オマーン

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オマーン国(おまーんこく、英:Sultanate of Oman)とは、アラビア半島の南東に位置する国である。首都はマスカット。絶対君主制を取り入れており、現在のオマーン国王(Oman国王)はカーブース・ビン=サイード(1940年~)。彼は18世紀より続くOmanの王朝、ブーサイード朝の第14代君主である。

国歌は「我々はOman国を称賛する」。

国王[編集]

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現Oman国王であり、スルタンでもあるカーブース・ビン=サイード王は、1970年にクーデターで父であるサイード・ビン=タイムール前国王から王権を奪取している。前国王はその後国外に追放され、2年後にロンドンで死亡。古いOman国王の死は、後述する新しいOman国王の業績にかき消されている。

なお、現在のOman国王にはOman後継問題が取り立たされている。これは、従姉妹と結婚するも、その後に離婚。以後は世界各国の首脳陣の中でも大変珍しい、独身を通しているためである。Oman国王が独身であることがいかに問題であるかは、以下の外部リンクを参照のこと。

外部リンク[編集]

首都[編集]

首都であるマスカットは、昔からインド洋交易の中継地点として知られる国際的な港湾都市であり、歴史ゲーム大航海時代にも登場。現在でもアラビア半島を経由する様々な交易の中継地点として発展し、Omanにおける国際的な港湾都市である。すなわち、Oman・国際港湾都市=マスカット、である。

開かれた港[編集]

Oman国の首都であり古くより知られた港湾都市マスカット(Muscat)は、紀元前2世紀からすでに知られた貿易都市であった。名前の由来は「谷間の美しいもの」。これは、マスカットのすぐ傍にOman国でもっとも高い山であるジャバールアクダル山(2980m)を含んだハヤール山脈がそびえており、その立地条件がアラビア半島では珍しい豊かな雨と涼しい環境を生み出したことによる。なお、葡萄で有名なマスカット(Muskat)は「麝香の香のする」という意味であり、都市の名前とは関係ない。なお、古来より知られたOman国の谷間の美しいものを狙って、ローマやイスラムといった世界の強国がいろいろとちょっかいを出してきた歴史が存在しており、大航海時代を迎えると、マスカットに西欧列強の毒牙が迫ることになる。そして1507年ポルトガルがマスカットを占領。140年にわたってOman国の美しき谷間を支配している。

その後、Oman国によって奪還されたマスカットはしかし、1832年に東アフリカのザンジバルにOman国が新しく首都を移転したことで急激にその価値を失ってしまうが、Oman国の国勢の衰えとともに再度首都に返り咲く。結局、20世紀にOman国とその周辺国に原油が発見されたことをきっかけに再度その国際港湾都市としての魅力を取り戻すことになる。

マスカットは現在、首都として6つの行政区に分かれており、Oman国の谷間の美しいもので知られた港、マスカットは現在、ムトラ行政区に位置している。そして、港ではない、新しくインフラ設備を整えたマスカット行政区に首都機能を移設しているため、首都のマスカットと港のマスカットが微妙に違っている。そのため、Oman国の中心の位置に微妙なずれがあると認識しなければならない。

政治[編集]

近年では珍しいといえる絶対君主制を維持しているOman国はしかし、サイード現Oman国王による諮問議会の設置や地方巡幸を通じてOman国民の掌握に努めた結果、その政権の基盤は安定していると言える。しかし、親米路線を表明しているOman国王に対して不快感を示す国もあり、特に反米主義の急先鋒であるイランとは多くの軋轢が生じている。中には一部、国際的な問題にまで発展しているものも存在する(Oman国際問題参照)。

地理[編集]

アラビア半島の付け根に位置するOman国は、国土の大部分が険峻な山岳地帯であり、砂漠気候に属している。さらに驚くべきことに、国内には河川というものが存在しておらず、ワジと呼ばれる水無し川が雨季の一定時期にのみ水を大量に流すような状況である。つまり、一年を通してOman国はほぼ干上がった状態であり、そのうちのわずかな時期にしか水っけがない。

しかし、わずかに存在するオアシスを中心に約1割の国民が農業に従事している。Oman国農産品として最も有名なものはナツメヤシであり、また、主食としてジャガイモを生産している。乾ききったOman国でも、産み出されるものがある。

経済[編集]

