クラウス・テンシュテット

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概要[編集]

クラウス・テンシュテット(1926-1998)とはドイツ出身のダークサイドハイテンション悶爆悶絶マジギレブチキレ最強最狂最凶指揮者のことである。特にキレまくったグスタフ・マーラーの演奏を始め自己劇化と自己陶酔の激しいドイツ・ロマン派の作品の指揮で評価の高い指揮者である。どうにも「キレイ」な伝わりづらいEMIのスタジオ録音のため「つまらん指揮者」と言われて来たが近年、例えば「音楽をやるホールじゃない」「劣悪な音響」と言われるロンドンのロイヤル・アルバート・ホールの残響ガンガンのままの音をほとんどいじらない「汚ねえ」ライブ録音などによって、その真価が初めて世間に伝わり再評価の機運が高い。と言っても全てに爆演をするのではなく、そうした演奏になるのは本人が作品に激烈なまでの変態的、偏執的な共感を寄せたときであり、本人も爆演指揮者だとは思っていない。基本的に縦の線はしばしば緩くなるが豊かな響きを作り出すロマンティックな指揮者である。

いきなりの挫折[編集]

「一流のオーケストラの演奏を聞いて見たいと思わないか?」第2次世界大戦中、ハレ管弦楽団でヴァイオリン奏者をしていた父ヘルマンはベッドの中で少年クラウスに問いかけた。

流れてきた演奏は当時、輸入が禁じられていた海外のレコードでストコフスキー・フィラデルフィア管弦楽団のブラームスだった。これが彼に音楽家になる事を決意させた。サッカーをやりたくて練習をサボる事もあったが真剣に音楽に打ち込み、ライプツィヒ音楽院を卒業し1947年に学友のクルト・マズアとともにハレ歌劇場に入団し、当時ドイツで最も若いコンサートマスターとなった。鼻息は荒く指揮者に対して「俺の方がうまくやれるぞ」と言い出す程であった。(どこかで見た話で確信ナシ)また日本の外交官の前でヴァイオリンを披露した事もある。(確信ナシ)そう、輝かしいキャリアがスタートするハズだった。

骨瘤。骨が隆起する病気である。あろうことかヴァイオリニストの命綱とも言うべき指の骨瘤であった。手術は不可能。彼はヴァイオリンを断念する事になった。インタヴューでは大したことないみたく答えたらしいが、かなり大したことあったようで絶望した彼は1年間引きこもってしまう。さるファンの方の情報によると、これが原因で最初の結婚生活は破綻したらしい。

いきなり舞台にたたされ指揮の道へ[編集]

その後のテンシュテットはピアノの腕もあって歌劇場で合唱や歌手の稽古をつける仕事についた。ある時ワーグナー・レゲニーの歌劇「お気に入り」(あるいは「追従者」)を指揮する指揮者が急病で倒れてしまう。歌手達と一緒に稽古をつけてきたのは彼だけで、いきなりオペラの指揮を任されてしまう。プレッシャーでほとんど欝状態の彼が演奏をスタートさせると案の定オーケストラは彼を無視して暴走。しかし、少しづつテンポが抑えられるようになり彼はこの仕事を生涯の仕事にする決意をした。

鬱屈、欲求不満[編集]

ハレ歌劇場、カール・マルクス・シュタット歌劇場、ラーデボイル州立歌劇場と中小の歌劇場の音楽監督を務める。この時期ドレスデン歌劇場の指揮スタッフも務め1960年にはインゲボルク・フィッシャーと結婚。1962年からはシュヴェーリン州のメクレンブルク国立歌劇場の音楽監督となるがそこまでだった。

彼は共産党員ではなかった。彼の住む旧東ドイツでは党員であるか無いかで全く待遇が違った。同期のクルト・マズアは共産党員で彼より早くシュヴェーリンの音楽監督となり既に名門ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督だった。また独裁体制を批判した内容のため東ドイツでは上演が禁止されたパウル・デッサウ「ルクッルスの有罪宣告」なども手がけたが制限が多く、思うように作品を上演出来なかった。回想で彼は東ドイツはオーケストラも作曲家も良いのは非常に少なかったと回想している。また彼のもとには録音の話が来なかった。彼はトラブルメーカーだったためレコード会社のなかでテンシュテットと仕事をしないことが業界内で暗黙のルールになっていた。政府からも信頼されておらず東欧圏をツアーした以外はベネズエラに出国したくらいであった。そうした状況下で彼は激しい欲求不満を抱え込むことになる。

亡命~満たされた日々~[編集]

彼は2年にわたり考え続けた亡命計画を実行する事になった。1970年に東ベルリンのコーミッシェ・オーパーに初めて客演しヘンツェのバレエ「ウンディーネ」を指揮したが、この放送をたまたま聞いたスウェーデンの音楽関係者が東ドイツに対しテンシュテットの客演を要請したのである。西側の強い通貨を欲した東ドイツは彼の出国を許可した。また役人の雑な仕事によって家族にも出国許可が降りてしまった。1971年、スウェーデンのエーテボリ歌劇場に客演すると彼は同地で亡命を申請した。彼は悲願を達成した。

