アントニオ・サラザール

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ポルトガル史上もっとも不幸な人物。
アントニオ・サラザール
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基本資料
本名 アントニオ・デ・オリヴェイラ・サラザール 
通り名 博士 
生没年 1889年4月28日 - 1970年7月27日 
職業 大学教授 
好物 神、祖国、そして家族 
嫌物 右翼、左翼、DQN 
出身地 サンタ・コンバ・ダン 
出没場所 教会・研究室 
所属 ポルトガル経済学会

アントニオ・デ・オリヴェイラ・サラザール(António de Oliveira Salazar、1889年4月28日-1970年7月27日)とは、ポルトガルホントは政治家になんぞなりたくなかったのにあろうことか独裁者(在任1932年-1968年)にまでなってしまった不幸な男である。

前歴[編集]

アントニオは敬虔なキリスト教徒であり、物心ついた時から成人するまでずっと神学校に通っており、神父の免許も取得したまではよかったが、当時聖職者の供給過剰(金で地位を買って、赴任した教会で信徒から莫大な献金を巻き上げることで儲けていた生臭神父が多く、ポルトガル経済に深刻な影響を与えていた)による大規模なリストラが行われていたため、真面目な動機で聖職者を志していたアントニオもまた、そのとばっちりを受けてその道を断念せざるを得なかった。そこで、神父には欠かせない金銭(神が願いを聞き入れて下さるか否かは献金の額にかかっているのは言うまでもない)の知識を活かしてコインブラ大学に進学。法学部であったもののなぜか経済学科を専攻し、そこで見つけた教授のコネによって同大学で講師として教鞭をとるようになった。が、その生来の敬虔さあまりに経済の仕組みをすべて神学にこじつけて解釈・講義したために学生たちにはちんぷんかんぷんで、あまり評判はよくなかったものの、どこか憎めない性格で人気者だったと言われている。

そんなのどかなキャンパスの外、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのポルトガルは、王位継承権を巡るブラガンサ王朝内戦とその果ての王制崩壊によって混迷をきわめており、共和制に移行してみたもののその実体は軍閥政権による独裁政治で、クーデターが起きたり起こされたり、成り上がったお山の大将が殺されたり殺したりを繰り返すばかりで、とても近代国家として存続できるような状態ではなかった。そんな中、お山の大将たちはアントニオの評判を聞きつけると「ぜひ、我が政権にご協力願いたい。財務大臣のポストを用意します」と誘いかけたが、アントニオは「独自研究に忙しいので」と断り続けた。

エスタド・ノヴォ[編集]

そんな中、1926年7月9日のクーデターで大統領首相に就任したアントニオ・オスカル・カルモナ将軍が「我が政権に協力してくれるね?」と(有無を言わさず銃口を突きつけつつ)懇願したために断り切れず、アントニオはしぶしぶ財務大臣に就任することとなった。しかし、アントニオは大統領に条件を突きつけた。「この私が財務大臣となったからには、ポルトガルの経済政策に関しては大統領権限をもってしても、それを中止させること、意見することを認めない」というもので、これが事実上の経済独裁の始まりであった。

が、ここで大統領を前に大見栄を切っただけのことはあったようで、アントニオは就任一年目から徹底した事業仕分けデフレ政策で、半世紀近く積もっていたポルトガルの財政赤字をすべて解消してしまった。もはや財政再建ってレベルじゃねぇぞ。その後も着々と有効な経済政策を打ち出し、国庫に金(Gold)を着実に貯えた(当時の通貨制度は金本位制であった)ため、ポルトガルのエスクード(escudo、通貨)はドルにも匹敵するほどの強さを誇るまでに成長した。Yen()? なんだねそれは?

