アテリイ

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アイヌ王者として君臨したアテリイ。

アテリイ(? - 延暦21年8月13日802年9月17日))は、平安時代初期のアイヌ(蝦夷)のである。

漢字表記は、「阿弖里為」・「阿弖留為」(アテルイ)であり、フルネームは「大墓公阿弖里為」(たものきみあてりい)。または悪路王(アクルイ)とも呼ばれる。通常は「アテルイ」が有名だが、正確には「アテリイ」なので、ここではアテリイで通す。


アイヌナショナリズムに目覚めて[編集]

奥羽国水沢の胆沢砦を拠点として、文化的にも異なるトルコ系またはモンゴル系の鮮卑チベット系の羌氐の系統である和人(日本人)の侵略・略奪行為に徹底的に反戦した偉大なとして有名である。

一説ではアイヌはインディアンの別系統の種族で、アルタイ語族の和人(シャモ)とは考えが相入れない存在だったという。

強制的に和人化させる日本人の理不尽な行為に、アリテイは盟友モレ(摸礼)とともに「俺たちはアイヌなんだ!!かつては弁髪をしたやつらの言いなりになることはないぞ!!」と叫んで、朝廷が派遣した目代を祭りに挙げて、蜂起したのである。

この報に激怒した桓武天皇は側近で盟友の和気清麻呂に「アイヌの蛮族はわが和人に謀反を起こしおった!!けしからんではないか。清麻呂よいかがすればよいか?」と問うた。

清麻呂は「私はこの問答を控えさせていただきます」といった。そこで天皇は藤原種継に訊いた。種継は「わがいとこの小黒麻呂を征夷大将軍に任じて、遠征すればよかろうと存じます」と述べた。そこで天皇は藤原小黒麻呂を征夷大将軍として、奥羽に討伐させた。

勇者アテリイの奮戦[編集]

こうして、小黒麻呂率いる二万の日本軍は、奥羽に向かったものの、現地は寒く、地形も複雑だった。京都育ちの小黒麻呂は「さ…さぶ~!!奥羽ってこんなん寒かった~?」とトンチンカンなことを言い出す始末だった。指導者がだらしないので、兵士たちも伝染してしまって「早よ、京都に帰りたいな~」と言い出したので、日本軍の士気は低下する一方だった。

一方、アイヌは情報に巧みだったので、アテリイはこれを聞いて「へっ!軟弱な和人どもめ、いたずらに漢化した挙句に、軟弱化したな」と言い、モレとともにゲリラなみに襲撃したのあった。

こうして、小黒麻呂率いる日本軍はアイヌ軍によって、ズタズタにされて多くの戦死者を出して、命からがらで小黒麻呂らは尾張国まで、全力で退却したのだった。

この不様な報を聞いた天皇は種継に詰問して「お前の一族の小黒麻呂はとんだヘタレだな!!!さあ、責任をとれ」と怒濤のごとく激怒したのである。

そこで、清麻呂が「陛下!種継どのに罪はありません。私の弟子坂上田村麻呂がおります。彼の先祖は匈奴系の劉氏であり、武勇はすぐれております」と進言した(間もなく、種継は早良親王一派に暗殺された)。

天皇はこれを喜び、田村麻呂を召しだした。田村麻呂が姿をあらわすと、身長は180㎝は超える大男で、並はずれた怪力の持ち主だった。

天皇に謁見した田村麻呂は「わが先祖は最強遊牧民族と謳われた匈奴であり、アイヌごときのアテリイなど、わが腕力と智謀で壊滅してみせます」と宣言した。そこで天皇は大伴弟麻呂を征夷大将軍に任じて、田村麻呂を征東将軍として、四万人を率いて遠征させたのである。

アテリイの壮絶な末路[編集]

胆沢砦にいたアテリイとモレはこれを聞いて「日本軍が何度来ようとも、俺たちの覇力で撃退するまでさ!」と息巻いて、その情報を探ったのである。

だが、アイヌのことを熟知した田村麻呂は弟麻呂に「敵方にわざと、わが軍は軟弱のままで奥羽に進撃していると、電波な情報を公開して下さい」と進言したのである。弟麻呂はその通りにしてアテリイ方にでたらめな情報を流したのである。

こうして、アテリイとモレたちは、その情報を鵜呑みしたばかりにその運命が決まったのである。田村麻呂の精鋭は匈奴をはじめ鮮卑の諸族の末裔で、その勇猛はアイヌの比ではなかった。たちまち、アテリイとモレは捕虜となった。

だが、田村麻呂自身も匈奴系のために、アテリイらの武勇に惚れていしまい、「どうだ?わしの武将にならんか?!」とスカウトしたのである。しかし、総大将の弟麻呂は顔を紅潮し、「勝手なことするな。それは陛下が判断なされることだ!」と叫び、強引にアテリイとモレは監獄車に閉じ込められて、京都まで連行されて送られたのである。

でも、田村麻呂は諦めずに天皇の前で「アテリイはわが国に欠かせない人材です。ここは官僚として登用すべきです」とアテリイらを庇って弁論した。だが、故種継のいとこである藤原内麻呂藤原一族は「アテリイらはわが国にとって、有害な人物である。ここでは斬首に値するだろう!」として反論を譲らなかった。

天皇も内麻呂に賛成しために、802年にアテリイとモレは、ついに河内国処刑されて、晒し首となった。

後に彼らを憐れんだ田村麻呂が、アテリイたちの石碑を建てて供養した。田村麻呂も、811年に54歳で病死した。

同時にアイヌの住民たちも、英雄アテリイの刑死を悲しみ、日本に対する憎悪が増大したという。

以降の仔細は、安倍貞任の事項を参照のこと

関連項目[編集]

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