしさを広めようとする者もいた。
その結果として稲垣足穂をはじめとする男色文人が何人も世に出、中でも菊池寛古事記ギリシャ神話、果てはわれらがオスカー・ワイルドに至るまで男色文化の蘊蓄を残している。

昭和、さぶカルチャーの曙[編集]

昭和という時代は事実上大正末期の大恐慌から始まったと言っても過言ではない。関東大震災の影響により金融不安が世を支配し、「大学は出たけれど」が流行語ともなった。
そんな不安定な時代は、地下表現にとってはむしろ追い風となった。その後戦争を経て更なる文化的混乱が発生し、それを原動力として文化が入り乱れて発展する。
その中で男色文化は「文化」として復権したのである。

戦後の混乱期、世の中にはアングラ劇団やカストリ雑誌が流行し人々は目先の不安から逃れようと「禁忌の開放」を強く望んだ。それは歴史の必然でもあったのかもしれない。

1970年代、そんな流れの中で男色表現雑誌が乱立。これまでとは異なる文化潮流が生まれ、「実行する」だけでなく「見る」「読む」という部分を重視する男色文化が生まれた。
その文化は、当時一世を風靡していた男色雑誌に準えてこう呼ばれた。
さぶカルチャーと。

女性たちと現代さぶカルチャー[編集]

さぶカルチャーは本来男性向けのものであったが、80年代以降は耽美系表現の流行により女性の中にもそれを好む層が増加し始めた。
彼女らにとって「キレイで実害がなくて自分では絶対できない」男色というのは憧れの一つとなり、「周囲とは異なる、熟成された指向を持つ」という意味で「腐女子」を自称し独自の研究成果を仲間内で発表しあった。
彼女らのような層が増えるに従い、女性たちの中からもさぶカルチャー容認論が更に高まることとなっていった。

女性に受け入れられるという事は子供にも受け入れられるということであり、多くのメディアが男色を趣味嗜好の一つとして取り扱うことで漫画や小説の中に違和感なくさぶカルチャーを浸透させていくこととなる。
多くはギャグ扱いではあったが、だからこそハードルを可能な限り下げて提供することが出来るようになったのである。
例えば漫画「ジャングルの王者ターちゃん」ではさぶミッションという技が登場しているし、バラエティ番組「タモリのボキャブラ天国」シリーズでも上記の名前の由来となった「さぶ」がネタとして取り上げられるなどして知名度を高めていった。

その結果としてさぶカルチャーは市民感情に受け入れられるメインカルチャーの一つとなり、今では日常的に男色傾向のカミングアウトが行われている。
自らの性嗜好に悩み自殺の道を選んだ者もいた時代もあったが、それは既に過去となり、多くの男性が「生きたい自分」を生きられる時代が来たのである。

関連項目[編集]

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