……ともあれ、それらもろもろの功績によって1932年、アントニオは首相に就任、本当はさっさと大学に戻って学生相手にのほほんと暮らしたかったのだが、カルモナ大統領に(またしても銃口を突きつけられて)懇願されてはどうしようもなかった。そこで、アントニオは条件を強化した。「私のやることなすこと一切合切に対して、軍部に文句を言わせないこと。たとえそれが大統領であっても」を認めさせ、翌1933年に憲法を改正。すべての権限を国家の下に置くという「新国家体制(エスタド・ノヴォ)」を確立。これによって軍隊も国家に属するようになり、軍閥連中の武力にモノを言わせたワガママ三昧を全面的に規制できるようになったのである。さらに1936年には首相、財務大臣、陸軍大臣海軍大臣外務大臣を兼務するようになり、実質的な独裁体制を確立、三面六臂の活躍でポルトガルの経済・国防・外交における統制管理に辣腕を発揮するのであったが、いつの時代、どこの国であっても強力なリーダーシップを生理的に嫌悪する人々は存在するもので、ただ彼が独裁者であるという、それだけの理由で批判する者もまた、彼のファンと同じ数だけ存在したのは否めない事実である。が、アントニオにとっては世間の支持率などは国家権力同様にどうでもいい事でしかなかった。本当はさっさと引退して温暖なアルガルヴェあたりにでもに引っ込んでのんびりしたかったのだが、世の中が彼を必要としている以上、仕方なくそれに応えていただけの事なのだから、誤解しないで欲しいものである(そうした言動から、彼がツンデレであるとする説もある)。

第二次世界大戦[編集]

そんなアントニオの最大の危機は第二次世界大戦であった。当時隣国スペインではフランシスコ・フランコが人民戦線政府を倒して独裁体制を敷いていたが、フランコを支援していたドイツアドルフ・ヒトラージブラルタル攻略のついでに、アフリカに有力な植民地を有し、インドにも良港を持っていたポルトガルをも支配下に収めようとしており、フランコに共闘を持ちかけていた。アントニオからすればヒトラーはベンチャラが上手いだけの売れない画家上がりに過ぎず、ましてフランコはアントニオの大嫌いな軍人であり、ポルトガルの安定と安全を第一に考えると、手を組む事など論外であった。敬虔なカトリック教徒であるアントニオは、ローマ法王のお膝元であるイタリアと組みたかったのだが、当時のイタリアを牛耳っていたベニト・ムッソリーニは、アントニオの目から見れば無神論者かつ左翼であり、容認できる存在ではなかった。かと言ってイギリス歴史的同盟国ではあるものの、国教会の支配下にありカトリック教徒に対する差別が残存していたし、同じカトリック国のフランスは内政が脆弱だった。結局アントニオは「中立」を選択、アフリカの植民地で採掘した資源を連合国枢軸国双方に売りつつ戦況の推移を睨んだ。スペインが「内戦による国土と経済の荒廃」を理由に中立に回り(すなわちポルトガル本土決戦の懸念が薄らぎ)、大勢が連合国優勢に傾くとアゾレス諸島を連合国軍に貸したりして、アントニオとポルトガルは窮地を凌いだ。この時期、アントニオは片時も胃薬を手放せず、側近には「戦争が終わったら、こんな精神に有害な仕事は辞めてやる」と愚痴っていたという。

ちなみに第二次世界大戦では、日本はドイツ・イタリアと枢軸国を形成していたが、アントニオは両国以上に日本を嫌っていたと言われる。お隣りスペインのフランコは日本を「野蛮な国」として見下していたが、アントニオの場合はポルトガル人として、またカトリック教徒として、ヒデヨシ・トヨトミイエヤス・トクガワの国である日本を許せなかったという。

戦後のサラザール[編集]

「サラザール教授」「なんだね」「首相しようや」「うるさいわ!!」
1951年のアントニオの政界復帰 について、フランシスコ・クラヴェイロ・ロペスアントニオ

第二次世界大戦が連合国の勝利で終わり、戦後処理も一段落済んだ1951年に眼の上のタンコブであったカルモナ大統領が死去すると、アントニオは大統領選挙管理のため一時的に大統領を兼務し、フランシスコ・クラヴェイロ・ロペス将軍を大統領に擁立した。そしてロペス将軍が当選すると、アントニオは新大統領に辞表を提出し、教壇に復帰した。当時、西側世界の大学や研究所は冷戦を背景に、理系は核爆弾やら宇宙ロケット、文系なら東側の経済体制の分析やら地政学やら引っ張りだこだったが、さすがに戦前の財政再建で実績を持つ大物のアントニオの招聘には二の足を踏み、彼を受け入れてくれそうな酔狂著名な大学は日本のバカ田大学くらいしかなかった。当然アントニオは極東まで足を運ぶつもりは毛頭なく、なんとか田舎の小大学を説得して、そこの経済学教授として余生を過ごす腹づもりだった。

