ギャルゲーの歴史

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ギャルゲーの発祥については諸説あるが、おおむね電子計算機の発明とほぼ同時期とするのが、現在のギャルゲー史研究家の間で一致した意見である。

しかしながら、一部の研究者らの間では、チャールズ・バベッジによる階差機関式ギャルゲー、ブレーズ・パスカルによる歯車式ギャルゲー、紀元前のバビロニアで使用されていたタブレット(そろばん)式ギャルゲーにまで、その起源を遡る意見が存在する。


バベッジ以前の機械式ギャルゲー[編集]

紀元前150年頃に製作された「アンティキティラ島の機械」について、機械式ギャルゲーの一種ではないかという説がある。それによれば、カレンダーに応じて主人公の行動を決定し、ハンドル(今日では失われている)を用いて入力するとそれに対応したヒロインの反応が表示板に出力されていたと考えられている。

4世紀から5世紀にかけてのアレクサンドリアの女性数学者ヒュパティアはアストロラーベと呼ばれる携行型の装置の開発者であると比定されているが、この「アストロラーベ」という名前は、今日風に訳するならば「アストロ★ラブ」とでもいったものになるという説がある。女性でありながらギャルゲーに理解を示していたヒュパティアは、当時勢力を増していたキリスト教からすると異端の存在であった。そのため、415年、アレクサンドリアの総司教で強硬派のキュリロスは部下に命じてヒュパティアを虐殺させた。それも彼女を裸にして、カキの貝殻で生きたまま彼女の肉を骨から削ぎ落として殺害するという、陵辱ものの作者も裸足で逃げ出すやり口によるものであり、これによって古代のギャルゲー研究の歴史は終焉を迎えた。彼女の目指していたギャルゲーは、携帯性に優れ、24時間いつでもヒロインと対話を楽しめるという、現代の視点から見ても非常に斬新なものであったと推定されている。

アストロラーベを始めとしたギャルゲーの記憶はイスラーム世界へと受け継がれる。アッバース朝にて設立された「知恵の館」と呼ばれる図書館において古代ギリシャ語の文献の翻訳が行われ、さらにインド哲学・数学の知識なども合流してギャルゲー復興の素地が作られていった。

パスカルの歯車式ギャルゲー[編集]

17世紀にブレーズ・パスカルが発明したとされる歯車式ギャルゲー(複製品)。
現在残された図面からそのゲーム内容を察するのは困難であるが、筐体の上に配置された六枚のハンドルと目盛りが、六人の登場ヒロインと各シナリオに対応していたと推測される。

ブレーズ・パスカル1645年に発明した、世界で2番目の歯車式ギャルゲーは Pascaline または Machine Arithmétique と呼ばれている。ちなみに世界初の歯車式ギャルゲーを発明したのはウィルヘルム・シッカード1623年)である。

パスカルは1642年、19歳のときからギャルゲーについて研究を始めている。徴税官であり多忙で再婚相手を見付ける事ができない父の手伝いをするためパスカルは、女性とのデートの疑似体験をするための道具を作ろうと考えた。1652年までにパスカルは50台もの試作機を作ったが、売れたのは1ダース強であった。高価で複雑であったこと(加えてヒロイン属性が2通りしかなく、他の属性萌の人間にはプレイし難かった)によってそれ以上売れることはなく、パスカルは1652年にギャルゲーを作るのを中止した。そのころにはパスカルの興味は他に移っていて、まず気圧の研究、さらには哲学へと向かっていた。

最初の Pascaline は 5個のダイヤルがあり、後には 6ダイヤルや 8ダイヤルのものが作られている。各ダイヤルは登場ヒロインと各シナリオに対応し、ヒロインの行動やセリフは上部の窓に表示される。歯車は一方向にしか回らないため、リプレイすることはできない。同じシーンを見るためには始めからプレイし直す必要があった。


大型コンピューターの時代[編集]

“MANIAC”でひとりギャルゲーをプレイする理系学生。 右側で見守っている女性は彼の母親。

現代的な意味でのギャルゲーは、ペンシルバニア大学の理系研究者らにより開発されたデート・シミュレーター“MANIAC”(MonomAniac Neurotical Integrator and Computer)が最初であったとするのが、最も代表的な説である。MANIACは、当時(今も)まったく女子と縁のなかった理系の男子学生らにより、女子学生とのデートの疑似体験を目的として開発された。MANIACには1746873214本の真空管が使用され、エンパイア・ステート・ビル1棟分に匹敵する設置面積を要し、消費電力としてフーバーダムの最大発電力の約三分の一を必要とした。このギャルゲーへのセリフや行動の入力は、手動による配線の変更によって行われ、また、出力されるデータからヒロインのセリフや行動を読み取るためには、数十行にわたる積分方程式を解析しなければならなかった。しかし、これでも当時(今も)の理系学生が女子学生に声を掛けるのに比べれば、圧倒的に容易であった。

