カナーン・バナナ

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カナーン・ソディンド・バナナ (Canaan Sodindo Banana) はジンバブエの初代大統領である。自分の名前に関するジョークを禁止する法律を作ったことで有名。

大統領就任以前[編集]

バナナ1936年8月7日[出典 1]に誕生し、パプアニューギニア[出典 2]東南アジアインドを経由して[出典 3]東アフリカからバナナベルト上の国である南ローデシア (現ジンバブエ) に到達した。バナナはその土地で結婚し4人の子供をもうけ[1]、学校を出てからキリスト教メソジスト派の聖職者となった。

バナナは独自の「主の祈り」を発表してアフリカ人らに白人至上主義への抵抗を促したり[2]バナナ自らアフリカ国民会議の副議長に就任するなどして政治批判にも関わるようになった。そのためバナナは政府から目をつけられ、アメリカ合衆国へ逃亡しワシントンD.C.でしばらく奨学生として勉強をする。1975年バナナは帰国したが、国外からの果物の持ち込みだと判断され、空港にてすぐに逮捕、投獄されることとなった。1年後に釈放され、バナナロバート・ムガベの政党で活動していたが、「黒人の党にバナナとは差別的だ」という考えから再び逮捕された。

大統領在任中[編集]

バナナ1979年に釈放され、翌年ジンバブエの初代大統領に就任した。しかしバナナ自身は威厳があるように見せることしかせず、実際は首相のムガベが権力を持っていた。

そのため仕事も少なく、趣味に割く時間がたっぷりあった。当時、バナナは養鶏に興味があり首都ハラレの外に自分用の農場を持っていたが、「バナナ用の農場」で鶏を飼ったせいで、農場のバナナは鶏によって食べ尽くされてしまった。他にバナナは、サッカーの試合の審判、合唱団の指揮、テニス卓球をたしなみ、バナナはそれらのスポーツの選手からも愛されていた[出典 4]

バナナ1987年に、輸入税の生涯免除や、年金、車、使用人の提供など好条件の下に退職。次の大統領にはムガベが就任した。

退職後[編集]

1997年バナナの元ボディガードジェフタ・デュベが殺人の罪で裁判にかけられた。デュベには懲役10年が言い渡されたが、その際なんと、バナナの在任期間中である1984年から1986年の3年間にわたりバナナから強姦されていたと証言したのである。そしてデュベは、殺人被害者から「バナナの嫁」となじられていたという。

ある日デュベは、バナナとともに酒を飲んだり踊ったりトランプをしたり音楽を聴いたりした。その後、麻酔薬[3]を飲まされ、官邸の図書館のじゅうたんの上で強姦され、バナナをあらぬところに無理矢理突っ込まれた。警察に相談するも何の対応もなかった。デュベはあるとき、バナナにやめるよう求めたが「俺は最高裁判所だ (I am the final court of appeal.)」と言われ断られたという[4]

ジンバブエでは同性愛は認められておらず、10年以下の懲役を科すことができる。ムガベ大統領もホモセクシャルを嫌っていた。

バナナはでっち上げだとしてこの主張を否定したが、既に、バナナが1983年から1988年にかけて学長をしていたジンバブエ大学[5]の元学生数十人、バナナのサッカーチームの仲間、警察官、空軍将校などが告訴に加わっていた。さらに料理人、庭師、補佐官、求職者、ヒッチハイカーと行為に及んだ証拠まであった。そのうち空軍将校は、バナナが迫ってきたためプールに突き落として逃げたという。

1998年6月に裁判が行われ、バナナは判決の前に、ムガベが自分を暗殺しようとしていることを知り南アフリカ逃亡。当時の南アフリカ大統領ネルソン・マンデラに説得されジンバブエに戻った。同年、バナナは11の罪状で有罪とされ執行猶予つきの懲役刑を言い渡された。大学の教授職や聖職も失った。

バナナ2001年に釈放され、2003年11月パナマ病[出典 5]のため死亡。

脚注[編集]

  1. ^ 種ありバナナである。
  2. ^ なおバナナは一見黄色人種だが皮を剥ぐと白人という特殊な体質であったが、この際は有色人種として活動した。
  3. ^ バナナジンだと思われる。
  4. ^ バナナがすべりやすいことは有名である。
  5. ^ 後のバナナ大学 (http://www.banana.co.jp/index.html )

出典[編集]

関連項目[編集]

Wikipedia
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