エーテボリ交響楽団、ストックホルム放送響、ゴッテンブルクのストラ劇場などに客演を続けた。根無し草のフリーター指揮者のままだったが翌年インゲ夫人が偽造パスポートで西側に脱出したため安定した職を求め、1972年キールの音楽監督に就任した。客演なども積極的に行なっておりハンブルク・フィルやハンブルク歌劇場(だったと思ったが)またリオ・デ・ジャネイロでも指揮をした。彼は非常に満たされた生活を送る。サイクリングをしたりヨットに乗ったり、ビールの味も変わらないし、生活も特に良くなった訳ではなかったが。しかしこの安寧も長くは続かなかった。満たされていたはずの心に野心の火が灯るのである。それはカナダからやって来た。

カレル・アンチェルが糖尿病で亡くなった。家族をナチに虐殺され、祖国の動乱で故郷に帰ることを断念したトロント交響楽団の偉大な指揮者は遂に家族の元へ旅立った。ウォルター・ホンバーガーは同楽団のマネージャーであったため代理の指揮者を探すためヨーロッパに旅立った。そこでキール歌劇場のテンシュテットの業績を知るや彼の実演を聞くことにした。曲はアントン・ブルックナーの交響曲第7番。 1曲聞いただけでホンバーガーはテンシュテットをトロント響に客演する事を要請する。トロントでのベートーヴェンは大成功を収める。ホンバーガーは幾つかのプロモーターを同席させたが、その中であるオーケストラがテンシュテットに客演を要請したのだった。

アメリカン・ドリーム~50歳のシンデレラボーイ…じゃないジジイ~[編集]

その指揮者に関しては何の情報もなかった。経歴から何から全て不明だった。「オーケストラの貴族」ともいわれる名門ボストン交響楽団が全く無名の新人指揮者を招くことは非常に珍しかった。 1974年12月「その指揮者」クラウス・テンシュテットは初めてのメジャーオケにビビリまくっていた。リハーサルを始めたものの不安に駆られ自宅に電話をかけた。電話にインゲ夫人が出た。

クラウス「やっぱり俺には出来ない!!今から家に帰る!!」 インゲ夫人「頭がイかれたの!!?お願いだからそこで指揮してちょうだい!!!!」(この二人どこのバカップルですか?笑) 彼は指揮をする決意をした。彼女はまさしく彼の女神だった。演奏会は衝撃的なものになった。曲はブルックナーの交響曲第8番。(これはオケの意向により彼自身に決めさせた曲目である)ある新聞はこう書き立てた。

ブルックナー/テンシュテット/BSO/一世一代の名演(ones in a lifetime…超直訳だが「人生におけるすべての時間のなかで、ただ一度の…」)

この大成功の翌日から幾つものオーケストラが彼を求めて動き出した。彼は一夜明けたらスターになっていた。

名声と戸惑いと決断[編集]

1975年のタングルウッド音楽祭で「あの感動をもう一度」とばかりにブルックナー交響曲第8番を再演する。ドイツ系作品はテンシュテットに限ると言われる程の評判をボストンに於いて確立し、1976年、つまりアメリカ建国200周年、またベトナム戦争終結の翌年、50歳を迎えたテンシュテットは同楽団とベートーヴェンの第九を演奏した

1977年にはニューヨーク・フィルハーモニックに登場。プロコフィエフの交響曲第5番とマーラーの交響曲第5番をメインにしたプログラムでプロコフィエフではあまりの巨大演奏に第1楽章で拍手が沸き起こる。このニューヨークでの成功が彼の地位を確立する事になった。ある批評家は「ベートーヴェンやマーラー等の不滅の作品を振る指揮者を本当にもう一人必要としているのだろうか?」と問いかけ「その人の名がクラウス・テンシュテットならフォルティシモのイエスだ!!!」と絶賛した。更に77年末から78年初頭にかけ同地で振ったブルックナー交響曲第8番も大成功を収めた。ニューヨークに於いても絶大な信頼を築いたテンシュテットは1980年に同オケとツアーを敢行している。またニューヨーク・タイムズはテンシュテットをその生涯で2回にわたり年間指揮者賞に選出している。

またフィラデルフィア管弦楽団に客演した彼は感激のあまり涙ながらに楽員に語ったと言う。音楽家になる決断をするきっかけとなったのは幼い頃に父が聞かせてくれた同楽団のレコードだったからだ。そして彼は今、そこに立っているのだった。

イギリスに於いては1976年ロンドン交響楽団を降ってデヴューし、1977年にはロンドンフィルハーモニー管弦楽団を指揮。同楽団は直ちに彼と5年間の客演契約を結ぶ。レコード会社のEMIが彼に目をつけなんと白紙の小切手を渡した。同社は早速レコード制作に乗り出し、彼のLPOデヴューの際の曲目と同一のシューマンのピアノ協奏曲とマーラーの交響曲第1番をすぐに録音した(ライブに関係者が直接見に来ていて、余程衝撃を受けたのか……)。

ヨーロッパに於いても1976年にバイエルン放送交響楽団に客演。1977年にはブルックナー交響曲第2番を振って帝王カラヤン率いるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団にデヴュー。また帝王カラヤンがテンシュテットのマーラー交響曲第1番「巨人」の指揮を絶賛(ライブか録音かはわからない)ベルリン・フィルの後継者候補に挙げ、また自分と同一曲目振ることを許した唯一の指揮者となる。1978年のBPO客演の際の巨人の演奏がオーケストラに大変な感銘を与え、急遽BPOとの録音が決定した。曲目はシューマン最後の交響曲第3番「ライン」と同じくシューマンのコンツェルトシュテュック。遂に天下のBPOとの録音が開始される。

