エーリッヒ・ホーネッカー

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エーリッヒ・ホーネッカーErich Honecker, 1912年8月25日 - 1994年5月29日)は、1989年東欧民主化革命まで東ドイツにおいて最高実力者として辣腕を振るった人物。本名骨川スネ夫

一方では社会主義政権にあっては珍しく文化政策、特に音楽の普及に力を尽くした人物として知られる。「音楽を聴くことと市民を盗聴することは同じである」の文句で有名。

音楽家と革命家の両立[編集]

1912年に炭鉱夫の息子として生まれたホーネッカーは、劣悪な環境に育ちながらも、音楽についての天賦の才を持っていた。 一時は音楽家として身を立てることも考えたようであるが、周囲の反対によってその道を断念し、社会主義革命を目指す若き革命戦士として、1929年にはモスクワの国際レーニン大学に在籍することになる。しかしこの当時も音楽の道が捨てきれず、チャイコフスキーリムスキー・コルサコフラフマニノフスクリャービンストラヴィンスキーらロシアの作曲家の音楽を好んで演奏していたという。そんな彼を周囲は「音楽をする革命家」「革命をする音楽家」と呼んだのである。1931年にドイツに帰国するが拘束されたまま身動きがとれず、1945年のドイツの敗戦を待っていよいよ革命家として動き出すのである。

東ドイツ建国からベルリンの壁構築まで[編集]

1946年のドイツ社会主義統一党の結成と、続く1949年のドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国によってホーネッカーは政権の中枢に躍り出た。しかし彼にとって東ドイツの音楽は我慢のならないものであった。貧弱な交響楽団、力なく歌われる革命家、音痴どもががなりたてる「インターナショナル」、そのいずれもが繊細な美意識を持つホーネッカーにとって改革すべき対象であった。そのため当時のウルブリヒト書記長に、ベルリンの壁の建設を勧め、東ドイツ全体を巨大な音響装置に変えようとしたのである。もちろん壁は西側の堕落した音楽を聞かせないための遮蔽幕であったのである。かくして古今未曾有の音響都市「東ベルリン」が誕生したのである。誰もが歌い、踊り、そして喜びを分かち合う、それが1960年代から1970年代にかけての東ベルリンであった。かのエルビス・プレスリーも、ビートルズも、ローリング・ストーンズもこの地でのコンサートを夢見たのである。なお音楽の才能のない者が、東ベルリンでの猛烈な音楽教育に我慢できず、ベルリンの壁を越えて逃げ出すということがしばしば見られたが、ホーネッカーは音楽を愛するあまり、彼等の行動に激怒し、射殺を命じたことは有名である。「芸術か、しからずんば死か」である。

ブレジネフ・ドクトリン交響曲[編集]

1971年にウルブリヒトが書記長を退くと、ホーネッカーは名実ともに東ドイツの頂点に君臨した。そしていよいよ懸案であったすべての社会主義国を音楽でつなごうとする理想の実現に着手したのである。残念ながら偏狭な西側諸国の存在のため、ホーネッカーは「全世界」に向けての音楽祭を断念せざるを得なかったが、社会主義国同志での音楽を通じての連帯を側面から支援したのが、ソ連のブレジネフ書記長であった。彼は音楽性のないチェコスロヴァキア国民に懲罰として、1968年のワルシャワ条約機構軍派遣を実施し、音痴集団の交響曲「プラハの春」の演奏を断念させた。モーツァルトの思い出深いプラハで下手糞なチェコスロヴァキア人にわけのわからん音楽を演奏させるなど、ブレジネフにとって許しがたいことであったのである。世に言う「ブレジネフ・ドクトリン」とは、才能のない音楽を国家規模で行う場合、社会主義体制の面子にかけてそれを阻止する、という条項であった。ホーネッカーとブレジネフは音楽を愛する者同士として、心からの友情を深めた。ホーネッカーとブレジネフの強烈なキスシーン写真が出回っているが、この時のものである。一部にはホーネッカーの強烈な音楽愛好の影に同性愛的感情を見て取る者もいる。

シナトラ・ドクトリン狂想曲[編集]

しかしブレジネフとの蜜月の終わりは早かった。1981年にブレジネフが亡くなると、もはやソ連指導者に音楽についての理解者を求めることは出来なくなった。特に1985年にソ連書記長に選ばれたゴルバチョフは、音楽に関する理解力を全く持たなかった。それどころかホーネッカーを訪れ、ブレジネフ・ドクトリンを否定するばかりでなく、暗に音響都市東ベルリンの解体を示唆していたのである。ホーネッカーは露骨にゴルバチョフを忌避した。というのも、ゴルバチョフは「ベオグラード宣言」で「フランク・シナトラ」を持ち上げていたからである。特にゴルバチョフは、「カラオケで歌うシナトラの「マイ・ウェイ」はいいよぉ~」、とオッサンくさいことを言ったので、ホーネッカーはキレかかった。あんなシナトラのような下品な歌を歌うとは!「ベオグラード宣言」を「シナトラ・ドクトリン」と呼ぶのは、こういった背景があるためである。

夢のタンゴ・アルゼンチーノ[編集]

東ドイツの世論はシナトラ支持に染まっていた。何年も書記長をやりながら、音楽の動向に疎くなっていたホーネッカーはこの現状に慟哭した。「もはや私のいる場は東ベルリンではない」と悟ったホーネッカーは、1989年後任のクレンツに事後を託し、音響都市東ベルリンの巨大な防音装置「ベルリンの壁」の崩壊を見届けることになったのである。すでに音楽界に絶望していた彼は、ひょんなことから、タンゴ・アルゼンチーノの魅力にひきつけられた。いつかはブエノスアイレスの舞台に立ちたいとの思いからアルゼンチンに亡命を希望したが、ビザが降りず、しかたなく隣国チリで最後の日々を送ることになる。1993年、ホーネッカーは二度と東ドイツの土を踏むことなく、チリの首都サンチアゴのダンスホールでタンゴを踊っている最中に心臓発作で亡くなった。

善き人のためのソナタ[編集]

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社会主義政権の指導者であるホーネッカーの評判は、今日必ずしも好意的でないものが多い。しかしその一方で「監視国家東ドイツ」を作ったといわれてきたホーネッカーの政策が、公文書の公開により、より明らかになった面がある。それは諜報機関が行っていたといわれる盗聴や家宅侵入は、実は東ベルリン市民が自由に行っていた室内演奏を、諜報機関が音楽の訓育の一環として聞くものであったのである。すなわち諜報機関は、日頃から市民の音楽活動を抜き打ちで調査し、東ドイツにふさわしい技量を持たせるべく、さまざまな介入を行っていたのであり、音楽の上達を国策としていたホーネッカーの意向に沿うものであったのである。それ故、諜報機関担当者はうまい場所で盗聴できれば、極上の音楽がタダで聴ける仕事として世の人々の評価は高かったのである。「盗聴することとは素晴らしい音楽を聴くことである」のスローガンはよく知られている。それが東ドイツ国家の達成した偉大な成果であり、人はこれを「善き人のためのソナタ」と呼んだ。

関連項目[編集]