わびさび

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動: 案内検索

わびさび(しばしば侘寂)とは、人間の特殊な感情の一つである。

霧は視界を制限し、孤独感をあたえる

概要[編集]

一般的に、「茶の湯松尾芭蕉俳句に見られるもので、日本人の伝統的な美意識と一つ」とされている。 「わび」は質素な佇まい、「さび」は人のいない静かな情景であり、このようなものを「嫌なもの」ではなく「良いもの」であると評価し好む感情である。

だが、日本において、これらのような感情をもつ者はマイノリティである。

「わびさび」とは、その意味合い上、「孤独」な状態と相性が良い。したがって、わびさびをしみじみと味わうためには一人でいる必要がある。ところがこのような者は、はたから見ると「友人恋人のいない人」「かわいそうな人」「つれない人」などとネガティブに評価される傾向がある。さらにこの者が子供であった場合、「うまく仲間に入れないんだ」として集団に溶け込ませようと社会的に「矯正」が働くことがある。「わびさび」を嗜好する者は自発的に「孤独」の状態になったはずが、なぜか集団から「孤立」したように扱われ、集団心理の影響を受けてしまうことが多いようである。結果、必然的にマイノリティと評価される。「わびさび」は孤独を嫌うものには理解されないのである。

松尾芭蕉について[編集]

「この道や 行く人なしに 秋の暮れ」

この俳句を現代においては「『私と同じ俳諧の道をたどる者はいない』という孤独を悲しんでいる」と解釈する者が多く見られる。しかし松尾芭蕉の俳句に「わびさび」が見られるというのなら、「孤独を悲しんでいる」とするのではなく「孤独を楽しんでいる」と考えるべきである。わざわざ「この道」を「俳諧の道」などと解釈しておきながら、「孤独=悲しい」などというマジョリティな感情で理解しようとするな。そう、芭蕉は「この道」を「わぁー誰もいない!こんな肌寒くて夕日に輝いた美しい枯れ木の道を他人に邪魔されずに見渡せるなんて!」とニヤニヤしながらスキップしていたのである。現に、辞世の句とされる「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」では、重複になるが、夢の中でかけ廻っている。もし芭蕉が「この道」を「俳諧の道」のつもりで詠んだのなら、芭蕉はナルシストである。「マイノリティな感情を俳句に詠むだなんて、誰もの作風を理解できないだろう。いや、わびさびは私だけのもの。私だけが理解していればいい。ああ、なんて孤独なんだろう。でもこんな特別な感情をもって生まれた素晴らしい私と、素晴らしい風景があれば生きていける!」

わびさびと環境[編集]

わびさびは古来より、夏の終わり、、夕暮れ、曇り空、などの環境条件と相性が良い。 古今和歌集においてもこれらを題材にした歌があり、通説では色ボケしたような解釈のなされるものも、実際はわびさびを味わっているだけの歌という場合もみられる。[要出典] ところが近年、地球温暖化によって季節のリズムが狂い始めている。猛暑のつづく夏から、夏の終わりや秋をすっ飛ばしていきなり冬がやってきたり、秋の最中に蝉が鳴きだしたり、体温調節ができずに体調を崩したりするような、わびさびの阻害要因が増えてしまった。地球温暖化に関する議論をざっと見通す限り、日本の優雅な季節感と伝統をうらやむ国連(米国)のテロリズムが原因と思われる。経済と犯罪がウリの合理主義国アメリカでは、わびさびのような曖昧でマイノリティーな感情は排除される。

さて、わびさびとは孤独な状態で楽しむものであるが、この性質を鑑みると「『一人でいる』という環境ならばどこでもわびさびを味わえる」とも言うことができそうである。これはまた、日常的に賑わっているイメージの強い場所が静けさに包まれている、というシチュエーションも関係しているようである。たとえば人であふれた花火大会会場では難しいが、全てのプログラムが終了し、次第に閑散としてくる様は美しく感じられる。片付けの終わった運営委員の話し声を遠くに聞きながら、いつもより暗く感じる夜景を一人、土手で眺めるのも良い。もしこれが今後二度と開かれない催しであったならば、その物寂しさは格別である。

しかし例外はある。人がいないからといって、動物でごった返しているような場所や鏡張りの部屋、殺人現場、墓場などにはわびさびは見出しづらい。緊張感はわびさびを遠ざける傾向がある。

桜の楽しみ方[編集]

桜を鑑賞するもっとも一般的な方法は、「花見」と称する宴会を行うことであると思われる。ところが誰がみても明らかなように、鑑賞者はすぐに「花より団子」状態に変化してしまうため、桜を鑑賞するのはホンの数秒ということがほとんどであると考えられる。集団で楽しむ形態はもとより、カラオケ、いつもより豪華な食事、泥酔、桜の損傷、裸踊りといったわびさびとは相容れない騒乱が起こる。あまつさえ、元鑑賞者らが去った後には大量に投棄された残留思念が二次会を行う始末。もはや「鑑賞」とさえ呼べない。なぜこんなことになってしまうのだろうか。

まともに鑑賞する方法として考えれば、一人で没頭して見るのが良いだろう。授業中、校庭の桜をボーっと眺めて教師に茶化されるのも良し。丘の上に一本だけある桜の根元に寄りかかり、花びらが舞っていくのを見ながらウトウトするのも良し。自宅の庭の池に散った桜を軽く踏んでキャッチュー、キャッチミーなどと歌うのも良し。このように、ゆったりとした風情のある楽しみ方ができる。しかし、これらは「風流」と呼び、わびさびとは区別しなければならない。わびさびには寂しさや哀しさといったものがあるが、風流には安らぎ・楽しさといった一般的な喜びの要素しかない。