しかしテンシュテット本人は突然の名声に戸惑い「私は何者なのだろう?」と激しい自問自答を繰り返し、6分に1本タバコを吸い、酒を浴びるように飲み、成功するほど不安になって忍耐強いインゲ夫人に泣きついた。彼女は彼を安心させる神様であり旅行にはいつも付き添ったと言う。そして、恐らくキール歌劇場音楽監督の職を辞する事に対する不安もあっただろう。メジャーオケの呼びかけには応えたいけど客演が多くなりすぎれば音楽監督としての責務を果たせなくなる。リスクを犯しキャリアアップのために今の安定した地位を辞し、また家族を危機にさらし、再び根無し草の放浪するフリーター指揮者になるかどうか?彼は決断する。

1979年北ドイツ放送交響楽団首席指揮者となる。同年ミネソタ管弦楽団の首席客演指揮者に。また、翌1980年ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の首席客演指揮者になる。

彼はキールでの地位を捨てた。数年間の根無し草生活を経て、彼は再度賭けに勝利した。彼がキールでの職を辞したのは1976年だった。(このキール退任の年、同歌劇場でのR・シュトラウスの楽劇の放送録音があった気がする。退任公演?)同年、テンシュテットは突然の名声後、初めてマーラーを取り上げる(ミネソタ管弦楽団)。

マーラーは鏡である[編集]

テンシュテットがマーラーを初めて知ったのは43歳の時。以来、度々、取り上げておりキール歌劇場でも演奏していた。そして突然の名声が彼を襲った。激しい不安によるストレスや不摂生によって遂に体調を崩した。この時、テンシュテットはマーラーに覚醒したと言う。それまで知らなかったマーラーのスコアや伝記を読み漁った。「マーラーは信じないといけない」「忠誠を尽くさねばならない」と狂信的発言を繰り返した。テンシュテットは自身の苦しみをマーラーの苦しみ重ね合わせ、例えばNDRSOと血で血を洗う様な「巨人」「復活」を演奏した。かくてマーラーはテンシュテットの中核的なレパートリーとなっていった。

喧嘩の花道。しかも名門と(泣)[編集]

全てが順調に行くかに見えたが彼の性格もあって次々アクシデントが襲った。1981年3月、NDRSOの首席指揮者として西ヨーロッパツアーに出発。ところがパリ公演でのマーラー交響曲第1番「巨人」は血を吐くような悶絶激烈ダーク演奏だった(と、思われる)ため終演後「ブラボー」と「ブー」が同時に飛び交う大荒れ演奏会となったとか。その後、理由は定かでないがツアー中、事もあろうにテンシュテットとNDRSOは喧嘩別れしてしまった。テンシュテットはNDRSO側に一方的に辞職を通告、オケ、事務局を困惑させた。(何があったんだろう…) そして1982年にはオーストリアのウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に客演するが同オケと初共演で喧嘩となり、もう少しで演奏そのものも危ぶまれるところだった。公演は無事行われたが両者は二度と共演する事は無かった。またカラヤンのBPOとも当初から必ずしも良好な関係を築いていたわけでは無かったようである。ある海賊盤の紹介文によれば「演奏は尊敬され、人格は否定されていた」との事。またドイツの音楽関係者も必ずしも好意的では無かったようで、彼を信用せず幾つかのレコードはドイツで発売されなかった。それどころか、あからさまに軽蔑されるような事もあったようだ。

少年ジャンプか?ハリウッド映画か?[編集]

テンシュテットがドイツの名門と喧嘩しまくっている頃、もう一つのオーケストラが似たような状況に陥っていた。ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団である。彼らが尊敬する音楽監督サー・ゲオルグ・ショルティとの関係がうまく行って無かったのである。ショルティは管楽器奏者といさかいを起こし、即座にその奏者はLPOを辞職した。またツアーに於いて飛行機の席がショルティだけ特等席だった事が楽員の不信をあおり、あるシーズンに於いてショルティがロイヤル・フェスティバル・ホールでLPOを指揮する回数はたった6回であったとの事。

そんなLPOが目をつけたのがテンシュテットである。彼らはテンシュテットと深い関係を求めた。NDRSOの事もあって、寂しさもあったかもしれないが、テンシュテットは音楽監督の要請を喜んで引き受けた。そして伝説が始まった。当初、音楽監督就任は1982年の予定だったようだが、恐らく強引に辞職したNDRSOとの事もあったのか?就任は1年伸びた。(もしかしたらショルティの都合もあるかもしれない。)

1983年9月、クラウス・テンシュテットはロンドンフィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任した。お披露目公演はベートーヴェンの第九であり「フルトヴェングラーのようだ」と絶賛された。同月、EMIは就任祝い?としてブラームスの交響曲第1番、及びコダーイ「ハーリ・ヤーノシュ」プロコフィエフ「キージェ中尉」を録音する。相次ぐコンサートは大成功に終わり、チケットは次々完売した。彼らの黄金時代であった。