現在、Oman国の経済を支えているのは原油である。Oman原油は1960年代に輸出が始まり、その後、一貫してOman国の経済を支える一大交易品であり、なおかつ、Oman国が絶対君主制を維持できる源であるとも言える。これは、そのほかの絶対王政を維持している国々、サウジアラビアブルネイ・ダルサラームなどとも共通している。これはある意味、Oman国はOman原油の下に存在している国だともいえる。

また、国際的な交易都市として古くより知られた首都マスカット以外に、Oman国第二の都市である港湾都市サラーラでも1998年から大型コンテナなどを扱い始め、近年ではコンテナ船の重要なターミナル港として知られる。Oman・コンテナターミナル=サラーラである。また、サラーラは古くから避暑地として有名であり、乾季の訪れとともに、各国から涼しいOman国を訪れるお金持ちの姿が見受けられる。また、観光名所としても知られ、Oman国に興味のある人々を世界中からひきつけている。また、サラーラは、紀元前のころから重要な交易品「乳香」の生産地としても知られる。歴史的に見ても、Oman国と乳香は切っても切れない中である。

国民[編集]

Oman国民の半数以上はアラブ人である。そのほかにも、バローチ人(イランからパキスタンにかけて暮らす国を持たない民族)や、イラン人、インド人(印僑)が多数存在している。なお、湾岸戦争以降、在留米軍の数が飛躍的に増えている。これは、それまでさほど問題とされなかったOman国民の定義の中に、いきなり白か黒かで考える欧米の文化が混ざったことを意味する。そのため、現在安定しているOman国がもし不安定化したら、Oman国を色や血で区別するようなことがないとも限らない。Oman国がいくら親米であったとしても、いや、親米であるからこそ、Oman国独自の文化を大切にすべきである。

歴史[編集]

Oman国が初めて史書に現れるのは紀元前2世紀。メソポタミア文明のアラブ人が定住した。その後、イスラム教が勃興すると同時にその勢力下に入り、主に国際港湾都市マスカットを中心とした、中継交易で栄える。しかし、大航海時代の到来とともに、Oman国にも不穏な時代が訪れ、Oman国は一時、ポルトガルに国際港湾都市マスカットを奪われることになる。しかし、ポルトガルが没落した後、現在のブーサイード朝の開祖である、アハマド・ビン・サイード1749年にマスカットを奪還。マスカット=Oman国を建国する。イギリスが世界帝国となっていく中で、Oman国はインド経済圏とアフリカ経済圏の間に位置するという地政学的な立地条件が幸いし、Oman国はその最盛期を迎えることになる。

Oman国を海洋帝国として、インド洋全域を商業相手にし、東アフリカに勢力圏を伸ばしたのが、現在でも大王と呼ばれ、国家の英雄でもあるブーサイード朝第3代君主、サイイド・サイード(1797~1856)。彼は、それまでOman国の中心地だったマスカットとペルシャ湾を中心とした交易に見切りをつけ、帝国主義の時代にふさわしく、外地に領土を持つことで国勢を高めることを決意。商業相手であった東アフリカの諸都市を次々と攻略する。Oman国に拡張の時が訪れる。さらに、当時、奴隷交易の中心地だった現在のタンザニアにあるザンジバル島に遷都。インド洋に確固としたOman交易圏を形成する。

大王サイイド・サイードの時代、Oman国は欧州列強と対等であり、大帆船団を組織して莫大な利益を上げていた。しかし、彼の死後、帝国は混乱。さらに、産業革命の後、世界経済の中心地がヨーロッパに移ることになると帆船による季節風に頼った交易が蒸気船による季節に関係のない交易に変化。Oman国は時の移り変わりとともに、徐々に忘れられた存在になっていく。その結果、Oman国は東アフリカの領土を全て失い、1891年イギリスの保護国となってしまう。Oman国は不遇の時代を迎える。しかし、第二次大戦後、世界が石油で動く時代に突入すると、一大生産地であるペルシャ湾岸にとてつもない富が集中するようになる。残念ながら、Oman国は産油国としては小規模だったが、海運の要衝、ホルムズ海峡を有するというその地政学的な意味合いは強く、Oman国の存在意義は再び重要度を増すことになる。前述した現国王カブース・ビン=サイードによるクーデターはその影響によって勃発したものと考えられる。なお、政権交代直後にマスカット=Oman国を現在のOman国に改名。翌1971年にはイギリスの保護国から独立し、同年、Oman、国際連合に加盟。Oman国王の立場が磐石なものとなった後に前国王は死亡。その後、サイードOman国王によって欧米よりの政策が次々と実施される。1970年代から80年代にかけてイラン革命とそれに続くイラン・イラク戦争でペルシャ湾が不穏になりかけた時期も、それを逆手に取る形で積極的に親米路線をとり、米軍基地を国内に呼び込むことでOman国内を安定化。Oman国内の米軍基地は、その後の湾岸戦争イラク戦争で大きな存在感を発揮すると同時に、Oman国に石油以外の外資を呼び込むきっかけとなる。実際、1998年に開かれたサラーラのコンテナターミナルは外資によって運営されている。そして、2000年に世界貿易機関に加盟。政情の不安定化に悩む湾岸各国を尻目に、アラビア半島における政情安定国として、Oman国はその存在価値を高めている。

