ググルカス

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ググルカス(Gugulecus、A.D.107年10月13日~没年不明)とは、真性ローマ帝国五賢帝期の図書館司書、インドクシャーナ朝宰相、旅人。まだ見ぬ叡智を求めて東西を奔走したその人生は、4世紀中ごろまで古代ローマ人にとってロールモデルの一つであった。

生い立ち[編集]

既にローマ市民権を得ていたガリア人の夫妻の子として、マッシリアに生を受ける。父は傭兵より身を立てた軍人で、母は有力市民お付きのメイドであった。髪が長いガリア人であるのにも関わらず、生後半年経っても髪の毛が1ミリメートルほどしか生えなかった。あたかもローマ人のような風貌であったことから両親は「を産んだ」と喜び、当時既に高名な知識人の規範であった人物であるGUGULECUSの名を与えた。しかしガリア人特有の訛りによりググレカスと呼ぶ、または自称することは決してなく、ググルカスと呼ばれることとなった。

一族の上昇志向からググルカスはガリア人にしては異例ともいえる英才教育を受け、ローマに上京した上で学校にも進学した。クラスにおいて彼は生粋のローマ人生徒らにとって恰好のいじめのターゲットとなった。ガリア人のくせに偉人の名前を名乗って、悪びれもせずに間違った発音で名を名乗ることが鼻持ちならないとされたのである。

このような学校生活の中で、ググルカスはローマとガリアの言葉の違いやこのローマ社会に横たわる空気、さらには自らのルーツは何かという疑問について、並々ならぬ興味関心を抱くようになった。このためその名に恥じず学校図書室の常連であり、本の貸出記録は彼の名前で埋め尽くされた。

出世と挫折[編集]

上述の件からも伺えるように、ググルカスは彼の名の由来となったググレカスの偉業についてよく聞き及んでいた。ググルカスはその当時ローマに開館して20年と経たない世界最大の公共図書館と謳われたウルピア図書館で働くことを夢見るようになった。彼はよく学び、ローマ人知識層と対等に渡り合えるほどの知性を身につけた。願いは叶い、ググルカスはガリア人初のローマ市内の図書館司書となった。

職員となったググルカスは昼休みや勤務時間前後を利用し、ありとあらゆる疑問について調べた。しかし肝心の前述した事項については、どの棚にも彼の疑問に答える情報を持つ書物は無かった。休暇を利用してオクタヴィア図書館を始めとする市内の他の図書館を回ってみても、やはりこれといった書物は見つからなかった。仮に目ぼしいものがあったとしても、それはガリア人やその習俗を田舎者野蛮バカと書き立てたガリア戦記がある位であった。

司書になってから3年余りが経過した。ググルカスは一つの場所に固執することの浅はかさを知った。

書物を求めて三千里[編集]

それから1年後、ググルカスはまだ見ぬ書物を求めて旅に出た。

当時のローマ市民は頭ごなしに否定していたが、ローマで最も伝統と格式ある図書館、アトリウム・リベルタテイスで出会ったエフェソス出身のギリシア人によると、地中海の向こう側にはローマ市のあらゆる図書館が束になっても敵わない図書館がいくつも存在するという。ググルカスは船でアテネアカデメイア付属図書館、ペルガモン図書館、そしてアレクサンドリアムセイオンを7年ほどかけて回った。途中カルタゴにも立ち寄り、書物を探した。

しかしこれら全ての図書館に行っても、彼の求める書物は無かった。ググルカスは、一つの国や文化に固執することの浅はかさを知った。

ググルカスは再び旅に出た。今度はビザンティウムアンティオキアを経由しエルサレムへと赴き、ユダヤ人の知恵に触れた。彼らの取り計らいもあり、ググルカスは東の国境を越え、ローマにとっては敵国であったパルティアの都、クテシフォンへと向かった。図書館を訪れたのはもちろんのこと、さらには当時パルティアにおいて隆盛を極めていた拝火教ミトラ教信者らとも交流した。これらは彼に、更なる異邦への想いを駆り立てた。

さらに彼は東へと進み、最終的にはガンダーラへ到達した。ググルカスはクシャーナ朝の王であったカニシカ王に重用され、数年も経たずして宰相にまで上り詰めた。ググルカスは帰郷を決意するまで10年ほど宰相職に就き、彼の指揮によりガンダーラ中にローマ風の仏像が次から次へと建立された。また、インド南部からやってきた僧侶、ナーガールジュナとも深い親交を持った。ググルカスがまた持ち込んだ「来た、見た、買った」に代表されるローマ風の詩的表現は、般若心経を筆頭とする大乗仏教の諸経典の成立に多大な影響を及ぼした。

ググルカスは何かを得るどころか、何物も失った。そして彼は何かを得た。ローマへの帰路の途中ロードス島にて、彼は青い鳥が北西へ飛んでいくのを見たと伝えられている。

遥かなる旅路へ[編集]

ローマへの帰郷後、ググルカスは三度目の旅に出た。

ローマ半島を北上しミランウィンドボナを経由し、アルプスを越えてルテティアへと向かった。さらにドーバー海峡を渡り、ロンディニウムへと達した。そこから再び船に乗り、現在の北アイルランドベルファスト沖に到達した。地元のケルト人の歓迎を受けたググルカスはそこでいくつかの記録を残したが、彼の消息はここで途絶えている。

現在ベルファストでは、彼の最後の言葉が以下のように伝えられている。

"PROPINQUUS PAGE QUOD PATEFACIO FENESTRA. ILLIC EST PUTEULANUS DIVUM QUOD EGO CERTE AGO."
ページを閉じて、部屋の全ての窓を開ける。青い空が見え、私は確かに生きている。

後世の評価[編集]

ググルカスはググレカスを凌ぐの求道者として当時のローマでは讃えられた。しかしこの雰囲気キリスト教徒は忌み嫌った。

4世紀後半、キリスト教がローマ帝国で国教となると、ググルカスが著した書物は神聖の教えに背くものとして、公会議を開くまでもなく真っ先に検閲により削除された。この背景には、キリスト教徒を迫害したディオクレティアヌス帝がググルカスに心酔していたこと、イエス・キリストを裏切ったユダヤ教徒と懇意であったこと、そして限度を超えた疑問を呈し、知を求める姿勢がヤハウェのお導きに反することが挙げられる。その後の長い暗黒時代は勿論、ルネサンス近代が到来しても、彼の存在は知られることはなかった。

考古学の発達によってこの状況は大きく変化した。19世紀半ばのアイルランドにて、飢饉からの復興を目的とした開墾予定地からググルカスによる大量の羊皮紙が発掘されたのである。しかしググルカスはググレカスと綴りが全く同じであることから、これらの資料は徳川光圀水戸黄門の関係のように、ググレカスの偉業に枝葉が付けられた伝説の一種であると考えられた。

ただ、これらの資料から伺える思想は当時のアイルランド、ひいてはイギリスにおける文壇の方向性を確立させた。GUGULECUSが既に知られたググレカスとは別の人物であると考えたオスカー・ワイルド幸福な王子を執筆し、GUGULECUSが100年余りの生涯を送った多重人格者であると考えたジェームズ・ジョイスは、フィネガンズ・ウェイクを著した。

その後、言語学の進展によって当時のラテン語から現代のロマンス諸語に至る発音の遷移が明らかになると、ローマ末期の時点で既にググレカスとググルカスの2人は混同して扱われていたことがわかった。実際のところカトリックによって禁書とされたものは、GUGULECUSの異端的な言動であった。それは、知を求める余り世界中を旅したエピソードであり、つまりはググルカスの存在そのものであったのである。

関連項目[編集]