ロンドンにおけるオーケストラの環境は過酷であり、練習時間もなかなか取れず、国や放送局等がバックに付くようなヨーロッパのオーケストラとは違い経済的にも不安定で、しばしば三流扱いされる事もある。そんなオーケストラにドイツ物を得意にしてるドイツ人のクセにドイツの名門オケと喧嘩ばかりしてきたアウトサイダー、一匹狼の指揮者テンシュテットがやってきて圧倒的成功を収める。ある奏者は「彼ほどリハーサルから全てぶつけてくる指揮者は他に知らない」と、語った。また、ある奏者はシューベルトの交響曲第9番「ザ・グレート」に対して無関心だったがテンシュテットの指揮でこの曲に初めて反応する事が出来たため、感激したその奏者は「彼の解釈以外は受け入れられなくなった!!」そうだ。オケは彼をかけがえのない存在であるとし、彼は「ロマンティックなオーケストラ」とオケを讃え、相思相愛の間柄となり、その蜜月関係は世界のオーケストラから羨望の眼差しを送られた。

オケだけでなく聴衆も彼を受け入れた。ある時、イかれた格好をした兄ちゃんがロイヤル・アルバート・ホールにやって来て彼の指揮するマーラーの第6交響曲を90分もの間、身じろぎもせず聞き入っていたと言う。また、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」の演奏は聴衆に最大限の感銘を与えた。(しかし、ドイツ人は全く理解せず「こんなもの音楽じゃない」と否定したが)彼がしばしば見せる剥き出しの音楽への情熱をイギリスの聴衆もまた愛した。これはまるで少年ジャンプ(友情・努力・勝利)か?ハリウッド映画(「タイタンズを忘れない」的な青春物みたいな)か?と思わせるような雰囲気であったと思われる。このままクライマックスの大団円が待っている。そんな期待を抱かせるような。だけどハッピーエンドは来なかったんだ。

前兆[編集]

ドイツで不和ばかり起こすテンシュテットだが、彼はイギリスだけだなくアメリカに於いても絶大な人気を誇った。1982年のニューヨークフィルとのベートーヴェン交響曲第7番は聴衆に衝撃を与え、同地で長く語り草になるほどだった。最初の大成功を収めたアメリカを彼も決して忘れる事は無く、毎年年頭はほぼ必ずアメリカで過ごし北米のオーケストラをツアーして回った。そして彼は遂に1983年年末から1984年初頭にかけてメトロポリタン歌劇場100周年記念の超目玉として同劇場に登場。ベートヴェンの歌劇「フィデリオ」を大胆なカットを行いながら指揮した。パワフルで推進力に溢れた演奏に聴衆は開始直後から熱狂。特に第二幕第二場の直後の序曲レオノーレ第3番はヘヴィ、かつ激烈な演奏で、コーダ(終結部のクライマックス)では脳味噌の血管がブチギレる様なハイテンション演奏をしたため聴衆は理性を失うほど熱狂し、テンシュテットはオケを3度も起立させ彼らの熱狂に応えたが、拍手が鳴り止む気配がなかったため強引に第二幕第三場に突入した。この公演はテンシュテットが紹介される際には必ず触れられる程の大成功となった。EMIはこの凄まじい大成功を受けてか?同年5月にベートーヴェン序曲集をLPOの演奏で録音している。1976年にキール歌劇場を退任して以降、コンサート形式を除いてオペラを指揮する機会が無かったのは彼曰く、最低「二ヶ月の準備」が多忙のため取れなかったからだ。(オペラのためだろうか?続けていたカナダのトロント交響楽団への客演は1983年の1回を最後に途絶えた。)希望に燃えるテンシュテットはインタヴューで「1990年まで毎年オペラをやりたい。そしてロンドンフィルとグラインドボーンでモーツァルトのオペラをやりたい。」と語った。

その一方で彼の不安や心配は消える事は無かった。のしかかる周囲の期待、大舞台のプレッシャー…それを紛らわすため飲酒も喫煙も激しかった。酒を飲みながらできるだけ音楽以外の話をしたがった。

彼は天体観測の趣味を持っていた。そんな彼は星を見ることで自分の存在の小ささを確認する。「自分がちっぽけな存在であることを知るのは良い事です。」あるインタヴューに対し彼はそう答えた。

テンシュテットは常に限界まで自らを奮い立たせ全力でオーケストラと奮闘した。「テンシュテットは最も偉大な客演指揮者です。彼はどんなオーケストラも、その独自の方法で短時間に活性させる効能があります。」と当時、若手の急先鋒だったサイモン・ラトル(2002年よりBPOの音楽監督)は評価した。テンシュテットはあるマーラーの曲を指揮した後、顔面蒼白で足は蜘蛛のように曲がっていた。またバルトークの協奏曲の最後ではソリスト(独奏者)よりも疲れ果てていた。彼の友人達は率直に警告した。「そんな事をしてると長続きしない。」と。しかし、テンシュテットはそう言う安直な妥協をする人間とは仕事をしなかった。だが、友人達の警告は現実となって彼に忍び寄って来た。

1984年10月から11月にかけてテンシュテットは手兵ロンドンフィルを率いて全米ツアーを行なった。ロンドンでの音楽環境は先述したが、例えば彼がNDRSOの首席指揮者をしていた時、ひとつのプログラムに対しリハーサルは4回用意されていた(ギュンター・ヴァントは完璧を期すため6回のリハーサルを要求、テンシュテットもこれを認めた。ちなみに決裂したNDRSOの彼の後継者はヴァントだった。)。数はわからないがロンドンはもっと少ないであろう事は想像に難くない、またツアーとはしばしば過酷になりがちである。そしてこのツアーは全米で二十日間に十八公演を行うと言う完全なドサ回りツアーであった。彼は体力をセーブする事なく、いつも通り全力で指揮を行ない、これを完遂したが彼は遂に倒れた。時に1984年12月。ボストンでの衝撃的なデヴューからちょうど十年の月日が流れていた。それは危険な前兆だった。

