コンセプチュアル・アート

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コンセプチュアルってなんだ? アートってなんだ? ――その答えが明らかになることはないだろう。しかし、手がかりを見つけることは可能だ。今日、美術批評は容易なことではない。単に感想を述べることは許されず、論拠が求められるためである。もっともらしい論説にしたければ理論武装する必要があるが、そのためには一定の技能と知識が求められる。作品の背景にある<プシュケー>を見出すには、腕の立つ外科医のようにメスで描写の腫瘍を切り取って流動的な意味の核心に到達する必要がある。

残念ながら、ただ作品を見るだけでは批評は出来ない。以前、筆者が『溶解ガラスと釘、有刺鉄線の巣』を見たときのように、失明のリスクを冒してでも作品を「感じる」ことが欠かせないのである。本稿では「存在」と呼ばれる場所へと読者の皆様をお連れする。冒頭に挙げた興味深い問いに対する答えを自身で見つけてほしい。

「母」[編集]

MOTHER.jpg
イーゴリ・ スプロナノビッチ (1991) フォトモンタージュ、 血、 ラッカー、 ベニヤ板

スプロナノビッチは本作を観る私たちに対して問いかける。例えば「胎児は齧歯類だったのか?」といった具合に。その問いの答えは私たちには分からない。しかし、作家はこの作品で答えを探ろうと試みている。本作は核家族における独裁と母子関係におけるファシズムを批評したものである。

「両親はこの肉体を求めていたのだろうか」とスプロナノビッチは問いかけている。というのも父親は村の肉屋で、かつてソーセージに幼き日の作家の指二本を混ぜようとしたのである。もちろんイーゴリは激怒した。このとき抱いた道徳的な決意がキャンバスに吐き出されているのである。本作は私たちが肉親の亡霊に魅了されながらも恐怖を抱いていることを明らかにしたものといえよう。

'QWERTY'というフレーズが22回繰り返されているが、これは作家がこれまで22年もの間味わった地獄を表したものである。画面の上下に並べられた独裁者の肖像は「形而上学的な良心」が圧迫されていることを示している。ヒトラーは私たちを見つめているのか、それとも私たちと共に見つめているのか。あるいは彼に犯されているのか。

この作品を取り巻く恐怖のオーラの何たるかを明確に語ることは出来ない。この<恐怖>は概念的な意味での物理的抑圧であって、それゆえ誰もが「思考のナチス」になりうることを示している。スプロナノビッチはこの事態に気がついているゆえ、鑑賞者に対して<境界線>の再構築へと誘うのである。


「原始アナーキズムと私」[編集]

Proto anarchism and me.jpg
ターキン・ミドルトン (1993) アクリル、 マーガリン、 汗、 カンバス

もつれた記憶の迷路から「想像力」と呼ばれる交差点への内省的な旅行へと鑑賞者を連れていく趣向の作品である。旅の途上では深遠で意味ありげな作家からの問いかけが投げかけられる。「自己嫌悪の沼を深く掘り進めてゆくと、絶望を発掘することになるのだろうか」「これから何を述べるのか」「これから何を着るのか」「これからどこで暮らすのか」云々。これらの問いかけはすべて本作内にみられる<実存>と<動的自己>の魔術的変形である。もちろん、作家が描いた「真の意図」は決して明らかにすることは出来ない。それは狂気なのか、あるいは作家が隠そうとした惨めな肉体なのか……。冒険を続ける鑑賞者には更なるメッセージが明らかにされる。あなたが見ているものは本当は絵画ではなく、哲学であると。

違う? 誰にも本当のところは知る由もない。重要なのは決して<到達>できないから、決して<理解>できないことだ。これでようやく思考におけるフロイト的錯誤を脱構築できた。存在とは何か? 考えるとは何か? ――これらの答えが得られないことはもうお分かりだろう。このあたりで試練と危機の迷路を乗り越えたところで結論を下そう。「原始アナーキズムと私」は我々が見ることが出来るものや目指したいと思っているものすべてであると。

「ペンギンは誰だ?」[編集]

Who is the pengin.jpg
モーリス フォーテスキュー (1996) インキ、 胆汁、紙

鑑賞者に極めて強い印象を残すこの作品は、本質的な天才のエッセンスを蒸留したものであり、隠喩的レモン搾り器にたとえても良いだろう。これは世代の自負を視覚的に再構成したものといえる。要は抜け殻である。本作を見ることで空虚で無意味な生活を過ごしていたことに気が付いてしまうだろう。紙とインクの崇高な融合である本作はこう語りかける。「苦しい!」と。このような表現は美術史上類を見ないものである。他のアーティストがいくらリスペクトしようと本作を超えることは出来ないだろう。

これ以上考えることは今すぐやめるべきだ。誰がペンギンなのかは私達には決してわからないのだから。本作の悲劇は誰もがペンギンであり得ることだ。しかし真相には誰も辿りつかないだろう。私たちが知り得る唯一のことは "Its not him" ――描かれた彼のことではないということだ。


「Gマイナーにおける長方形の概念」[編集]

Vertical concept in G minor.jpg
ハンフリー・クロフォード (1978) 油彩、尿、ディーゼル燃料、キャンバス.

抽象非現実主義の先駆者として知られるハンフリー・クロフォードの初期の作品である。彼は美術界のゴリラとして知られ、自身のフロイト的観念への拒絶反応を探ることをライフワークとしている。自我と超自我は意味と概念の結合に押し潰されて巨大な意味のスポンジにしみこんでいく。なおクロフォードは本作に関連して「<空間>と<ドグマの主題>が適用されることで、<描写>における帝国主義的制約から逃れ自己の本質に到達できる」と語っている。

<ドグマの主題>は画面から容易に見つけ出すことが出来る。画面下部にみられる飛び散った赤い絵の具からはマルクス主義の死を読み取れる。中央の斑点はレーニンの頭であり、子犬がトラクターに押しつぶされて狂乱する子供の様に泣いているかのようだ。古いおとぎ話のように、描写の一つ一つに意味が込められているのだ。本作の動物的で熱狂的な筆致はプリミティブといってよいほど強烈で神秘的である。

左側には大きなバナナ状のモチーフが配置されている。マスコミの欺瞞――独りよがりな二枚舌――のメタファーである。ガンやゴシップ記者のような醜悪な寄生生物ともいえよう。

一般的にを踏むことは示唆に富んだ経験を得られると言われるが、本作の鑑賞でも同様の体験が得られる。まずは強烈な嫌悪感に襲われ、気分を害される。それから雑草に汚物を擦り付けてその場を去るだろう。端的にいえば、始終不快なのである。

関連項目[編集]

Wikipedia
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Potatohead aqua.png アンサイクロペディア特集記事
本項はアンサイクロペディア英語版メインページで特集されました。