毘古尓庵
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
毘古尓庵(ひこ・にあん/ひこにゃん)とは、彦根城を居城とする武将である。
外見は中に人などいない猫だが、普段から二足歩行する事から「猫顔の城主」と分かる。
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[編集] 人生
[編集] 公表前
滋賀県が名古屋共和国からの侵略を防ぐ事を目的に、存在を密かにしていた。
霞ヶ関の理屈を振りかざす名古屋共和国軍(以下「名古屋国軍」と略す)が、大豊田連邦と称して三重県の一部(現イオン共和国)を侵略すると、危機感を覚えた滋賀軍は2007年に毘古尓庵の存在を明らかにした。
[編集] 2007年問題
滋賀軍は、2007年に「彦根城築城400周年」たるイベントを開催した。開催前から京都新聞や中日新聞を使って毘古尓庵の存在を公表していた為に、彦根に観光客が集まり、彦根75km圏内の名古屋や京都にも毘古尓庵が出兵した為、名古屋国軍は侵略の足止めを食らった。
しかし、イベントが終わると、毘古尓庵の教育係だった大阪民国の軍師が、「目標だった400年祭成功は、もう終わったろ。」とか「貴軍のおかげで毘古尓庵の性格は変わってしまった。」などのジャイアニズムを唱え、一時は幽閉される危機に立たされた。
名古屋国軍による侵略と分断工作を阻止する為に、三重軍(含東牟婁郡)と滋賀軍(含若狭)と福井軍は「東近畿三県同盟」を結んでおり、鈴鹿から草津に至る新名神高速道路(東近畿三県同盟では「新宮・名古屋・神戸」を意味する)を建設し、伊勢から敦賀に至る紀伊半島東岸~琵琶湖岸~若狭湾岸の連絡高速道路を整備した。このため、名古屋国軍は侵略する機会を再び逃した。
[編集] 人物
[編集] 芸
日本舞踊などの日本的な芸に磨きを掛ける反面、志村けん/萩本欽一/ビートたけしなど、有名人のネタをパクっている事も知られている。
[編集] 城主として
- 彦根城で生まれ育った井伊直政の子孫であり、現在の彦根城主で、いつも「井伊の赤備え」を着用している。
- 城内や城下の見廻りは暴れん坊将軍並みで、他国への外交の積極性は水戸黄門並み。でも二者に比べて周りで起こる事件の数は少ない。
- 毘古尓庵は「剣豪」と呼ばれるほどの剣捌きで、愛刀「爪楊枝」での必笑だんご剣は免許皆伝。見た目で相手を怯ませてから討つ。
- 団子や魚介類、柔らかい肉を好む。しかし勘違いして「猫缶」などを献上して斬られた家臣は何人もいる。
[編集] 影武者の存在
城内にもいるが、特に城下に数多く潜んでおり、基本的には本物本人との見分けが付かない。しかし中には尻尾があったり眉毛があったりと、一目瞭然な者も見られる。
なお城下にはロンドン生まれか東京生まれか良く分からん影武者もいるが、観光地に良くある風景ってだけであり、所詮は便乗である。勿論、毘古尓庵の人気の方が上である。
[編集] なぜ攻めないのか
前述通り、毘古尓庵は「剣豪」である。また「刺魔裟古尓庵(しま・さこにあん/しまさこにゃん)」や「威師陀美津尓庵(いしだ・みつにあん/いしだみつにゃん)」という重臣も持ち、滋賀軍の武力は名古屋国軍を上回るとも言われている。
しかし、彼は弱点を持っている。生まれながらの短足であり(まぁ出生不明だから小さい頃は八頭身だったかも知れんが)、実は彦根城の天守閣にすら登れないとも噂されている。
尚、長浜が率いる滋賀県は、名古屋・敦賀・大阪・紀伊半島を領土に収めて「大近江王国」を樹立する腹積もりだが、名古屋共和国を攻めるルートは、関ヶ原を経由するルートと、鞍掛峠と桑名を経由するルートがある。なお、桑名の近くには東海併合でも活躍したトヨタ車体進駐部隊とデンソー進駐部隊がある。
更に毘古尓庵や刺魔裟古尓庵の足では、峠越えに3日~6日を要すると考えられている。勿論馬なんか乗れっこない。
え…じゃあどうやって前述の全国行脚をしてるんだって?そこは…お察し下さい。
[編集] 名古屋共和国との密約疑惑
この弱点を見抜いたのが名古屋共和国である。彼らは様々な手を使って毘古尓庵に近付いており、巷では「ツンデレ交渉」とも呼ばれている。
[編集] ツン
- 工業県である滋賀県の外港は名古屋港と敦賀港だが、「滋賀県の工業製品の輸出入を名古屋港でやらせないぞ!」「トヨタの部品を作らせてやらんぞ!」という経済的圧力。
- 「招き猫を考えたのは確かに井伊直政と言われているが、彼が発案したのは東京の豪徳寺だろ!」と言うツッコミ。
- 「大権現様へのご恩を忘れたのか!」という、井伊直政へ顔向け出来ないぞ的な脅し。
[編集] デレ
- 彦根城への居住を保障。
- 大豊田連邦内への、彦根観光のアピール(特に名古屋の民放での土曜日の番組)。
- 好物の団子やエビフリャーを献上。
- 「四彦国道」の改良と年中無休化。これにより、四日市を「名古屋のポチ」から「彦根のポチ」に転換させ、甲賀工業団地の外港とする。江戸時代には、彦根から伊勢神宮へ行く際に、鈴鹿峠経由と四日市経由の2路線があった為、彦根にとっては「彦根藩の参宮道路を返せ!」という意味も含まれている。
[編集] 毘古尓庵の反応
悪くはないと風聞されている。特に徳川家康の恩恵で今に至っている事は、かなり効いたとも。
更に、既に関ヶ原の戦いで西軍だった刺魔裟古尓庵を消す約束をしたとも言われている。