「癌」告知[編集]

テンシュテットは何事も無かったかの様に回復し、元気に演奏を続けた。1985年に入り2月にはLPOとマーラー交響曲第1番「巨人」をそれまで以上に激烈な解釈で指揮LPOは時折、空中分解しかけながらも彼の指揮に食らいついて行った。5月にはのレオシュ・ヤナーチェクのグラゴル語を用いた過激なミサ曲「グラゴル・ミサ」を振り、管弦楽、合唱、独唱が一体となって燃え上がり、特にパイプ・オルガンは凄まじいドライブを見せ聴衆を圧倒したであろう事は想像に難くない。すべて今まで通り順調に思えた。だがトラブルがやって来た。

イースターにカラヤンとともにオーストリアのザルツブルクに行ったテンシュテットは、BPOを指揮してブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」を演奏した。だがドイツ圏での彼に対する無理解にここでも直面する事となった。「情緒的すぎる。」コンサートは悪評だった。テンシュテットはドイツ人に対して演奏するときは常に不安が膨らんだ。彼は自国の人々に理解されたいと願ったが、それはしばしば叶わなかったようである。それゆえピリピリしていたのかテンシュテットは夏のコンサートを怒りまかせに気まぐれキャンセルしてしまう。夏には大規模な音楽祭が控えておりエディンバラ音楽祭やBPOと出演予定であるザルツブルク音楽祭ではR・シュトラウスのオペラ「カプリッチョ」、マーラー交響曲第4番などの演目が控えておりこれを知ったEMIは失望を隠せなかったと言う。

適当な理由をつけてコンサートをキャンセルしたものの、音楽以外のものに大して興味の無い彼は全く心が落ち着かない状態だった。ノーマン・レブレシュトがサンデー・タイムズのインタヴューに訪れた時、彼はビールのジョッキをいじりながら答えたと言う。テンシュテットは「ロンドンの音楽シーズンには復帰したい。」と語りレブレシュトに何通もの手紙を見せた。そこには幾つもの歌劇場やオーケストラからの客演依頼が書かれていた。「フィデリオ」で大成功を収めたメトロポリタン歌劇場の音楽監督レヴァインからはR・シュトラウス作曲、オスカー・ワイルド脚本のエロ・暴力と背徳の限りを尽くした、もしマンガやアニメだったらどこかの都条例で規制されること間違いナシの楽劇「サロメ」を振るよう要請してきた。またワーグナーの15時間にわたる壮大な楽劇「ニーベルングの指環」を指揮する機会すらも与えられていた。ハンブルク歌劇場のロルフ・リーバーマンも同じくR・シュトラウスのオペラを振るよう要請して来た。それは彼が出来なかったコンサートだった。「自分自身をバランス良く制御出来れば、音楽史にその名をとどめそうなのだが…。」彼を不安に思ったレブレシュトは、その事を率直に記事にした。また、彼が記事のため写真を撮られる様を可哀想に思った。どうポーズを取らせても痩せてぎこちなくしか見えなかったからだ。音楽をしている時だけ彼は輝いて見えたのだった。

9月13日、LPOの音楽シーズンがスタートした。テンシュテットはロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで聴衆の前に姿を現した。曲目はベートーヴェンの第九。珍しく冒頭を最弱音で開始したものの最初の大きな合奏で一気に火がついた、展開部での激しい疾走。中間部の巨大なクライマックス。凄まじい表現意欲で伸縮を繰り返すテンポ。恐るべき推進力と巨大なスケールで第1楽章を終えるとビビッた聴衆が緊張から解放された安堵感から一斉に咳き込み、どよめいた。第2楽章ではのっけからアンサンブルが空中分解寸前となったが持ち直し壮絶な演奏を展開すると穏やかな第3楽章に入り、それが終わるとアタッカ(切れ目無く)で暴力的な第4楽章冒頭に突入した。そこには音楽に没入するいつものテンシュテットの姿があった。有名な歓喜の主題が出る部分では彼はその主題を鼻歌交じりで指揮した。パワフルな合唱が入りクライマックスでは古今東西からかき集めた打楽器が盛大に鳴らされ熱狂的なテンションでもって曲を閉じた。数ヶ月にわたり仕事を放り出した事が嘘のようであった。以前と何も変わらない。そう思わせた。素晴らしい日々は続くと誰もが疑わなかった。

ロンドンでの仕事に区切りがつくと彼は北米に向かった。彼はフィラデルフィア管弦楽団に客演し、兇弾に倒れたジョン・F・ケネディの葬儀で使用され一躍有名になったサミュエル・バーバーの「弦楽のためのアダージョ」を指揮していた。おかしい。彼は異変を感じた。喉にむず痒さを感じたのだった。たまたまコンサートに医者が来ていたので、早速、彼はその医者の診察を受けた。医者は喉に「出来物」を見つけた。癌だった。

一進一退[編集]