ならば、わびさびを味わうのに適する方法は何か。 宴会のあった桜並木の外れにある場所で、誰も見ようとしないヨボヨボの桜木を晩秋の月明かりの下、または夜明けに残った小さく白いと並べて朝靄の中で賛美せよ。

わびさびの例[編集]

わびさびは過去の感情であるように思われるが、現代日本においてもわびさびを感じうる風景を見ることができる。 また風景のような視覚情報だけでなく、音楽や食事によっても感じることができる。 解釈しだいで五感を全て使って味わうことができる可能性がみられる。 もちろん、一人でしみじみ味わうこと。「誰かと楽しまなきゃ!」なんていう考えは欺瞞である。 また、誰もいないからといって服を全て脱ぎ捨てたり、アレをまさぐったりするのは良くない。 ほとんどの人間がもつ本能だが、エロスとわびさびは相容れないものである。

  1. 廃工場近くの道
    古くても新しくても良い。人のいない晩秋の曇った昼下がりに歩いてみる。錆びた機械、黒い液状の汚れがついた壁など殺風景なものが、一層さびしさを増す。工場のみならず、廃墟の風情に惹かれる者は案外存在するようである。しかしこういったロケーションを用いて、ありえないものをモチーフにした作品は日本人に慣れ親しんでおり、わびさびの阻害要因となる場合が多いのが悔やまれる。
  2. 霧は風景を分断する。管理の行き届いた遠くの街並みが一斉にぼやけたシルエットに変わり、人がいなくなったような静謐さを作り出す。朝方であれば、霧によってやや薄暗く感じられるために街灯をともす民家もあり、これが蛍のように点々と遠景に浮かぶこともある。
  3. 遠雷
    時折、遠くの山々からこだます雷鳴に耳を傾けよ。あとは風わたる草原、曇り空、東屋があればいうことはない。
  4. 矢野顕子氏によるピアノ弾き語り
    「SUPER FOLK SONG」「PIANO NIGHTLY」を参照せよ。幽玄な演奏である。「星の王子さま」でイ長調からイ短調への色合いの変化、「夏のまぼろし」の音の少ない冷気、「いつのまにか晴れ」のポツリポツリと消えていく音、「NEW SONG」の転調の流れと終止音にそれぞれ注意してほしい。無論、「夏が終る」を歌詞とともに味わうこと。
  5. 新居昭乃氏の楽曲
    メロディーや編曲において現実離れしたような清澄な曲が多く、孤独な美しい世界を容易に想像できる。調性感の少ない和声が物寂しい。枚挙に暇が無いので例は挙げない。
  6. 植松伸夫氏の楽曲
    Final Fantasy IIIやVを参照せよ。IIIには「故郷の村ウル」「アムルの街」「古代人の村」のように陽射しが薄れて色彩が灰色に近づく、寂れていくような描写が多い。Vでは「新しき世界」「はるかなる故郷」「親愛なる友へ」など、IIIのように色彩が減じるのではなく、曲全体がほとんど同質の愁いを帯びているような作品が多い。ドリアのIVやピカルディー終止が光を放っている。
    ちなみにIIIはDSではなく、FCの音源で聞いてほしい。インストが多く使える今となってはチープに感じる場合もあるが、少ない音源で地味に表現される音楽は、わびさびというものに大変よく馴染む。
  7. フェデリコ・モンポウの楽曲
    スペインの作曲家。鐘の響きや日本の俳句に関心があったとされ、楽曲にも影響がみられる。「内なる印象」や「前奏曲」、「歌と踊り」に注目してほしい。消えていく音、和音のセンスが切なくてさびしい。
  8. ガブリエル・フォーレのヴァイオリン・ソナタ第二番第二楽章
    フランスの作曲家。初めは8分音符主体のピアノに、穏やかに流れるヴァイオリンの旋律が哀しみを堪えながら下行していく。16分音符のピアノに変わると2小節ごとに転調しはじめ、悲痛なムードをベースに険しさと甘美さが交互に現れ、やがて複雑な感情をリセットするかのような星空、そして朝焼けが始まったところで終止する。
  9. 飲みかけで忘れていたホットコーヒー入りのカップ
    空気と同じぐらいに冷めてしまったコーヒー。湯気が無いと、香りの鮮やかさが褪せてしまったかのようだ。それでも少し口に含んでみる。ミルク入りならしつこく感じられ、ブラックなら余計に苦くなった気がする。いずれにしても不味く、空気の冷ややかさ、静けさを感じる一瞬である。もちろん、わびさびを手軽にしようといつまでも放っておくのは避けるべきである。これが原因で発生したものに関しては責任をもてない。
  10. アルファルファ+生ハム+チーズ+ライ麦パン
    こんなサンドイッチをつくってみた。妙な味がする。なんだか西欧の田舎町に来たかのような風味である。冷たく、さびしい空間が広がる。わびさびを味わえない者にとっては不味いだけである。チーズはとろけてはならないし、アルファルファをブロッコリースプラウトで代用してはいけない。それはただの美味しいサンドイッチだ。

最期[編集]

「わびさびと環境」において少し触れたが、わびさびは「最後」という状態に極めて強い親和性を示す。したがってわびさびを愛する者にとっては、最たる最後である「最期」は至高のわびさびではないかと思われる。こうして曇り空の下、風になびく草原にポツンとたたずむ東屋において、時折遠くの山々からこだます雷鳴に耳を傾けながら一人、死を迎える。

ところが死を迎えた後のことを考えてしまうと、最早わびさびどころではなくなってしまう。じわじわと身体が腐りお察し下さい。また世間では「孤独死」と呼ばれ、勝手にネガティヴな類型に数えられてしまうのだからいたたまれない。

関連項目[編集]