おいこら

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おいこら(「オイこら!」など表記は多数)とは日本で目上の人間が目下の人間を呼びつけたり叱ったりする時に使用されることが多い言葉。基本的に命令や高圧的な物言いと認識されることが多い。が友人同士でも使用されることもあり一概に目上から目下への言葉とは言い切れない。もっとも親しくない間柄や洒落が通じない場所では使用しない方が無難である。

発祥[編集]

「おいこら」とは元々は薩摩藩島津家臣とりわけ郷士身分の間で使用された言語である。薩摩藩は日本列島最南端ということもあり独特の文化があり、とりわけ言語に関しては「薩摩言葉」という方言とも人造言語とも付かない訛りが定着していた。NHK大河ドラマで役者たちが方言指導で一際苦労するのは薩摩言葉である。

後の薩摩言葉は隠密対策で他国の人間が直ぐに分かるように江戸期に積極的に造られた言語であり、幕府隠密は薩摩へ行く任務は「薩摩飛脚」と言って生還率が低いことで忌んでいた。薩摩藩は二重鎖国という状態で特別な許可がなければ薩摩藩士は他藩へ出掛けることはなく、他藩の者も薩摩藩には来訪不可であった。

(薩摩言葉 例・戦→ゆっさ 俺→おい おまえ→おはん)   

「おいこら」もこうした背景で誕生し使用された説が有力であり、薩摩藩の下級武士の共同体で主に上級の者、年長の者が年下の者を呼びつける際に使用したという。もっとも現在の命令形というよりも親しみを込めて親分肌の人間が使用したという。また薩摩上士が下級藩士を呼ぶ時もこれを使用したという。


明治時代に爆発的に広まる「おいこら」[編集]

戊辰戦争会津藩らを壊滅させ明治新政府を造った薩摩藩士たちであったが、その多くは近代中央集権国家の建設という明治維新最大のテーマをいまひとつ筋肉教育で理解していなかったらしく、「一番働いた士族が不遇なのはおかしい」として各地で士族の反乱が勃発する中で、遂に薩摩藩の士族身分たちも西郷隆盛を旗印に決起する。西南戦争である。

精強で知られた薩摩藩士たちであったが大将の西郷隆盛は自棄になった状態であり、更に乱勃発前に政府側が薩摩から近代洋式兵器の多くを撤収させており、旧式銃と刀剣主体で戦うことになった。それでも勢いは凄まじく新政府鎮台拠点である肥後熊本城を落城させるかという勢いを見せたが、具志堅用高が築城した天下の名城熊本城はこの猛攻に耐え援軍を迎えた。援軍に駆けつけた中には実戦経験豊富であった旧会津藩士が多数であり皮肉にも彼らはかつて会津藩らにした仕打ちをここで経験することとなった。

このような経緯を経て維新三傑の最後の一人、薩摩出身の内務卿大久保利通暗殺後は一部の薩摩閥を除外して政界からは伊藤博文山縣有朋ら長州閥が薩摩閥よりも権勢を振るうことになった。

こうなると下級士族出身の東京移住組は政界は勿論、長州出身の山縣有朋が牛耳った陸軍などにも出世が難しい状態となり結果警察組織に巡査階級として勤務することとなる。

当時は廃刀令が公布されていたが「刀は武士の魂」として日用品としての地位から手放すことに未練を感じる者が多く、警官になれば公然とサーベル帯刀が可能であった為に薩摩藩士は警官になることが多かった。

警官になれば当然、職務質問が日常茶飯事でありとりわけ「自分は元々武士である」という意識もあり自然と薩摩巡査は庶民たちに高圧的な物言いが多く、結果「おいこら」と呼びかける巡査があちこちで見られ、江戸庶民たちはこの言葉を学習した。

備考[編集]

現在でも夜中に都会のコンビニへいく受験生などが、深夜住宅地を独り歩いていると警官が職務質問などでこの言葉を使うことがある。公僕とは偉いのではなく庶民の税金で生きている云わば民主主義国家の隷僕なので、警察組織が捜査権や武力などの特権を持っているとしても公僕が庶民にこのような口調で呼びかけるのは「現代民主主義では非常識」と云わざると得ない。

関連項目[編集]