「私どもは充分希望を持っています。」かつてEMIでテンシュテットのレコーディングを担当し、今はLPOのマネージャーとなったジョン・ウィランは語った。すべてのコンサートをキャンセルし85年末に予定していたBPOとの録音を取りやめたテンシュテットは、自らが癌に冒されていることを公表した。医者はテンシュテットは「90%完治する」と言った。だが残りの10%は?彼とインゲ夫人は怯えた。レブレシュトに対し電話で「早く良くならなければ。」と語ったが声が出なくなる心配をしていた。数十回に渡る放射線治療を受け、医者は完治したと告げたが案の定彼の声帯は破壊された。生活も厳しい制限を受け、当然タバコは禁止され代用タバコとしてリコーリスの葉をかじった。しかしテンシュテットが最も気がかりにしていたのはコンサートだった。彼は86年3月にロンドンフィルと自らが愛するマーラーの交響曲第六番を振れるかどうかを最も気にしていたのだ。願いは叶った。ボロボロになった声で意思の疎通は難しくなったが、だがいつもと同じにテンシュテットは全力でリハーサルをしたはずだ。ロイヤル・フェスティバル・ホールには彼のファンが押しかけた。そこに居合わせたある日本人のファンはテンシュテットは舞台に登場して指揮台に上がるとそっけないくらいにサッとオーケストラの方を向いてしまったと言う。聴衆はまだ拍手をしていたのにだ。「余計な同情はして欲しくない」かのようにその方の目には写ったと言う。そして凄まじい演奏が展開され、満場の聴衆を感動させた。その日本人の方も「以前聞いた時よりもはげしい演奏」に感じられ、またかなりの疲労感に襲われたと言う。しかも同伴した夫人も同じだったと言う。それほどまでに激烈で緊張度の高い演奏だったのだ。

この年、テンシュテットは例年と違い年頭の北米ツアーは行わず、それどころかほぼ1年通して最愛のLPOとの演奏にあてた。時折、不安定な体調が顔をみせよくキャンセルすると言う噂がたった。しかし、それは時間の問題であると思われた。何故なら医者は「完治した。」と告げたのだから。6月にはイスラエルで60回目の誕生日を迎えた。テンシュテットは1978年以来イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団に度々客演しており、また、彼は同地で何の制限も無しで活動する許可を貰った最初のドイツ人となった。何故なら彼や彼の家族がナチスと何の関わりも無かったからだ。また9月にはロンドンでLPOとベートーヴェンの交響曲第7番を振り、そこに居合わせたレブレシュトはクレンペラー以来この曲がこれほど荘重に聞こえたことは無かったとし「忘れ得ぬ演奏となった。」と回想している。このまま順調に行くのではと思われた。だが。

1986年11月、テンシュテットはロンドンに於けるブルックナー・コンサート(交響曲4乃至8番)を突如キャンセルし緊急手術となった。完治したと告げられた癌が再発したのだった。

破滅。壊れる「こころ」[編集]

1987年初頭、何とテンシュテットは奇跡的に再復活を果たした。彼は強烈な意欲でもって例年通り北米を客演して回った。ところが3月のLPOのヨーロッパ・ツアーはキャンセルされフランツ・ウェルザー=メストが指揮した。何と彼に医師から1年間の休養命令が出たのだった。医師は彼の強烈な意欲のその一方で、その他のあらゆる面が限界を越えてしまっていることを把握していた。彼にとっては冗談じゃない話だったろう。昨年、LPOのコンサートをキャンセルして、今年しっかり北米に客演しておきながら、自分が音楽監督を務めるLPOを指揮する時になって医者が言ったから指揮できません。しかもこの先1年も。それじゃ音楽監督としての責任が果たせない!!彼は医師を説得し8月にプロムス(ヘンリー・ウッド・プロムナードコンサーツの略称)で1度だけLPOを指揮する許可を取り付けた。レブレシュトは後に著書でこう語っている。そして平凡な結末がやって来たと。

1987年8月。その日がやって来た。テンシュテットの体調は良く、吐き気がするので抗がん剤の投与は止めていた。医師はゴーサインを出していた。彼はインゲ夫人とともにリハーサル会場へ向かう車中で不機嫌だったが、いつもの事なのでこの心配は無視された。EMIで録音を行なった事もあるワトフォードのタウンホールに入った。昨年末以来、ほぼ1年ぶりのLPOである。オーケストラは熱烈な歓迎をし、テンシュテットは「今日は大変な緊張のもとでの指揮になる」と挨拶した。その通りだった。実に1年ぶりのテンシュテットの復活を彼を愛するロンドンが無関心でいるはずが無かった。

この「事件」のためにBBCはコンサートの中継をした。また、相次ぐライブの大成功に彼を冷たくあしらうことが少なくなかったドイツ人が再び興味を示し、「シュテルン」誌は特派員を派遣して来た。 曲目はサミュエル・バーバー「弦楽のためのアダージョ」、グスタフ・マーラー「さすらう若人の歌」、そしてメインはヨハネス・ブラームス交響曲第4番だった。心配されたリハーサルが開始された。ブラームスの第1楽章である。そこには誰にもが感じられる強い意思が感じられた。オーケストラの間に安堵の声が高まった。テンシュテットは「コーヒーを飲んで来る」と一旦、楽屋に下がった。その時だった。彼の心に突如亀裂が走ったのは。