だが夢にまで見た教壇復帰はわずか数時間で終わった。待ちに待った初講義の最中、ロペス大統領が兵士の一団を連れて現れ、学生たちの目の前でアントニオを連れ去ったのである。呆然となる学生の前で兵士の一人が「ポルトガル経済のより一層の発展のため政界に復帰して頂くべく、サラザール教授を誘拐致しました」と釈明した。上述の語録は、この時アントニオとロペス大統領との間で交わされた会話である。

思想[編集]

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アントニオは経済学によって学んだ徹底的な合理性によってとことんまでジャイアニズムマキャヴェリズムを突き詰めたリアリストであり、自分の政策(主に経済統制と社会の安定)の障害となる以上はたとえ仲間であろうと粛清し、その反対に自分の政治とポルトガルに利する以上はたとえ敵であろうと優遇した。それは右翼であろうと左翼であろうと一切関係なく、どんな熱烈な愛国者であろうと、その行動がポルトガルのためでなければ断固として処罰し、その一方でどんな強烈な反政府主義者であろうと、その行動がポルトガルのためになるのであればどこまでも評価し、相応の報酬をもって報いたのであった。

「私はポルトガルの政治家であり、祖国を第一とすることが政治家の本分である。国民の税金で生活する以上、国家をよりよい方向へ導いていく義務がある。たとえそれが、彼らのお気に召すものでなかったとしても。」
アントニオ・サラザール について、回想

余生[編集]

そんなアントニオであったが1968年、ある日差しもやわらかな土曜日の午後、午睡していた彼はハンモックから転落、意識不明の重態となってしまった。その後2年にわたってアントニオの意識が回復する事はなく、折しも第二次世界大戦後の高度経済成長に陰りが差しつつあったとあって、再びポルトガルが混沌の坩堝に逆戻りかと思われた。しかしアントニオは在任中に周到な用意をしており、事故後速やかにマルセロ・カエターノが後任者に指名され、アントニオが完成させた磐石な国家運営システムもあってポルトガルが揺らぐことはなかった。その後意識が戻ったアントニオが、すでに権力の座から転げ落ちたことを察するのに時間はかからなかったが、周囲の部下が自分を気遣ってわざわざ偽の新聞(アントニオが未だ首相であるという仮定のもとに書かれた嘘新聞。発行部数1部)を印刷し、偽の命令書(もちろんこれも同じ設定のもの)まで発行するけなげさに、つい涙が出そうになったがそこは強がったまま知らないフリを続け、1970年7月27日、心安らかに息を引き取ったのであった。

「ありがとう……いろいろな意味で
アントニオ・サラザール について、遺言

しかしその後、1974年に軍部が起こしたカーネーション革命によってカエターノはブラジルに追放され、エスタド・ノヴォで築き上げたシステムもなかったことにされてしまった。その後のポルトガルの歩みはお察し下さい

経済学博士の奇妙な愛情[編集]

  • サラザールは40年間にもわたって独裁政権を維持した独裁者であるが、サラザール独裁政権下で処刑された国民は1人もいない。(暗殺を除く)独裁者といえば虐殺や粛正が付きもので、同時代の独裁者である伍長ヒゲだとか、後の世の独裁者である三代目のが自国民や他国民をやたらと殺し、政敵から同じ党の同志まで殺しまくったのと比較すると、サラザールの行動は不思議ですらある。
  • ヨーロッパ最貧国だとか、PIGS諸国筆頭だとか、経済や財政面でボロクソの評価をされ、万年経済危機と揶揄されるポルトガルであるが、それでもなお多少の信用があるのは、保有している金(Gold)の量がかなり多いことがひとつの理由になっている。この金を貯め込んだのはサラザールである。彼の経済学博士としての高い見識がなければ、ポルトガルという国の存在自体が危うかったかもしれない。


関連項目[編集]

Wikipedia
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