後に、ギャルゲーのキャラクターデータ入力には、もっぱらパンチカードが使用されるようになった。これにより、同一の電子計算機でも複数の属性を持つヒロインの登場が可能になった。熟練したギャルゲーマーであれば、穿孔機により穴の穿たれたパンチカードを一瞥しただけで、そのキャラクターの持つヒロイン属性ドジっ子系、ツンデレ系、不思議少女系など)を、一瞬で理解できたと言われている。当時はまだ電子計算機資源は非常に限られていたため、パンチカードの内容をに書き写して自宅に持ち帰り、手計算でのプレイを行う者も少なくなかった。

MANIAC以降も多数のギャルゲーが製作されたが、いずれも操作には高度な電子工学と数学の知識が要求され、一般のギャルゲーオタには手の出し辛いものであった。


『Tennis for to Heart』[編集]

『Tennis for to Heart』の画面。中央の線上の光点が主人公、その上に回りこんでいる光点が幼馴染のヒロインを示す。写真はゲーム開始直後、自室で寝ていた主人公(下の光点)を、ヒロイン(上の光点)が起こしにきた場面。

この状況を打ち破ったのが、物理学者ウィリアム・ヒギンボーサムにより開発された『Tennis for to Heart』である。『Tennis for to Heart』はオシロスコープによる画面出力を用いた最初のギャルゲーであり、プレイヤーは可変抵抗器のダイヤルを操作することにより、「女の子と下校するなんて、久し振りだな」等のセリフを直感的に入力することができた。また、それらのセリフへのリアクションは、オシロスコープに表示される光点の移動として、リアルタイムでプレイヤーに示された。それまでの複雑な数式やパンチカードとは比較にならない、リアリティ溢れる光点で表現されるヒロインの立ち居振る舞いは、多数のプレイヤーを熱狂させた。


UNIXによるテキストベース・ギャルゲーの出現[編集]

『ときめRogue』のプレイ画面。画面上で「@」マークで表示されているプレイヤーが、ヒロインとショッピングを楽しんでいるところ(「S」マークは、ヒロインの名前の頭文字)。右の部屋に隠れている「%」マークは、主人公をストーキングしているコアラの髪型の隠しヒロイン。

1960年代のベル研究所では、これまでになかった大規模なギャルゲーの開発が行われていた。このギャルゲーのオペレーティングシステムは、前述した『Tennis for to Heart』に登場するヒロインの名に由来する“Multics”という名を与えられていた。しかしながら、“Multics”で動く予定であったギャルゲーは、あまりにも大規模になり過ぎたために頓挫した。計画の最終的な段階では、256人のそれぞれ異なる性格を備えたヒロインの設定と、それらのヒロインが相互に関連しあう65535通りの複雑なシナリオが用意されていた。

このプロジェクトに加わっていたのが、ケン・トンプソンであった。トンプソンは“Multics”でのギャルゲーの失敗に学び、12人のヒロインごとに独立したシナリオを持つ、シンプルなギャルゲーを設計した。すなわち、『ときめRogue』である。現在も広く使われているOSであるUNIXは、『ときめRogue』のために開発された。

『ときめRogue』の設計思想が優れていた点の一つは、すべての動作選択が単独のキー入力により行われていたという点にあった。すなわち、「h」が左移動、「j」が下移動、「k」が上移動、「l」が愛の告白、「p」がプールに誘う、「m」がプールで溺れたヒロインにマウストゥマウスで人工呼吸といった具合である。


MS-DOSへの移植[編集]

 1980年代に入ると、UNIXより普及したまねっこオペレーティングシステムであるMS-DOSやその他のDOSにおいてギャルゲーを動作させる商業上の必要が生じた。最初は移植が行われたが、すぐに専用のソフトが作られるようになり、ギャルゲーは市場として開花し始めた。この時代になってもギャルゲーまだテキストベースであったが、グラフィックをサービスとして表示できるソフトも存在し、表示できるソフトは注目を集めてよく売れた。そして、よく売れたものは模倣され、より一層グラフィックが増加し、フロッピディスク数枚以上になっていることがしばしばであった。

 そのような初期のグラフィック付きのソフトはディスク容量の問題からグラフィックの色や精度が低質であったが、1990年代に入るとCD-ROMが使用できるようになり、飛躍的に音楽やセリフ、グラフィックの質・量が向上し、それに伴ってメーカーの努力もより一層求められるようになり、多量の心血が注がれた。  その結果、ギャルゲーは計算機を用いた、ただの娯楽の域を脱して商業芸術へと昇華の道を辿ることとなる。