「指揮台に行って、立っているだけで良いんです。あとは僕らにまかせて下さい!!」オケのメンバーが彼を励ました。

テンシュテットは再登場を拒んだ。

どうしても具合が悪く、指揮が出来ないと彼は言った。そんな彼に友人たちがかわるがわる声をかけた。ドイツからの特派員も絶望的だと思いつつ声をかけた。デイビッド・マルコーは起こるべき事態を通告した。インゲ夫人はジョン・ウィランの肩で泣き崩れた。その日、テンシュテットを見たいと会場に集まってきた聴衆が指揮台に見たのは、代理の指揮者ジェームズ・ロッホランであった。その2ヶ月後テンシュテットのロンドン・フィル音楽監督の辞任が決定された。LPOは彼を慰留したかったが彼の決意は固かった。しかしLPOもテンシュテットの不確実性に限界を迎えつつあったのも事実であった。彼らはテンシュテットが指揮台に立てない時、急遽代わりの指揮者を立てねばならないが、その指揮者によって死ぬほど退屈する事もあった。聴衆の信用も低下したはずだ。テンシュテットを好きではあるが「またキャンセルだろうか」と思うと会場に行く気は半減する。86年11月の彼がキャンセルしたブルックナー・コンサートを見た方の話(記憶で書きますが)によると、その代理の指揮者は全く見当違いの演奏をし、ガッカリしたとの事。

そして彼、クラウス・テンシュテットは1974年12月。あの、一気に有名になったボストンでのブルックナー以来、遮二無二走り続けてきた。激しい不安や心配で押し潰されそうになりながら、彼の心では重すぎるほどの期待を背負って。彼の夢だった。それは。あの鬱屈した東ドイツでは考えられなかった物が目の前にあらわれたのだから。だけど、それは彼に抱え切れる物では無かった。彼は自分に自信が持てない人間だった。常に自問自答し自分の才能に満足する事は無かった。その、弱い、小さな心を10年以上必死で保って来た。1985年、遂に肉体が悲鳴をあげた、そしてこの1987年の夏、とうとう心が悲鳴をあげたのだ。

再出発[編集]

ワーグナーの神髄~ブリュンヒルデの自己犠牲~後にそんな大仰なタイトルで日本国内で流通する事になるアルバムがロンドンのアビーロード・スタジオで製作されていた。それはワーグナーの楽劇・歌劇から名場面を抜粋した歌曲集で全6曲で構成されており、12月13日から18日の6日間にかけて録音が行われた。ペース配分的には1日1曲であろうか?

これは指揮台に立つテンシュテットの不安定な体調に配慮したものであろう事は想像に難くない。独唱は「天使の歌声」と言われ、ハンパでない声量を持つあのジェシー・ノーマンを招いた。また、EMIも万全の体制を敷き、いつもなら簡易セッティングのためか遠く聞こえていた弦楽器の音もしっかり収録した。EMIはスーパー一流オケのBPOはしっかり収録するが、LPOの演奏の場合はそれに比べると録音がやや手抜きである事が少なくなかったからだ。それだけEMIのテンシュテット復活にかける思いは強かった事がうかがわれる。それは演奏を担当するLPOも同じであったろうし、何より指揮台のテンシュテットこそ最もそれを強く望んでいたはずである。

第1曲の楽劇「トリスタンとイゾルデ」前奏曲からしてスケールの大きな、聞き手を官能の渦に飲み込むような演奏で不調は全く感じられない。「イゾルデ愛の死」でも息が短くなりがちなノーマンの声に合わせて行く(若干、いつものテンシュテットの息の長い音作りと齟齬を来しているが)。

歌劇「タンホイザー」からの抜粋でエリーザベトが罪を犯した主人公を助けるため、身を投げる場面で歌われる「エリーザベトの祈り」を豊かな、しっとりとした響きでサポートした。

圧巻は「神々の黄昏」の最終場面「ブリュンヒルデの自己犠牲」で、その内容はまず、騙し討ちにあい殺された恋人ジークフリートの亡骸に火を放ち、自らもその炎に愛馬グラーネを駆り立て飛び込むワルキューレ姉妹の一人、ブリュンヒルデ。そして彼らをハメたキービヒ家の屋敷は焼け落ちる。するとライン川が氾濫し、世界を支配出来るとされた指環をもともとの所有者であるライン川の妖精たちが彼らをハメたその首謀者ハーゲン諸共さらっていく、そしてジークフリートを焼く炎(火の神様ローゲ)はやがて天上のヴァルハラ城を飲み込み神々を焼き尽くす。要はほとんど世界の破滅を描いた様な音楽でテンシュテットはまさしくこの場面を悪魔的に演奏した。ブリュンヒルデの心情の変化に合せ、時に陶酔的に、時に不気味に。暗く、暖かく、濡れそぼった豊かな響きで。まさしくテンシュテットの面目躍如である。

特に後半部分の追い込みは凄まじい(若干、音はふやけるが)。ヴォータンの鴉にヴァルハラへ帰るように告げる場面の直前の管弦楽の巨大な物が宙を舞うような響き、ジークフリートを載せた薪に炎が広がる場面の弦楽器の厚みと急迫する凄み、ブリュンヒルデの激烈な感情の高まりに合わせて、胸が絞られるような響きを創り出し、彼女が炎に飛び込み訪れるカタストロフの場面では派手に金管を使わず巨大な情念のブラックホールを描破して見せ、ハーゲンがライン川に引きずり込まれる場面の冷酷さや重々しく怒張し、うねりたくるヴァルハラの動機、そして対照的な終結部の救済の場面まで圧倒的な演奏であった。