交通[編集]

Oman国は、原油生産国であるため、ガソリンが安く、結果として車社会が発達している。また、鉄道網も整備されており、パイプライン敷設以前、重要な石油の輸送手段としてOman国の経済の発展に大きく寄与している。

また、Oman国が出資して設立された航空会社「Oman航空」が就航しており、主にイスラム世界を中心としてOman国と他国を結んでいる。

文化[編集]

料理[編集]

Oman国にはアラビア湾周辺各国から移住してきた民族の文化が混在している。そのため、色々な国の色々なテイストがOman国民の舌を刺激しており、中でもインド系の香辛料をふんだんに使った味は、現地でのアラビア系住民の味とミックスされることによって、これぞOman国の味、ともいえる様々な料理を生み出している。

世界遺産[編集]

Oman国には、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)が制定する世界遺産がいくつか存在している。Oman国際連合教育科学文化機関認定世界遺産の1つを紹介すると、バット、アル=フトゥム、アル=アインの考古遺跡群と呼ばれる、古代メソポタミア文明の銅産出地の遺跡と、その周辺に存在するいくつかの遺跡を紹介するものがある。これは、Oman国の文化にメソポタミア文明が影響をおよぼしていた大きな証拠であり、中でも、バットに存在していたネクロポリス(大規模墓地)では、Oman国の歴史の変遷に、いかにメソポタミアの文明が影響を及ぼしていったかが分かる様々な発見があり、特に墓石の形状の変化の中に、Oman国の生と死の文化の推移、Oman国の歴史を積み重ねを明確にしめしている。

この遺跡は、1988年に世界遺産に認定されている。

他にも、サラーラの乳香の生産地やOman国独自の水路文化などが世界遺産に任命されているが、残念なことに、1994年に認定されていたアラビアオリックスの保護区が、環境の悪化と、Oman国が密猟の取り締まりにやる気がなかったこと、および、保護区の90%を削減することを表明したことからユネスコは、世界遺産として重要な「顕著で普遍的な価値」が失われたと判断。Oman国は世界で始めて世界遺産の登録を抹消されてしまう。Oman国にその価値がなくなったと通達したこの発表に、世界中の有識者が悲しみのコメントを寄せている。

国際問題[編集]

現国王がクーデターを起こした際、後ろ盾となったのがイギリスであったことから、Oman国は1970年代から親米国としてイスラム世界に知られていた。また、戦略上の要地であるホルムズ海峡にも、飛び地として領土を持っていたため、1991年の湾岸戦争以降、アメリカにとってアラビア半島における数少ない親米国として、Oman国はその存在意義を高めることになる。近年のアラビア半島を中心としたいくつかの戦乱でも、石油の輸出が途切れずに続いているのはOman国の影響によるものが大きい。ただし、その結果として、反米を掲げる様々な国と不和が生ずるのは致し方なく、現在、ペルシャ湾対岸のイランとの国交がギクシャクし始めている。ただし、Oman国王であるサイード王の人気が絶大であり、また、国内の治安情勢も良好であることから、テロや外圧によってOman国が混乱することはまずない。ただし、Oman国には前述したようにOman国王の後継問題が存在しており、Oman国王の健康如何によっては、Oman国に暗い影が忍び寄るとも限らない。

日本とのかかわり[編集]

Oman国と日本とのかかわりはさほどあるとはいいがたい。もっとも、サイード現Oman国王の叔母ブサイマ王女が日本人の血を引くほか、有名な話として、日本人女性としてはじめてOman国籍を取得したスワーダ・アル・ムダファーラさん(旧名、森田美保子)がアザン・ビン・ケイス・プライベートスクールと呼ばれるOman国内でも有数の私立学校を設立するなど、Oman国と日本との間には、数少ない中でもそれなりの成果が生み出されている。

関連項目[編集]

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