エクストリーム・タイタニック
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
エクストリーム・タイタニックとは、エクストリームスポーツの一つ。豪華客船を氷山などの障害物に激突させることで派手に沈没させて、そこからの生還を目指す。
生還者には毎試合ごとの脱落者(死者ともいう)の数だけポイントが与えられ、自身が脱落までに集めたポイント数で勝敗が争われる。なお競技者には試合中以外の死亡は許可されていない。
エクストリーム・タイタニックから派生した競技で、男女ペアが沈没寸前のタイタニックであれこれイチャイチャするシンクロナイズド・タイタニックという競技もあったが、男性競技者はラストで海中へと沈む演技が要求されるため、選手不足となり第一回大会以降は開催されていない。
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[編集] 競技団体の沿革
1914年以後、この競技はイギリス・ロシア・アメリカなどによるエクストリーム・タイタニック連合、ドイツ・オーストリアなどによるエキストレーメ・タイタニーク同盟と称する二大競技団体が主として主催した。
この時代の開催実績としてはドイツ系の団体が有名であり「エクストリーム・ルシタニア」などで知られる。アメリカでも「エクストリーム・エンプレスオブアイルランド」など競技実績があるが、アメリカの本格的な競技開催は約20年後の1930~40年代である。
1918年以後は両者が合流して国際エクストリームタイタニック連盟となったが、ブームが下火となったこともあり、競技の開催数は合併前に比べ一時激減していた。1939年から再び分裂し、イタリア・日本も参加して1945年まで頻繁に競技が開催された。南太平洋において大々的に開催された競技は世界的にも有名である。小学生の参加者が非常に多かった「エクストリーム・ツシママル」や、史上最大規模である「エクストリーム・ヴィルヘルムグストロフ」は特にエクストリームスポーツ史上に名を残す存在である。
その後はエクストリーム・タイタニック連合として再合併した。現在の連合本部はニューヨークにおかれている。
エクストリーム・タイタニックは開催に膨大な資金がかかることと、船舶への規制強化ため、1950年以降は開催数が大幅に減少していたが、より頻繁な開催を望む選手たちが別団体を立ち上げて「ポセイドンアドベンチャー」と呼ばれる同種の競技を開催した。この競技は現在までに二度開催された。しかし、こちらも資金不足のため次回の大会日程は未定となっている。
先進国での競技開催が激減した1945年以後も、スウェーデン、サウジアラビアやフィリピンなど各所で競技が開催されており、1945年以降の公式世界記録は、フィリピンで行われた「エクストリーム・ドニヤ・パス」とされているが、正確な点数は審判団が全員死亡したため不明となっている。
[編集] 普及のための活動
競技人口を増やす事でより多くのポイントを獲得することができ、競技が白熱するとの理由から、愛好者達は競技の普及に力を入れている。 中でも映画を媒体にした宣伝活動は有名で、1992年までに12本のタイタニックに関する映画が発表された。 しかしどれも泣かず飛ばずであり、競技人口はいっこうに増えなかった。 その事に胸を痛めたレオナルド・ディカプリオが1997年にその名も「タイタニック」という映画を製作し、世界的にヒットさせた。その要因として、ラストで繰り広げられる選手同士の駆け引きが非常にスリリングであった事が挙げられる。現実にもあのような駆け引きは頻繁に行われており、「親指タイタニック」においてはより現実に忠実に駆け引きが演じられた。 同映画により、競技人口は一時増えたかに思えたが、その多くはエクストリーム・船酔いに転向し、結局は公開前となんら変わっていない。 ちなみにこの映画も全米が泣いた映画の一つである
[編集] 用意するもの
以下のものがないと行えないので注意。
- 豪華客船
- 乗客
- 氷山(もしくは岩山)
- 海水
[編集] 制約
救命ボートの数は乗客の数を大幅に下回るものでなければならず、しかも何らかの致命的な欠陥がなければならない。
[編集] 有名な試合
1912年4月14日深夜にタイタニック号で行われた試合が有名であり、競技名もここから付けられている。スミス船長が1513ポイント(1522または1523という説もある)という成績を出して優勝したが、喜びの記者会見をタイタニック上で行なっている時に舟が沈没し、帰らぬ人となった。
1954年9月26日に函館近郊の七重浜沖で行われた競技では、洞爺丸が1139ポイント(それ以上の説が有力で確定していない)を叩きだした、これが国内最大の試合である。