その強烈な音楽に、復活にかけるテンシュテットの意気込みを感じずにはいられない。あの夏の朝、他の何でもない自分自身に打ちのめされ、そして全てを失った。 根無し草のフリーター指揮者に逆戻り。それどころか指揮すらしていなかった。だが、長くコンサートマスターを勤めるデイヴィッド・ノーランを始め、彼を敬愛するLPOは「桂冠指揮者」の称号を送り、体調が良い時だけ指揮する約束で彼をつなぎとめた。また、80年代初頭、そのノーランは一時期LPOを離れ別の楽団に移籍した。その彼に絶大な信頼を寄せ、呼び戻したのは他ならぬテンシュテットだった。そして、今度呼び戻されるのはテンシュテットの番だった。彼自身も貧困への恐れ、そして意志の力で、もう一度音楽と向き合う事を始めていた。このレコーディングで、そのための手応えを、彼も、LPOも、EMIも感じ取ったはずだ。

そして、彼は再出発のために動き出す。

戦い[編集]

「マーラーの交響曲第9番のこれほど統一感のある演奏は滅多にお目にかかれない。マーラー自身これを聞いたら喜んだだろう。」

三度復活したテンシュテットは敢然と例年通り年頭の全米ツアーを開始し、フィラデルフィアとニューヨークの聴衆と批評家を驚倒した。ところがその時、またしても彼をアクシデントが襲った。カーネギーホールを出るとき、つまずいて片腕を骨折したのだ。だが、彼は屈しなかった。次のコンサートは片腕で指揮をした。テンシュテットのパワフルな活動再開の報はロンドンにも達したはずだ。5月には彼の指揮でリヒャルト・ワーグナーのプログラムが組まれていたのだから否が応にも期待は高まっただろう。果たして彼はロンドンで指揮ができるのか?ある熱狂的なテンシュテットファンは新聞の死亡記事欄に彼の名前がない事を確認すると、それだけで新聞を捨てていた。そして彼はロンドンフィルの前に、聴衆の前に姿を現した。両者にとって86年10月のマーラー交響曲第3番以来のコンサートで、実に1年7ヶ月ぶりであった(コンサートを除けばLPOにとっては87年12月のレコーディング以来ほぼ半年ぶりの顔合わせ)。

この日のプログラムの特徴は漫然とワーグナーの管弦楽曲を並べるので無く、ある意味交響曲風に並べた事である。第1曲、歌劇タンホイザー序曲(パリ版)は大団円を迎えず、激しい聖俗の葛藤を経てヴェーヌスベルクの酒池肉林の世界に転落したまま全てが未解決のまま最悪の結末を迎える。これを「第1楽章」とし、グランドオペラの影響の強い派手なマーチを伴う第2曲歌劇「リエンチ」序曲を第2楽章(恐らくスケルツォ楽章的な意味合いで)、楽劇「神々の黄昏」から「夜明けとジークフリートのラインへの旅」と「ジークフリートの葬送行進曲」を切れ目無くつなぎ第3楽章(明と暗のアダージョ楽章とでも言うべきか)とし、第4楽章(終楽章)に「マイスタージンガー」前奏曲を持って来た。やや強引ではあるもののベートーヴェンの第5交響曲に始まる伝統的な交響曲の「苦悩から歓喜へ」と言う気分的な流れを持っている。コンサートは大成功に終わり、満場の聴衆は普段のLPOからは決して聞く事の出来ない豊かな響きに感激したようで「マイスタージンガー」を終えると感極まった一人の女性が絶叫したそうだ。テンシュテットは歓声に応え何度も指揮台を駆け下り、駆け登るとアンコールに楽劇「ワルキューレ」からワルキューレの騎行が演奏された。この情報は日本にも伝わり、ある音楽雑誌は「現代医学万歳」の書き出しで彼の復活を讃えた。この情報は日本のテンシュテットファンに微かな希望をもたらした。なぜならこの年の10月に1984年以来2度目のテンシュテット・LPOの来日公演が控えていたからだ。しかしこの時、日本の多くの音楽関係者は、まだテンシュテットの来日を全く信じていなかった。

テンシュテットの最初の来日に於ける前評判は高かったとも無視されていたとも言われており定かではない。少なくとも神奈川県民ホールはガラガラだったとある批評家は証言している。日本ではテンシュテットはレコードによって初めて紹介された。しかし当時日本国内でEMIの権利を所有していた東芝EMIは彼の国内デヴュー盤発売前にレコード誌に大きな広告を出し、そのレコード誌が特集まで組んだにもかかわらず、1980年初頭に発売された彼のシューマンの交響曲第3番はあまり良い評判は無かったようで「雑なだけに聞こえる」「低域が浅く印象が悪かった」といった証言が残されている。また、日本の批評家の評価も分かれたと言われている。しかし、そのテンシュテットの来日公演が日本の聴衆に大きな衝撃をもたらしたのは疑いない。(検索すればいくつもの貴重な証言を目にする事が出来るハズ)ある批評家は「マイスタージンガー」前奏曲の異様なうねりはロンドンの貧相なオケとは思えなかったと証言しているし、特にマーラーの交響曲第5番は特別な感銘を与えた。「日本で演奏された最高のマーラー」「真剣を振り下ろすかのようだった」「フルトヴェングラーに続く巨匠が現れた」とこぞって絶賛した。ある批評家はテンシュテットに面会し「日本の聴衆がマーラーの交響曲にこれほど熱狂するのは珍しい事です」と伝え、「そう仰っていただいて嬉しく思います」とテンシュテットはその細長い体を二つに折っておじぎしたという。